細い路に視える星

「……」
――――少し早いけど『リハビリ』が必要かも。
 3拍ほどの間合いを置いて琴美は声のトーンをビジネス用に切り替えて相手の情報屋に伝える。
「依頼募集の情報を集めたいのだけど」
   ※ ※ ※
 医療用コルセットを外して2日目。
 約1ヶ月の療養生活を終えた。
 普通なら日常生活で体を慣らしていくのがセオリーだが、琴美はセオリー通りに平穏なリハビリを選ばなかった。10日前に情報屋に依頼を出した。
 情報屋経由の掲示板で自分から探したコロシの依頼ではなく、情報屋から直接仕入れたコロシの依頼だ。足元を見られる金額は少なめ。それだけコロシのレベルとしてはハードルが低い。琴美の信条を借りて言うのなら、『想いを届けるのに相応しい仕事』だ。
 空の弾倉を差し込む。スライドをリリース。軽快に作動。引き金やボタン、レバーも問題無い。
 今し方、工作室と化している装填器や工具が並んだ部屋に置いた、窓を開け放った部屋で通常分解でのメンテナンスを終了した。
 部屋の中にクリーニング用の液体が放った鼻を衝く気体が充満している。寒い時期なのにサーキュレーターも稼動させて室内の換気を入念に行う。
 午前8時半。あと12時間で琴美の復帰戦が始まる。
 『代行業』を再開する仕事の第一戦。
 リハビリ『程度』の仕事とは認識していない。リハビリを行うのに適う『想いの伝達』だと認識している。その差異は意識の所在と覚悟の度合い。
 覚悟した人間の勝率は計算では求められない。
 自分が『代行業』を生業とする人間として『心に隙間が出来ていないか? 療養で腑抜けな肝に陥っていないか?』を確認。再認識。思い改めてプロとしての意識を高める。剃刀のように心を研ぐ。斧のような剛刃を腹に呑む。
 それを行うには標的は複数よりも、自分は追い込まれている、危機に瀕している、藁にも縋る思いで助けを請うような命の瀬戸際に立たされている独りだけの標的の方が適している。
 故に、リハビリだと思っているのは、ノリンコT―M1911A1の感覚を掴み直す為だけ。
 本命は自分の……琴美の命を脅かすような反撃に出る『殺すには惜しい強敵になり得る標的』を求めているのだ。
 過去に何度か負傷した際の経験からして自分の得物の感覚を取り戻すことなど造作も無い。さっぱりと療養期間を設けた上で発生した心の弛みを引き締め直す方が難しかった。
 午後8時半までの12時間。
 12時間後には現場で立っている。その直後に標的と見える。ちゃんと依頼人の想いを届ける事が出来るだろうか? 1発当たりたったの百数十円で取引される商店経由の45口径に全ての思いの丈を乗せて伝える事が出来るだろうか? 久し振りの仕事に心の一部が慄く。
 怖気ずく。
 恐怖を知る事や知っている事は大事なことだと、遥か昔に民生向けトカレフを使う女の殺し屋が言っていた。
 その女の殺し屋は感情を乗せない瞳で、コニャックの香りがする葉巻を横銜えにして創傷や打撲で満身創痍に壁にもたれかかる若い日の琴美に30口径の銃口を向けた。
 だが、心の底から恐ろしいと感じるとはどう云う事かを一瞬で、トラウマになるほどに琴美の心に刻み付けたその女性は不意に踵を返し、立ち去った。
 何故その女の殺し屋は自分を見逃したのかは知らない。
 敵でも味方でもなく、琴美の依頼人が殺せと命じて初めて殺し損じた標的。
 逃がしてしまった……否、実力不相応すぎてあしらわれてしまったのだ。技術的に成長したと思っている現在でもそのコニャックの香りがする葉巻の匂いを嗅ぐと膝が震える恐怖に陥る。
 ふと、琴美は自嘲気味に嗤う。
 あの時、トカレフ遣いの殺し屋に体の芯まで冷やされなかったら今の自分は存在しない。
 仕事をしくじった思いを臥薪嘗胆として努力する自分も居ない。若くして人生で最高の教師に出会ったのは幸いだった。
 恐怖を感じる。
 託されて人の想いを伝える。
 人間の憎念の深さを受け止める。
 殺し屋として一番鈍感にならなければならない部分かもしれない。
 なのに『人間の殺し屋として』、一番、忘れてはいけない部分だと思う。故に殺し屋ではなく『代行業』を名乗る。


 午後8時半。
 郊外に近い住宅街。隣町のベッドタウンが近隣に存在する。そのベッドタウンのニーズをこちらの町にも引き込もうと市が大々的に造成区画として整地し開発中の住宅街。疎らに新築の家が建つだけの、賑わいには未だ少し足りない、生まれたばかりの街。
 家々の外灯の他に舗装した道路に等間隔で電柱が立ち、その電柱に街灯が設けられている。……光源には困らない。
 寒い季節が訪れている。背中と腰に使い捨てカイロを貼り、ジャケットの上に黒いハーフコートを羽織る。スラックスの下に冬用のストッキングも忘れない。寒さに抵抗できない年齢なのではなく、体のケアを怠りたくないのだ。
 低温で血流が低下すればそれだけ判断力や反射神経も低下する。
 体が熱を求めて体温を上げようと、無駄なカロリーを消費して疲労が早く蓄積する。
 殺し屋以前に人間である琴美は、健康の維持とケアを怠ると途端に潜在能力が引き出せなくなる。自分の体を労わる事も出来ないようでは自己管理の欠如として『早く消える』。
 この世界で生き残っている殺し屋は、想像している以上に健康志向が高く修行僧のようにリズムの有る生活を心がけ、栄養士がアドバイスしているかのようにバランスの良い食事を摂り、休養を求める姿勢は欧米のビジネスマン並みだ。
 確実で迅速で丁寧な仕事を提供するには自分が万全で無いと達成できない。琴美は葉巻を吸うだけ不健康な部類に入る殺し屋だった。
 歩く。夜道。
 何軒かの入居する住宅を過ぎる。
 防犯カメラを設置するほどの邸宅はない。
 そもそも泥棒や強盗が押し入るほど、人口が密集していない。人口が疎らだと見通しが良く、どの窓からでも住宅同士が確認しあえる。邸宅を建てて入居したが、未だ壁は立てていないと云う住宅も多い。
 まだまだ『互いが見える、見通しがいいと云う防犯体勢』で充分な地区。
 時折寒い風に煽られる。スラックスと足首の間から冷たさが忍び込む。背中と腰の使い捨てカイロが有り難い。
 標的……依頼人の想いを伝える相手は2階建て洋風住宅に独りで暮らす中年男性。
 表向きはサラリーマンを吹聴しているが実際は同業者だ。依頼人はその殺し屋に親族を殺された人間。
 殺し屋を殺しても何も解決しないのに、殺し屋を殺して欲しいと執拗に依頼するのは表の明るい社会の人間の特徴だ。
 裏の世界では殺し屋は唯の機械で、その機械に命令を下した人間を殺すように依頼が舞い込む。裏の世界に不慣れな人間は矢張り、怨念の塊でのみ心が突き動かされていると再確認。
「…………」
――――気付かれたな。
 標的である殺し屋が住まう住宅の前に来る。
 その頃には住居に有る全ての箇所の電灯や外灯が点灯していた。
 これで何処に潜んでいるか一目で確認できなくなった。
 丁寧にもカーテンは敷かれ雨戸は開放されている。防音保温を前提に拵えられた二重ガラスが僅かな救い。少しは銃声が抑えられるだろう。壁材の中に埋め込まれたガラス繊維の厚みにも期待だ。
 静かにノリンコT―M1911A1を抜く。右手にダラリと下げる。既にコンディションワン。
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