拝啓、素浪人様
ぽつんと残された取引相手の準幹部は何が起きたのか理解できなかっただろう。何しろ、自分を殺すわけでもなく、襲撃者は自分を無視して商売相手の三下連中と銃撃戦を始めたのだから。
難儀なのは美冴が風邪を引いた事だった。
数年ぶりに風邪を引いた。
旅籠屋【澄み科】に帰るや否や、寒気に襲われてそのまま2日間寝込んだ。
女将が気を利かせて洗濯を済ませたり食事を用意したり、毛布や石油ストーブを引っ張り出してくれたので何とか回復した。思い返せば布団に包まって風邪と戦った記憶は殆ど無い。
貴重な体験であると同時に、自分の体も随分と脆くなったと情けなくなった。
勿論、風邪を引いても安心して寝ていられる環境にも感謝した。
※ ※ ※
『街が喧しくなる』。
確かにそう言う口上で、セールス文句で【谷野興業】に雇われた。その雰囲気を街の空気から感じ取るのは難しい。余所者ゆえの鈍さだろうか。
雑踏のベンチで座ってプリンシペ・ペティコロナを銜える。
暖かい缶コーヒーで充分に暖を取ってからプルタブを起こす。使い捨てターボライターで雑に葉巻の先端を炙りながら吸い込む。風の強い季節は何だかんだでターボライターが有利だ。
午前11時。
スカウトされた街のど真ん中の防災公園。
普段はただ広いだけで、規則正しく植樹されたツツジが寒そうにしている公園。災害時には街中の避難所になる。繁華街の中でも歓楽街方面に有るので酒にありつこうとする浮浪者が段ボールを毛布代わりに公衆便所の脇で屯して寝ている。
今、視界に入る浮浪者の内、半分以上はアンダーグラウンドで働く何かしらの後ろ暗い職業と繋がりの有る人間だ。
浮浪者こそが世を忍ぶ仮の姿で実際は麻薬の売人以上に恐ろしい後ろ盾と繋がっている有力者である事など当たり前。
曇天。
予報では雨は降らない。風が少し強い。冷たい風。遠慮なく叩きつける風が葉巻を通常の倍の早さで短くする。風の影響による片燃えも発生する。
このフィールドコートも長く着ている。そろそろ買い替え時か……そんな事を考えている。
今日は美冴の休日でも待機でもない。出番が廻って来ていないだけだ。
無為に過ぎる時間。僅かな休息。
先日の風邪は完治した。
【澄み科】の丸々と太った中年の女将が気を利かせて厨房で作らせた玉子粥はネギとイクラが見た目にも美しく鈍い味覚に優しく染み渡ったので人間らしい味がした。
防災公園で頭を空にして掻き消される一方の葉巻の煙を見る。
時々、缶コーヒーを啜る。いつもの渾然一体とした苦味が口中に残る。嫌煙家や非喫煙家はこの時の喫煙者の口臭が大嫌いだと言う場合が往々にして有る。煙草の口臭程度で殺人鬼が徘徊しているかのようにヒステリックに騒ぎ立てるのだから、差別も戦争も無くならないのだと呆けた頭で想う。
出番が廻ってきていないだけで【谷野興業】の連絡員から携帯電話に何かしらの招集が掛かれば即応しなければならない。
左脇にはケルテックPMR-30が静かに待機している。
美冴は危険と背中合わせで生活する人間では有るが、常にショルダーホルスターをぶら提げる事はしない。
ショルダーホルスターの長時間の装着は想像以上に体力を削られるばかりか、腰から上の筋肉を緩く拘束するので筋肉痛や酷い凝りを誘発し易い。
それに上着を羽織ることを前提にショルダーホルスターを装着すればガンオイルが衣服に付着して独特の臭いを発してしまうので、素人の人間でも違和感を覚えてしまう。
ガンオイルは銃本体の樹脂や金属の粉末を含んでいるので衣服に着くと簡単に汚れが落ちてくれない。
映画やドラマの主人公ではないので疲労する。回復の速度を上回る疲労の蓄積は敵の放つ銃弾よりも恐ろしい。ショルダーホルスターとは予想以上に面倒な代物で、それに引き換え、大きな利便性を手に入れているのだ。
そのショルダーホルスターを提げたままだと落ち着かないので仕事以外では出来るだけ使用しない主義だ。
苦手意識の有るショルダーホルスターを装着しての出番待ちほど辛い物は無い。
オンとオフの境目が感じられない。今は飼い犬同然なので意識を高めて装着しているだけだ。
唇付近まで灰になった葉巻をその場に吐き捨てて、缶コーヒーの中身を垂らして鎮火。どこかで腹拵えをするために立ち上がる。
……本当にこの街が『喧しくなるのだろうか?』
懐で携帯電話の着信バイブが作動する。即座に手に取り、応答に出る。
「……了解。これから向かう。近くで居るから5分以内で到着する」
簡素に応えて支給品の携帯電話をポケットに押し込む。
防災公園付近にあるライブハウスでトラブルらしい。近くのビルに有る、地下2階のアングラ系バンドに主にレンタルしているライブハウスでシノギの『奪い合い』が発生した。
中立ではない場所。何処の組織も実入りを期待して狙っているフリーの店。
様々な組織が割拠するこの街では珍しくないと云う。
そのライブハウスで此方の三下が脅しを掛けに行ったら、同じ目的でやって来たライバル組織の三下と鉢合わせして喧嘩に発展したようだ。仕事としては安いが職掌には違いない。
やや早足で雑踏に逆らって現場に急行。
繁華街の外れ、歓楽街との境目。日常と非日常が入り乱れる空間。ここは昼間でも少し他のエリアとは毛色が違う。
この辺りは常に縄張りの線引きが変化する火薬庫なのだ。
同じテナントビルでも1階と2階では違う組織がシマとしていたり、同じフロアでも殺し合いをしている組織同士が隣同士と云うことも珍しくない。前にも道路を挟んで向かい合うテナントビルの窓から銃を突き出して銃撃戦を始めて、警察の手が入りそのまま一網打尽に壊滅した組織もあった。
そんな乱雑なれどデリケートな区域での喧嘩だ。
いつもの喧嘩をいつも通りに鎮めないと何が飛び火して戦争状態に陥るか知れたものではない。
地下2階。
エレベーターを待たずに階段を駆け降りる。壁や天井には落書き。アングラ系バンド御用達のライブハウスだ。これくらいサイケデリックでエキセントリックな通路でなければ反骨精神の具現たるアングラ系バンドは行えないだろう。
そのドアベルが取り付けられた、くすんだマホガニー色のドアを開ける。木目調のドアは見かけだけで実際は軽量合金を用いた防音ドアだ。
入るなり突然の『挨拶』。
どてっ腹目掛けて短ドスを両手で握って突進してくる革ジャンの男。その男を視界に捉えると素早く身を躱し、擦れ違い様に男の鳩尾に握り拳を埋める。男は眼を白くさせて呻く暇も無くその場に沈む。
ケルテックPMR-30を抜く。
セフティをカットしてスライドを引く。流れるような、澱みが一切無いアクション。素早くそれを行う必要が有った。此方を向く銃口が複数確認できたのだ。
20m四方のフロア。倒れた椅子やテーブル。床に散乱するガラス片。伸びる男。腹を撃たれてもがく男。頚骨が折れて首が不自然な方向に曲がったまま動かない男。危険が充満する密室。硝煙の香り。零れた酒の匂い。漂う鉄錆び臭い血の臭い。
危険が充満。
圧縮された危険。
美冴は躊躇わなかった。
引き金はいつもより軽く感じた。
ダブルタップ。それを2回。空薬莢が舞う。
突き抜ける銃声は防音壁に吸収されて外部には聞こえない。4つの銃弾は真っ直ぐに2人の人物を仕留めた。
難儀なのは美冴が風邪を引いた事だった。
数年ぶりに風邪を引いた。
旅籠屋【澄み科】に帰るや否や、寒気に襲われてそのまま2日間寝込んだ。
女将が気を利かせて洗濯を済ませたり食事を用意したり、毛布や石油ストーブを引っ張り出してくれたので何とか回復した。思い返せば布団に包まって風邪と戦った記憶は殆ど無い。
貴重な体験であると同時に、自分の体も随分と脆くなったと情けなくなった。
勿論、風邪を引いても安心して寝ていられる環境にも感謝した。
※ ※ ※
『街が喧しくなる』。
確かにそう言う口上で、セールス文句で【谷野興業】に雇われた。その雰囲気を街の空気から感じ取るのは難しい。余所者ゆえの鈍さだろうか。
雑踏のベンチで座ってプリンシペ・ペティコロナを銜える。
暖かい缶コーヒーで充分に暖を取ってからプルタブを起こす。使い捨てターボライターで雑に葉巻の先端を炙りながら吸い込む。風の強い季節は何だかんだでターボライターが有利だ。
午前11時。
スカウトされた街のど真ん中の防災公園。
普段はただ広いだけで、規則正しく植樹されたツツジが寒そうにしている公園。災害時には街中の避難所になる。繁華街の中でも歓楽街方面に有るので酒にありつこうとする浮浪者が段ボールを毛布代わりに公衆便所の脇で屯して寝ている。
今、視界に入る浮浪者の内、半分以上はアンダーグラウンドで働く何かしらの後ろ暗い職業と繋がりの有る人間だ。
浮浪者こそが世を忍ぶ仮の姿で実際は麻薬の売人以上に恐ろしい後ろ盾と繋がっている有力者である事など当たり前。
曇天。
予報では雨は降らない。風が少し強い。冷たい風。遠慮なく叩きつける風が葉巻を通常の倍の早さで短くする。風の影響による片燃えも発生する。
このフィールドコートも長く着ている。そろそろ買い替え時か……そんな事を考えている。
今日は美冴の休日でも待機でもない。出番が廻って来ていないだけだ。
無為に過ぎる時間。僅かな休息。
先日の風邪は完治した。
【澄み科】の丸々と太った中年の女将が気を利かせて厨房で作らせた玉子粥はネギとイクラが見た目にも美しく鈍い味覚に優しく染み渡ったので人間らしい味がした。
防災公園で頭を空にして掻き消される一方の葉巻の煙を見る。
時々、缶コーヒーを啜る。いつもの渾然一体とした苦味が口中に残る。嫌煙家や非喫煙家はこの時の喫煙者の口臭が大嫌いだと言う場合が往々にして有る。煙草の口臭程度で殺人鬼が徘徊しているかのようにヒステリックに騒ぎ立てるのだから、差別も戦争も無くならないのだと呆けた頭で想う。
出番が廻ってきていないだけで【谷野興業】の連絡員から携帯電話に何かしらの招集が掛かれば即応しなければならない。
左脇にはケルテックPMR-30が静かに待機している。
美冴は危険と背中合わせで生活する人間では有るが、常にショルダーホルスターをぶら提げる事はしない。
ショルダーホルスターの長時間の装着は想像以上に体力を削られるばかりか、腰から上の筋肉を緩く拘束するので筋肉痛や酷い凝りを誘発し易い。
それに上着を羽織ることを前提にショルダーホルスターを装着すればガンオイルが衣服に付着して独特の臭いを発してしまうので、素人の人間でも違和感を覚えてしまう。
ガンオイルは銃本体の樹脂や金属の粉末を含んでいるので衣服に着くと簡単に汚れが落ちてくれない。
映画やドラマの主人公ではないので疲労する。回復の速度を上回る疲労の蓄積は敵の放つ銃弾よりも恐ろしい。ショルダーホルスターとは予想以上に面倒な代物で、それに引き換え、大きな利便性を手に入れているのだ。
そのショルダーホルスターを提げたままだと落ち着かないので仕事以外では出来るだけ使用しない主義だ。
苦手意識の有るショルダーホルスターを装着しての出番待ちほど辛い物は無い。
オンとオフの境目が感じられない。今は飼い犬同然なので意識を高めて装着しているだけだ。
唇付近まで灰になった葉巻をその場に吐き捨てて、缶コーヒーの中身を垂らして鎮火。どこかで腹拵えをするために立ち上がる。
……本当にこの街が『喧しくなるのだろうか?』
懐で携帯電話の着信バイブが作動する。即座に手に取り、応答に出る。
「……了解。これから向かう。近くで居るから5分以内で到着する」
簡素に応えて支給品の携帯電話をポケットに押し込む。
防災公園付近にあるライブハウスでトラブルらしい。近くのビルに有る、地下2階のアングラ系バンドに主にレンタルしているライブハウスでシノギの『奪い合い』が発生した。
中立ではない場所。何処の組織も実入りを期待して狙っているフリーの店。
様々な組織が割拠するこの街では珍しくないと云う。
そのライブハウスで此方の三下が脅しを掛けに行ったら、同じ目的でやって来たライバル組織の三下と鉢合わせして喧嘩に発展したようだ。仕事としては安いが職掌には違いない。
やや早足で雑踏に逆らって現場に急行。
繁華街の外れ、歓楽街との境目。日常と非日常が入り乱れる空間。ここは昼間でも少し他のエリアとは毛色が違う。
この辺りは常に縄張りの線引きが変化する火薬庫なのだ。
同じテナントビルでも1階と2階では違う組織がシマとしていたり、同じフロアでも殺し合いをしている組織同士が隣同士と云うことも珍しくない。前にも道路を挟んで向かい合うテナントビルの窓から銃を突き出して銃撃戦を始めて、警察の手が入りそのまま一網打尽に壊滅した組織もあった。
そんな乱雑なれどデリケートな区域での喧嘩だ。
いつもの喧嘩をいつも通りに鎮めないと何が飛び火して戦争状態に陥るか知れたものではない。
地下2階。
エレベーターを待たずに階段を駆け降りる。壁や天井には落書き。アングラ系バンド御用達のライブハウスだ。これくらいサイケデリックでエキセントリックな通路でなければ反骨精神の具現たるアングラ系バンドは行えないだろう。
そのドアベルが取り付けられた、くすんだマホガニー色のドアを開ける。木目調のドアは見かけだけで実際は軽量合金を用いた防音ドアだ。
入るなり突然の『挨拶』。
どてっ腹目掛けて短ドスを両手で握って突進してくる革ジャンの男。その男を視界に捉えると素早く身を躱し、擦れ違い様に男の鳩尾に握り拳を埋める。男は眼を白くさせて呻く暇も無くその場に沈む。
ケルテックPMR-30を抜く。
セフティをカットしてスライドを引く。流れるような、澱みが一切無いアクション。素早くそれを行う必要が有った。此方を向く銃口が複数確認できたのだ。
20m四方のフロア。倒れた椅子やテーブル。床に散乱するガラス片。伸びる男。腹を撃たれてもがく男。頚骨が折れて首が不自然な方向に曲がったまま動かない男。危険が充満する密室。硝煙の香り。零れた酒の匂い。漂う鉄錆び臭い血の臭い。
危険が充満。
圧縮された危険。
美冴は躊躇わなかった。
引き金はいつもより軽く感じた。
ダブルタップ。それを2回。空薬莢が舞う。
突き抜ける銃声は防音壁に吸収されて外部には聞こえない。4つの銃弾は真っ直ぐに2人の人物を仕留めた。