拝啓、素浪人様

 春直前の寒風がフィールドコートを優しく叩く。
 禁煙区域でも遠慮なく葉巻に火を点ける。辺りには同じく銜え煙草で歩く人間が多数。無関心無責任に泳ぐ。営業の基本を知らない客引きすら銜え煙草なのだ。
 場違いなドラッグストアへの入り口へは東洋系の外国人が出入りする。歩行者天国であるかのような錯覚を覚えるが、歩道から人が溢れて往来する車輌が軽く渋滞気味だ。
 人も車も信号無視。バイク便ですら信号無視。大きな交差点では小さな交番が有ったが、場所を弁えない暴走族が大挙して交差点を横切ると立ち番の警官はコソコソと交番の奥に引っ込む。暴走族を取り締まる係りと交番の警官では管轄が違うのでその警官の行動は解らないでもないが、苦笑いが出てしまう。
 歩けば歩くほど、反吐が出そうなくらいに快適な街だった。
 泥濘の奥底にも都が有るのならこのような街の事を差すのだろう。
 路地裏で酔客同士が喧嘩をしていても誰も物珍しそうに動画を撮影したり通報しようとしない。表向きラウンジの隠れ風俗店から風俗嬢が逃げ出そうとして裏口から飛び出してもその叫び声に誰も興味を示さない。
 快楽だけを求めて集まる街に変貌。
 昼間の平和な雰囲気は消え失せている。昼と夜の使い分けや住み分けや区分がここまで完璧だと逆に咄嗟に人を刺し殺したくなる。美冴に殺人衝動の癖は無いが、突拍子も無い事を往来で憚らず行うとさぞや爽快だろうと云う想像はする。
 葉巻の灰が折れる。3分の1が灰になった。
 乾いたフィラーは乾いた味しか遺さない。苦味を倍増させる為に自動販売機でブラックの缶コーヒーを買う。遍く煙草には何かしらのコーヒーが似合う。酒と葉巻の組み合わせは特に有名な話だが、美冴はコーヒーと葉巻の組み合わせを好んだ。
 口中の葉巻の苦い味が緩和されてコーヒーの苦い味に上書きされる。皮肉にもその瞬間の……苦さが交差する瞬間にだけ訪れる芳醇と酸味を含んだ両者の苦味が好きだ。
 不味い物と不味い物を掛け合わせると必ず不味い物が現れるとは限らない個人的なエビデンス。
「…………」
 何度か、往来を逆行する東洋系や西アジア系の顔と体が接触する。
 その度に突き刺す眼光でその人物の目玉を貫く。
 するとその外国人は顔を青褪めさせて人込みに消えていく。『流し』か組織的なスリだ。そのスリが美冴の左脇を触れた瞬間に顔が硬直し、はっと美冴の顔を反射的に見る。
 そして冷たく睨む美冴。
 拳銃を所持している人間には触れてはいけない不文律が出来上がっているらしく、小悪党のスリはそれだけで退散するのだ。小悪党の教育が行き届いているのか、痛い目に遭った事が有る小悪党なのか、拳銃の所持を知っただけで顔色を変えてくれるのなら様々な情報が拾える。
 この街は確実に群雄割拠だ。
 複数の勢力が争っているか、乱戦を相しているか、膠着しているか、はたまたここは中立地帯なのか。
 それは小悪党の挙動を見れば理解できる。
 小悪党の背後に巨大な勢力が存在するのなら、小悪党はそれを傘に着て拳銃を恐れずに犯罪を行う。小悪党がその反対にこの街では顔が知られていない美冴を恐れるのなら、拳銃を持つ人間は兎に角、触れてはいけない勢力の人間だと判断できる。
「……?」
 背後10m以内。追跡。尾行。観察。視線を感じる。悪意や敵意は不明。振り向かずに自然体を装って歩く。
 唇を火傷しそうなほど短くなるドミニカの低価格帯葉巻。
 空のコーヒー缶をゴミ箱に入れる。その隙に眼だけを動かして一瞬で観察。そして脳内で解析。
――――3人。
――――三下じゃない。準幹部?
――――『外注』の情報屋の端末か?
 石畳風アスファルトに短くなったプリンシペ・ペティコロナを吐き捨てる。
 目前にショットバーが有ったのでその脇の路地へと挑発するように早足で入り込む。思い過ごしなら問題は無い。思い過ごしでなければ問題だ。
 フィールドコートのジッパーを解放し、右手を左脇に差し込む。
 樹脂のグリップが指先に触れて絡みつくようにそれを力強く握る。
 もう慣れてしまったが、初めてケルテックPMR-30を握った時は角材をホールドしているかのように握り難いと感じた。
 グリッピングのインプレッションは最悪だったが、サイティングは良好で30発の火力も問題無い。今までに予備の2本の弾倉を使い切るほどの長丁場は数えるほどしか経験していない。
 黴臭く空気が淀む路地裏で仁王立ちになる。
 隠れようともせずに、その角を曲がってくるであろう尾行者を待つ。数秒後に尾行者が現れる。大股で歩いてくる。隠れる心算は無いらしい。
「あのカプセルホテルへ何の用だ?」
 表通りの灯りを背負いながら3人の影の内、真ん中の1人が口を開く。顔は影になって判別し難い。シルエットからして中肉中背で背広姿。
「……唯の客だよ。唯の『浪人』だよ。丁度良かった。この街は来たばかりで案内が欲しいんだ。チップは弾むから観光案内を頼めるかい?」
 美冴は軽口を叩く。
 姑息な時間稼ぎと思われているだろう。その台詞の半分は本当だ。この街をもっと知りたい。何処かの勢力に囲ってもらって寝床と旅銭を稼ぎたい。
「この街は……もうすぐ『喧しくなる』。早く出て行け。それとも『我々と来るか? 対立するか?』」
 その台詞に心を動かされる。早々にスカウト。
 条件は読み難い。
 だが、即戦力を求めているのが言葉の端から察する。それにカプセルホテルを強調していた。
 何気なく飛び込んだカプセルホテルはこの3人が属する組織の息が掛かっているのだろう。『喧しくなる』と云うワードほど心が躍るものは無い。
「何処の勢力でシマの規模は訊かない。条件は?」
 少し譲歩しすぎた質問。
 相手に有利に立たせてしまう質問。
 軽く条件を鵜呑みしてしまう尻軽だと思われる質問。
 ……相手に『有利に立っていると錯覚してもらう為』の質問。
「即戦力待遇。歩合制。ボーナス有り。宿は此方が手配する。小遣いは無し……三食昼寝は自己管理の範囲で。どうだ?」
 予想通りに自分達の優位性を錯覚してくれたのか、条件をペラペラとこの場で喋ってくれる。
「承知。厄介になる」
 貴船美冴がこの名前も規模も知らぬ集団に正式にスカウトされた瞬間だった。
   ※ ※ ※
 旅籠屋【澄み科】と看板に書いてある。
 唯の旅館も名前で何とかなるもんだと関心したのは最初だけでその後の仕事は熾烈を極めていた。
 午前10時。【澄み科】(すみか)の玄関から入るなり、疲労で重くなった体に気力で渇を入れながら自室に宛がわれた部屋へと戻る。
 7.5畳間和室。トイレ付き。風呂無し。敷きっぱなしの布団に倒れ込む。
 今日も命が有ったと云う感謝の気持ちと給金の割が合わないと云う不満が勃発。ボーナスは確かに出た。だが、少しばかり労力に見合わない。
 この街に来て地元の暴力団【谷野興業】(たにやこうぎょう)スカウトされて1週間。
 構成員とシマの規模は申し分なし。
 今は中規模に甘んじている暴力団でその他大勢の勢力の一つ。用心棒として扱って欲しかったのに押し付けられる仕事は、鉄砲玉そのものだった。……ライバル組織の取引の邪魔や商品の強奪がメイン。
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