細い路に視える星
全治一ヶ月。胸骨に微少の皹。肋骨4箇所に皹。
くしゃみをしても胸骨が傷む。寝返りを打つ度に冷や汗が出る痛みが走る。
自分の、文字通り胸で強烈な想いを受け止めた。確かに、この想いを頭部で受け止めれば命は無い。
無念ながら一ヶ月もの休業を余儀なくされる。
医療用のコルセットを撫でながら思う。このような、防弾チョッキより防弾効果が高そうな医療具を装着しないと日常生活が送れない痛みなのに、あの夜はアドレナリンが沸騰するままに任せて全力疾走で路地裏を走った。
アドレナリンは脳内麻薬の一種で新陳代謝を停止させ痛みを麻痺させる効果が有るとは聞いていたが、あの夜のアドレナリンに対して頭が上がらない。
よくも意思に反して体は防御の為に作動してくれた。
確かに冷徹で抑揚無く無機質に想いを遣り取りすると意思と直感に任せた仕事で暴れた心算だが、体は正直でちゃんと持ち主に危険のサインを送っていた。
危険のサインを送りながら防御の為の機能がフル稼働していた。心と体は切り離せない事を痛感。体の苦痛も心の苦痛も別個で対処できると信じ込んでいた自分の尻はまだ青い。
医療用コルセットの上から裏地がフリースの黄色いトレーナーを着て冬用の紺色のパーカーを上着とし、フリース生地の灰色のスエットパンツを穿いてキッチンに立つ。
一ヶ月の休業くらいで干からびるほどの残高ではないので、生活費には困らない。
非合法な商品や情報の取引は敢えて一時停止。完全に休業を満喫することに徹する。
あの夜の報酬として商店からは現金の他に物品支給として金券が配られた。商店が配布した独自の金券は実は紙幣よりも有用だ。
クリーニングする必要が無く、安全に地下組織で流通する商品と引き換えに出来る。
金券のシステムは日本円が使えない場合の非常手段として一部の『提携店』が試験的に導入した非常時の制度の一つだが、ホットマネーをクリーニングする業者に手数料を払わなくとも商品が手に入るので利用者は少なくない。
それに提携店以外の……競合相手や取り扱い外の業種には価値が無く、商店が発行した金券はそれを使う者が何度も店を訪れるリピーターになる可能性が高いので商店もIMFを気取って、発行枚数を節制している。
殺し屋の仲間内ではそのうちポイントカードが発行されるだろうと笑い話なっているが否定できない話だった。
台所に立ち、火が消えた、残り5cmほどの長さのビリガーエクスポートを銜えながらフライパンの柄を握る。
火力は中火。熱々のフライパンの上では塩胡椒と小麦粉を両面にまぶされた450g相当のスズキの5切れが香ばしい匂いを立ち昇らせている。
フライパンに引いた少しばかり高価なオリーブオイルが良く染み込んでいるのが香りで解る。バターで味を整えるのも忘れない。
強火から中火にして既に3分経過。皮の方からフライパンに寝かせたスズキの大きな身が扇情的なまでに視覚を通して胃袋に美味を訴える。フライパンの表面では染み出した脂や油が程好く混ぜ合わさり弾けるように小さく踊る。
「!」
右手がフライパンの柄を離して閃く。
その右手側に置かれていた熱湯を張った陶器の白い皿の淵を掴んで勢いに任せたままシンクに冷めつつある湯を流す。
皿を持つ右手が定位置に戻る頃にはその手にはバタービーターを握っており、空かさずスズキの火が通った切り身を直径35cmほどの白い皿にそれを用いて移し変える。
フライパンを再び火にかける。
皿の上では予め茹でておいたアスパラガスと大型のサイコロ状にカットした粉吹き芋を形を整列させたスズキと沿える。
別のボウルで待機させていた粗く微塵切りにしたトマトとバジルの微塵切り、塩と胡椒をフライパンに投入し、心の中で40を数えながら中火のまま炒める。
最初に垂らしておいたオリーブオイルが適量だった為に追加をする必要は無かった。充分にオリーブオイルのソースが出来上がる。スズキの切り身だけでなくアスパラガスや粉吹き芋に垂らしても充分な量だ。
「……」
――――ふふん。
琴美の数少ない魚料理のレパートリーである、見よう見真似で覚えたスズキのムニエルの完成だ。
下味を付けて火を通し、好みのスパイスやソースを垂らすだけの肉料理なら細かな芸は必要無いと勝手に思っている。
魚は素材を選ぶ段階で勝負が始まっているのでその目利きが問われる。詰まる所、繊細な判断が求められる料理は苦手なのだ。
魚はその他の……牛、豚、鶏とは違い、調味料で誤魔化せない料理が多い。
負傷して無為に寝て過ごすだけでは全く文化的で心豊でない生活しか期待できないので、最近は苦手な料理にも挑戦中だ。
幸い、近年では季節を問わず野菜や魚が手に入る。素材が貧相でも『腕前でカバー』の心意気で料理方法を紹介するサイトを徘徊している。
レシピを覚えるのは問題ない。問題は目利きだけだ。こればかりは記憶力ではなんともし難い。
健康なくらいに夕飯の時間帯。午後6時。
キッチンから出来たてのムニエルをスイートに運ぶ。
折り畳みのテーブルにちょこんと座り、満面の笑みで銜えっぱなしだった火が消えたままのビリガーエクスポートを蓋付きのブリキの灰皿に捻じ込む。
正座する琴美の前にはスズキのムニエルの他にクルトンをたっぷり入れた粉末のコーンポタージュとバゲットとオニオンスライスを散らしたレタスのサラダが置いてある。テーブル付近の電気湯沸し器から粉末のコーンポタージュのマグカップに湯を差す。
誰も見ていなくとも手を合わせて軽く頭を下げる。
そして始まる賞味の時間。
自分で初めて作ったスズキのムニエル。
ムニエル自体食べた事が無いので、味は判別も判断も出来ない。美味いと思えばそれでいい。誰かの為に作って食べさせるプランは今のところ、無い。
450gの切り身が、火を通せば予想以上に小さくなる。脂が熱で染み出すからだろう。小麦粉を塗して火を通したが、全ての脂の浸潤を止める事は出来ない。普通は300g辺りの切り身が適当なのだろうが、貧乏性が働いて、沢山の分量を胃袋が求めてしまった。
ナイフとフォークを使う柄ではないが、今日は気分を変えてそれを使う。
スーパーのタイムセール外で買った高価で、身が引き締まったスズキ。
フォークを差し込むと焦げた小麦が僅かな抵抗を見せて先端が優しく身に入る。大胆に、先ずは一切れの半分をナイフで切って口に運ぶ。
感想は無い。美味い実感は有る。
ムニエルと云う物を食べた事が無いからそのような反応しか出来ない。
舌の上で脂とバジルがオリーブオイルを介してスズキの身を優しく包んでいるのはしっかりと解る。
僅かに遅れて甘味を帯びた塩分が舌を覆う。スズキとソースで用いた極少量の塩胡椒が脂でコーティングされて刺激がゆっくりと開いている証拠だ。
歯触りも申し分ない。
火を通す、失敗した魚料理にありがちな、口の中で身が裂ける食感は伝わってこない。身が繊維に沿って融解する感触だ。火の通り具合に間違いはなかった。
口中に広がるさっぱりとした魚の脂とオリーブオイルを中心に満足げに頷く。
一つ自信がついた。心の中でガッツポーズ。
付け合せのアスパラガスや粉吹き芋もバジルで風味を出したソースを絡めて口に運ぶ。これもまた食欲に刺さる。と、同時に猛烈に炭水化物が欲しくなったのでバゲットに手を伸ばして千切って齧り付く。
くしゃみをしても胸骨が傷む。寝返りを打つ度に冷や汗が出る痛みが走る。
自分の、文字通り胸で強烈な想いを受け止めた。確かに、この想いを頭部で受け止めれば命は無い。
無念ながら一ヶ月もの休業を余儀なくされる。
医療用のコルセットを撫でながら思う。このような、防弾チョッキより防弾効果が高そうな医療具を装着しないと日常生活が送れない痛みなのに、あの夜はアドレナリンが沸騰するままに任せて全力疾走で路地裏を走った。
アドレナリンは脳内麻薬の一種で新陳代謝を停止させ痛みを麻痺させる効果が有るとは聞いていたが、あの夜のアドレナリンに対して頭が上がらない。
よくも意思に反して体は防御の為に作動してくれた。
確かに冷徹で抑揚無く無機質に想いを遣り取りすると意思と直感に任せた仕事で暴れた心算だが、体は正直でちゃんと持ち主に危険のサインを送っていた。
危険のサインを送りながら防御の為の機能がフル稼働していた。心と体は切り離せない事を痛感。体の苦痛も心の苦痛も別個で対処できると信じ込んでいた自分の尻はまだ青い。
医療用コルセットの上から裏地がフリースの黄色いトレーナーを着て冬用の紺色のパーカーを上着とし、フリース生地の灰色のスエットパンツを穿いてキッチンに立つ。
一ヶ月の休業くらいで干からびるほどの残高ではないので、生活費には困らない。
非合法な商品や情報の取引は敢えて一時停止。完全に休業を満喫することに徹する。
あの夜の報酬として商店からは現金の他に物品支給として金券が配られた。商店が配布した独自の金券は実は紙幣よりも有用だ。
クリーニングする必要が無く、安全に地下組織で流通する商品と引き換えに出来る。
金券のシステムは日本円が使えない場合の非常手段として一部の『提携店』が試験的に導入した非常時の制度の一つだが、ホットマネーをクリーニングする業者に手数料を払わなくとも商品が手に入るので利用者は少なくない。
それに提携店以外の……競合相手や取り扱い外の業種には価値が無く、商店が発行した金券はそれを使う者が何度も店を訪れるリピーターになる可能性が高いので商店もIMFを気取って、発行枚数を節制している。
殺し屋の仲間内ではそのうちポイントカードが発行されるだろうと笑い話なっているが否定できない話だった。
台所に立ち、火が消えた、残り5cmほどの長さのビリガーエクスポートを銜えながらフライパンの柄を握る。
火力は中火。熱々のフライパンの上では塩胡椒と小麦粉を両面にまぶされた450g相当のスズキの5切れが香ばしい匂いを立ち昇らせている。
フライパンに引いた少しばかり高価なオリーブオイルが良く染み込んでいるのが香りで解る。バターで味を整えるのも忘れない。
強火から中火にして既に3分経過。皮の方からフライパンに寝かせたスズキの大きな身が扇情的なまでに視覚を通して胃袋に美味を訴える。フライパンの表面では染み出した脂や油が程好く混ぜ合わさり弾けるように小さく踊る。
「!」
右手がフライパンの柄を離して閃く。
その右手側に置かれていた熱湯を張った陶器の白い皿の淵を掴んで勢いに任せたままシンクに冷めつつある湯を流す。
皿を持つ右手が定位置に戻る頃にはその手にはバタービーターを握っており、空かさずスズキの火が通った切り身を直径35cmほどの白い皿にそれを用いて移し変える。
フライパンを再び火にかける。
皿の上では予め茹でておいたアスパラガスと大型のサイコロ状にカットした粉吹き芋を形を整列させたスズキと沿える。
別のボウルで待機させていた粗く微塵切りにしたトマトとバジルの微塵切り、塩と胡椒をフライパンに投入し、心の中で40を数えながら中火のまま炒める。
最初に垂らしておいたオリーブオイルが適量だった為に追加をする必要は無かった。充分にオリーブオイルのソースが出来上がる。スズキの切り身だけでなくアスパラガスや粉吹き芋に垂らしても充分な量だ。
「……」
――――ふふん。
琴美の数少ない魚料理のレパートリーである、見よう見真似で覚えたスズキのムニエルの完成だ。
下味を付けて火を通し、好みのスパイスやソースを垂らすだけの肉料理なら細かな芸は必要無いと勝手に思っている。
魚は素材を選ぶ段階で勝負が始まっているのでその目利きが問われる。詰まる所、繊細な判断が求められる料理は苦手なのだ。
魚はその他の……牛、豚、鶏とは違い、調味料で誤魔化せない料理が多い。
負傷して無為に寝て過ごすだけでは全く文化的で心豊でない生活しか期待できないので、最近は苦手な料理にも挑戦中だ。
幸い、近年では季節を問わず野菜や魚が手に入る。素材が貧相でも『腕前でカバー』の心意気で料理方法を紹介するサイトを徘徊している。
レシピを覚えるのは問題ない。問題は目利きだけだ。こればかりは記憶力ではなんともし難い。
健康なくらいに夕飯の時間帯。午後6時。
キッチンから出来たてのムニエルをスイートに運ぶ。
折り畳みのテーブルにちょこんと座り、満面の笑みで銜えっぱなしだった火が消えたままのビリガーエクスポートを蓋付きのブリキの灰皿に捻じ込む。
正座する琴美の前にはスズキのムニエルの他にクルトンをたっぷり入れた粉末のコーンポタージュとバゲットとオニオンスライスを散らしたレタスのサラダが置いてある。テーブル付近の電気湯沸し器から粉末のコーンポタージュのマグカップに湯を差す。
誰も見ていなくとも手を合わせて軽く頭を下げる。
そして始まる賞味の時間。
自分で初めて作ったスズキのムニエル。
ムニエル自体食べた事が無いので、味は判別も判断も出来ない。美味いと思えばそれでいい。誰かの為に作って食べさせるプランは今のところ、無い。
450gの切り身が、火を通せば予想以上に小さくなる。脂が熱で染み出すからだろう。小麦粉を塗して火を通したが、全ての脂の浸潤を止める事は出来ない。普通は300g辺りの切り身が適当なのだろうが、貧乏性が働いて、沢山の分量を胃袋が求めてしまった。
ナイフとフォークを使う柄ではないが、今日は気分を変えてそれを使う。
スーパーのタイムセール外で買った高価で、身が引き締まったスズキ。
フォークを差し込むと焦げた小麦が僅かな抵抗を見せて先端が優しく身に入る。大胆に、先ずは一切れの半分をナイフで切って口に運ぶ。
感想は無い。美味い実感は有る。
ムニエルと云う物を食べた事が無いからそのような反応しか出来ない。
舌の上で脂とバジルがオリーブオイルを介してスズキの身を優しく包んでいるのはしっかりと解る。
僅かに遅れて甘味を帯びた塩分が舌を覆う。スズキとソースで用いた極少量の塩胡椒が脂でコーティングされて刺激がゆっくりと開いている証拠だ。
歯触りも申し分ない。
火を通す、失敗した魚料理にありがちな、口の中で身が裂ける食感は伝わってこない。身が繊維に沿って融解する感触だ。火の通り具合に間違いはなかった。
口中に広がるさっぱりとした魚の脂とオリーブオイルを中心に満足げに頷く。
一つ自信がついた。心の中でガッツポーズ。
付け合せのアスパラガスや粉吹き芋もバジルで風味を出したソースを絡めて口に運ぶ。これもまた食欲に刺さる。と、同時に猛烈に炭水化物が欲しくなったのでバゲットに手を伸ばして千切って齧り付く。