細い路に視える星
無心。
空腹に食欲を加熱させる塩気の効いた脂が染み込むのを覚える。
空腹だから口に放り込んで味わうのか美味いから貪るのか解らない。解ることは本物のムニエルと云う物を食べた事がなくとも、自分が初めて作ったムニエルの方が魅力的だった。
全長30cmほどのバゲットを3本用意した。余れば朝食にと考えていた。
その考えは浅はかだった。忽ちの内に2本半を平らげる。20分ほど前に白い皿に盛り付けたムニエルは胃袋に消えて、皿に染み出た脂分すらバゲットを擦り付けて食べていた。
オニオンスライスを散らしたサラダのボウルは既に空。クルトンを多めに入れたコーンポタージュもあと一啜りで完食になる。
少々品が無いと思いつつも一啜りで終わるコーンポタージュにバゲットを浸して一雫の余りも残さんばかりにマグカップを空にする。
ただ食べるだけの機械に徹した自分が居た。放置しておけばムニエルを食べるだけの人生に終わるかと思う食事。
テーブルの上に食べられる物は何も無いと解った時に満腹を覚えたのだから呆れた物だ。そんな自分に苦笑。
食後の余韻を暫し愉しんだ後に、ふとキッチンに視線を振る。
「…………はあ」
――――そうなんだよねー。
食欲を優先しすぎて失念していた現実を目の当たりにする。
キッチンでは片付けるべき調理器具や調味料がそのまま放置されており、テーブルにも洗い物の食器が並んでいた。調理して食べるのは吝かではないが、その後の後片付けは苦手だった。
食休みにドリップ珈琲を淹れてビリガーエクスポートを銜えてキッチンの換気扇の下に立つ。
久し振りの『美食』を心で反芻。ビリガーエクスポートを悠々と愉しみながら、熱い珈琲で口の中の脂を惜しみながら流す。今夜の初挑戦のムニエルとビリガーエクスポートの相性が良い……つまり、ほんの少し脂が多かったと云うことだ。
このレシピは恐らく忘れないだろう。初挑戦で大成功に終わる。
好い一日の終わりだった。
※ ※ ※
医療用コルセットを装着した生活が2週間目に入り、漸く外してもよいと主治医から許可を貰う。
自宅で転倒した際に階段で強く胸部を打ったと、カタギの整形外科に飛び込んでの治療だ。
後ろ暗い闇医者を頼ってのことではない。堂々と保険証を使い、堂々と調剤薬局で湿布や鎮痛剤を処方してもらう。
経過は順調。
もう一週間か十日で骨の皹も消えるだろう。
久し振りに贔屓にしている情報屋が運営管理するサイトを覘く。普通はニーズや流行に対するセンサーは常に高めに設定しておくべきなのだが、経験則からして療養中も神経質に情報屋のサイトを徘徊しいている時ほど負傷回復は遅い。
それに自分は『代行業』を名乗ってはいるが殺し屋には変わりは無い。徘徊するサイトも非常に狭い。2週間程度の世間のズレは直ぐに挽回できる。
「…………?」
――――新人……じゃないよね……。
殺しの依頼だけが羅列した掲示板を見る。
次々と交渉中の表示が浮かんで次々と一覧から削除されていく。
画面に羅列される隠語だらけの依頼一覧。情報屋が管理運営し、仲介屋が手数料をもらって手配屋に連絡し依頼人と殺し屋を引き合わせる。システム上、酷い暴利が発生し、依頼人は足元を見られた金額が請求されるのはいつものことだった。
その殺し屋の掲示板が満員御礼に近い状態なのだ。
依頼を買う殺し屋がこんなに多いとは信じられない。
暗黒社会の比率から考えて殺し屋は少ない。
殺し屋を食い物にしたり、殺し屋をサポートしたり庇護する連中が見返りを求めて殺し屋を支持する事の方が多いのだ。暗黒社会は殺し屋だけの世界ではない。
新人が流入してくると一時的に掲示板が荒らされたように依頼が買い取られる場合が有るが、それを鑑みても動きが変だ。
暫し、仕事用の部屋でノートパソコンの画面を見ながら腕を組む。そしてカレンダーと時計を交互に見る。
もう直ぐ年の瀬も近い。金曜日になったばかり。時間は深夜1時。ネットの住人ならゴールデンタイムを謳歌する時間帯。
違和感。知らないところで知らない事が急激に蠕動蠢動しているような気味の悪さ。
考えても埒が明かないと堪らず、スマートフォンを手に取り、ブルートゥースのインカムを頭部にセットする。
情報屋の中でも特に『贔屓にしてやっている』使いっ走りのような扱いの人物に電話をかける。
そいつは、いつもボイスチェンジャーを使っているので性別年齢は不明だ。携帯電話の番号とアドレスも不定期で変更するので直ぐに捉まるか不安だったが、何とか繋がる。
「もしもし。『ノートの件で訊きたいんだけど』」
「……」
暫し開いては沈黙。
スイッチを切り替えるような硬質な小さな作動音がして相手の情報屋は喋り出した。『どうやら今日の声は最近流行の人工音声の青年男性』を用いるらしい。
「用件をどうぞ」
「単刀直入に訊くけど、殺し屋のインフレが始まるの? 表は選挙も議会も無いし、裏じゃ派閥抗争もシマの取り合いも大きな動きは無いのに掲示板に交渉中の札ばっかり……この2週間で何が有ったの?」
「……新規参入の組織が顧客の獲得に最安値で仕事を『買ってる』。そして旗揚げして日の浅い殺し屋に仲介」
抑揚の無い、無機質な、感情が窺えない合成音声がそう答えた。
然し、話の半分以上は見えてきた。
2週間前に商店からの依頼で競合店を襲撃したが、その頃には既に競合店と提携する新規参入を果たした組織がこの街に根付いていたらしい。
商店は自分のシマを守るために新規の競合店を攻撃しただけだが、実際は自分たち殺し屋界隈も脅かされる下地が出来上がっていたのだ。
2週間前が引き金ではない。
着々と競合店の上位組織は準備を整えていた。
2週間前に商店が琴美たちを嗾けたのはタイミングが重なっただけで他の界隈でも似たような問い合わせが殺到しているらしい。
麻薬、クリーニング、誘拐、運び屋などのいつもの界隈だけでなく死体の後片付けを専門にする清掃業や闇医者、果ては情報伝達だけが仕事の伝達屋までシノギが奪われそうな危機を目前にしているらしい。
古くからの有力な顧客はまだ誰も何処も靡いてはいないが、次代を継ぐ予定の新しい大口や成長有望な小組織、伸びしろが期待できる個人など新しく名前を売り出した『ブランド』が、新しく乗り出してこの街を狙う得体の知れない組織に乗っ取られようとしている。
新しい組織。
名前の知れない、姿も規模も解らない組織。
古くから存在する旧い人種には受け入れられない現象だろう。
必ず世代交代の時期はやって来る。
それが偶々、今なのかもしれない。
この後ろ暗い世界も新旧交代は常だ。琴美としてはタネと仕掛けがばれた今は何も怖くは無い。精々、自分の仕事が減るぐらいだ。
それも一過性で、情勢が安定すれば売り上げも回復する。次に覇権を握る組織が遣り手なら常に群雄割拠の火種を抱いているこの街を平定してくれるだろう。……勿論、新旧交代には混乱がつき物だ。
琴美は自分がその混乱の只中に真っ先に放り込まれる人間だという予感がした。
命は惜しい。それと同じく命を惜しんでいると『寿命が短くなる事態に巻き込まれる可能性が高くなる』と予感もしている。
覚悟もしていた……いつかこうなる事を。新旧交代は必ずしもファンファーレや号砲と共に行われない。
空腹に食欲を加熱させる塩気の効いた脂が染み込むのを覚える。
空腹だから口に放り込んで味わうのか美味いから貪るのか解らない。解ることは本物のムニエルと云う物を食べた事がなくとも、自分が初めて作ったムニエルの方が魅力的だった。
全長30cmほどのバゲットを3本用意した。余れば朝食にと考えていた。
その考えは浅はかだった。忽ちの内に2本半を平らげる。20分ほど前に白い皿に盛り付けたムニエルは胃袋に消えて、皿に染み出た脂分すらバゲットを擦り付けて食べていた。
オニオンスライスを散らしたサラダのボウルは既に空。クルトンを多めに入れたコーンポタージュもあと一啜りで完食になる。
少々品が無いと思いつつも一啜りで終わるコーンポタージュにバゲットを浸して一雫の余りも残さんばかりにマグカップを空にする。
ただ食べるだけの機械に徹した自分が居た。放置しておけばムニエルを食べるだけの人生に終わるかと思う食事。
テーブルの上に食べられる物は何も無いと解った時に満腹を覚えたのだから呆れた物だ。そんな自分に苦笑。
食後の余韻を暫し愉しんだ後に、ふとキッチンに視線を振る。
「…………はあ」
――――そうなんだよねー。
食欲を優先しすぎて失念していた現実を目の当たりにする。
キッチンでは片付けるべき調理器具や調味料がそのまま放置されており、テーブルにも洗い物の食器が並んでいた。調理して食べるのは吝かではないが、その後の後片付けは苦手だった。
食休みにドリップ珈琲を淹れてビリガーエクスポートを銜えてキッチンの換気扇の下に立つ。
久し振りの『美食』を心で反芻。ビリガーエクスポートを悠々と愉しみながら、熱い珈琲で口の中の脂を惜しみながら流す。今夜の初挑戦のムニエルとビリガーエクスポートの相性が良い……つまり、ほんの少し脂が多かったと云うことだ。
このレシピは恐らく忘れないだろう。初挑戦で大成功に終わる。
好い一日の終わりだった。
※ ※ ※
医療用コルセットを装着した生活が2週間目に入り、漸く外してもよいと主治医から許可を貰う。
自宅で転倒した際に階段で強く胸部を打ったと、カタギの整形外科に飛び込んでの治療だ。
後ろ暗い闇医者を頼ってのことではない。堂々と保険証を使い、堂々と調剤薬局で湿布や鎮痛剤を処方してもらう。
経過は順調。
もう一週間か十日で骨の皹も消えるだろう。
久し振りに贔屓にしている情報屋が運営管理するサイトを覘く。普通はニーズや流行に対するセンサーは常に高めに設定しておくべきなのだが、経験則からして療養中も神経質に情報屋のサイトを徘徊しいている時ほど負傷回復は遅い。
それに自分は『代行業』を名乗ってはいるが殺し屋には変わりは無い。徘徊するサイトも非常に狭い。2週間程度の世間のズレは直ぐに挽回できる。
「…………?」
――――新人……じゃないよね……。
殺しの依頼だけが羅列した掲示板を見る。
次々と交渉中の表示が浮かんで次々と一覧から削除されていく。
画面に羅列される隠語だらけの依頼一覧。情報屋が管理運営し、仲介屋が手数料をもらって手配屋に連絡し依頼人と殺し屋を引き合わせる。システム上、酷い暴利が発生し、依頼人は足元を見られた金額が請求されるのはいつものことだった。
その殺し屋の掲示板が満員御礼に近い状態なのだ。
依頼を買う殺し屋がこんなに多いとは信じられない。
暗黒社会の比率から考えて殺し屋は少ない。
殺し屋を食い物にしたり、殺し屋をサポートしたり庇護する連中が見返りを求めて殺し屋を支持する事の方が多いのだ。暗黒社会は殺し屋だけの世界ではない。
新人が流入してくると一時的に掲示板が荒らされたように依頼が買い取られる場合が有るが、それを鑑みても動きが変だ。
暫し、仕事用の部屋でノートパソコンの画面を見ながら腕を組む。そしてカレンダーと時計を交互に見る。
もう直ぐ年の瀬も近い。金曜日になったばかり。時間は深夜1時。ネットの住人ならゴールデンタイムを謳歌する時間帯。
違和感。知らないところで知らない事が急激に蠕動蠢動しているような気味の悪さ。
考えても埒が明かないと堪らず、スマートフォンを手に取り、ブルートゥースのインカムを頭部にセットする。
情報屋の中でも特に『贔屓にしてやっている』使いっ走りのような扱いの人物に電話をかける。
そいつは、いつもボイスチェンジャーを使っているので性別年齢は不明だ。携帯電話の番号とアドレスも不定期で変更するので直ぐに捉まるか不安だったが、何とか繋がる。
「もしもし。『ノートの件で訊きたいんだけど』」
「……」
暫し開いては沈黙。
スイッチを切り替えるような硬質な小さな作動音がして相手の情報屋は喋り出した。『どうやら今日の声は最近流行の人工音声の青年男性』を用いるらしい。
「用件をどうぞ」
「単刀直入に訊くけど、殺し屋のインフレが始まるの? 表は選挙も議会も無いし、裏じゃ派閥抗争もシマの取り合いも大きな動きは無いのに掲示板に交渉中の札ばっかり……この2週間で何が有ったの?」
「……新規参入の組織が顧客の獲得に最安値で仕事を『買ってる』。そして旗揚げして日の浅い殺し屋に仲介」
抑揚の無い、無機質な、感情が窺えない合成音声がそう答えた。
然し、話の半分以上は見えてきた。
2週間前に商店からの依頼で競合店を襲撃したが、その頃には既に競合店と提携する新規参入を果たした組織がこの街に根付いていたらしい。
商店は自分のシマを守るために新規の競合店を攻撃しただけだが、実際は自分たち殺し屋界隈も脅かされる下地が出来上がっていたのだ。
2週間前が引き金ではない。
着々と競合店の上位組織は準備を整えていた。
2週間前に商店が琴美たちを嗾けたのはタイミングが重なっただけで他の界隈でも似たような問い合わせが殺到しているらしい。
麻薬、クリーニング、誘拐、運び屋などのいつもの界隈だけでなく死体の後片付けを専門にする清掃業や闇医者、果ては情報伝達だけが仕事の伝達屋までシノギが奪われそうな危機を目前にしているらしい。
古くからの有力な顧客はまだ誰も何処も靡いてはいないが、次代を継ぐ予定の新しい大口や成長有望な小組織、伸びしろが期待できる個人など新しく名前を売り出した『ブランド』が、新しく乗り出してこの街を狙う得体の知れない組織に乗っ取られようとしている。
新しい組織。
名前の知れない、姿も規模も解らない組織。
古くから存在する旧い人種には受け入れられない現象だろう。
必ず世代交代の時期はやって来る。
それが偶々、今なのかもしれない。
この後ろ暗い世界も新旧交代は常だ。琴美としてはタネと仕掛けがばれた今は何も怖くは無い。精々、自分の仕事が減るぐらいだ。
それも一過性で、情勢が安定すれば売り上げも回復する。次に覇権を握る組織が遣り手なら常に群雄割拠の火種を抱いているこの街を平定してくれるだろう。……勿論、新旧交代には混乱がつき物だ。
琴美は自分がその混乱の只中に真っ先に放り込まれる人間だという予感がした。
命は惜しい。それと同じく命を惜しんでいると『寿命が短くなる事態に巻き込まれる可能性が高くなる』と予感もしている。
覚悟もしていた……いつかこうなる事を。新旧交代は必ずしもファンファーレや号砲と共に行われない。