拝啓、素浪人様
赤いエプロンの女の子はテーブルに散乱した皿を手際よく片付ける。
早くも腫れ物を触るような雰囲気が店内に漂う。
喧嘩を物理的に仲裁した彼女から距離を置こうとする雰囲気。
騒然雑然とした店内に静寂。
やがてぽつぽつと話し声。会話の内容は彼女にとってネガティブなものだった。単純に警官が駆けつけて昼食にありつけなくなるよりも此方の方がまだマシだった。
床に転がった2人の中年を介抱してやろうという者は居なかった。5分後に2人の顔や額に濡れたタオルを乗せてやっている赤いエプロンの女の子はこの場を『穏便に』片付けた彼女の顔を見ようともしなかった。
……『こういう状況』は慣れている。寧ろ、暴力に敬意を表す事の出来る界隈の人間の方がここでは異常なのだ。
更に5分待たされて漸く注文した食事が運ばれてくる。この芳しい香りを鼻腔一杯に吸い込んで幸福感に満たされる。器が熱いうちに箸を取り、ハムエッグ定食の白飯を口に運ぶ。
願わくば、このプレートを運んで着てくれた、恐れ慄くのを堪えているアルバイトの女の子の記憶から今し方の出来事が早く消えますように。
45分もかけてゆっくりと昼食を噛み締めて味わう。
伸びていた2人も回復し、自分達を伸した女の顔を見るや否や、千鳥足気味で逃げるように定食屋を出て行った。
ちゃっかりと自分達の飲食代を払っていなかったのを彼女はしかと見届けていた。
あれだけ早く歩けるのなら問題は無い。前頭部への打撃に備えるために額の骨は分厚く出来ているのだ。進化の過程で具わった頭部の防御力に感謝して欲しい。
米の一粒、キャベツの千切りの一欠片も残さず、器や皿を綺麗に片付ける。箸を置いて、始終無言で彼女はフィールドコートに袖を通して代金を支払って店を出る。
食べ物に賛辞を贈るのは言葉だけではない。
美味しくいただいたと云う感謝の念を忘れない事も重要だ。
髪を束ねていた焦げ茶色のバンダナを解いてフィールドコートのハンドウォームに捻じ込む。
彼女……貴船美冴は今年30歳になるが根無し草の放浪を続けている。目的は無い。目的を探す事が目的で有るように目的が無いのだ。
主な収入源はその地域の暴力団やマフィアに一時的に囲ってもらう事。
契約社員的扱いの用心棒として暴力を振るい、幾らかの旅銭が溜まったらまた違う街へと流れる。
美冴がこの街へやって来た辺り。同時にこの街の風向きが変わっていた頃だった。
宿無し。根無し草。風来坊。流れ者。そして無法者。
どれをどの様に組み合わせても美冴には合致する。
美冴の人生には何も無い。何も無い故に自由。自由ゆえに迷う。選べる選択肢の幅が広すぎた。
選択肢の幅の内で最も選んではいけない路を選んだ。
平和に穏便に安穏に静謐に誠実に生きることが難しいと感じた瞬間に彼女は家を飛び出た。美冴が15歳の時。何の不満も無い事が不満。自由で何でも選べると云う不自然。
この世の理とこの世のシステムが素晴らしいまでにバラ色だった。
素晴らしいバラ色が自分にとって、最も苦手な色だと気が付いた。
体が自然と動いた。何も持たずに家を出た。夜中の2時。家出をするには丁度いい時間で丁度いい季節だった。
あの夜桜は忘れない。
たった一本の桜の木が大きく誇らしげに満開。美しい。心を奪われる。
昼間も確か、このように咲き誇ってたはずなのに記憶に無い。
日常の隙間にも記憶が無い。美しい夜桜。夜でなければ真価と本領を発揮できない満開の桜。
たった1本の街灯も無く、月夜の明かりだけで儚くも盛大。きっと自分は桜なんだ。そう思った。
姿を眩ました美冴は春をひさぐ事も厭わず嫌わず否定せず金を稼ぎ、ヤクザの情婦として自分に合った生活を満喫していた。
非常に不幸。幸薄。薄幸。報われない毎日。苦しく不憫。憐憫を誘う。
その中でこそ自分は生きていると感じていた。
当時17歳。生まれ育った街からは遠くに来た。厭世主義を背負いながら生きるのにぴったりのライフスタイル。死を望む事が皆無……死に憧れるメランコリックな感情が全く芽生えなかった。破局や破滅を望んでも物理的に死ぬ事に何の興味も無かった。
自分としての確固たる生き方が見つからない方が辛いと思っていた。彼女なりの哲学で処世術。自分と云う人間が何を目指す何者でそれを探求する意識の所在が既に定まっていた。
『明るい世界では生きていけない』……それが行動教義の根底。
更に付加するのであれば、『生きる為に迷うのは時間の無駄』。哲学と主義を背負い悩み、コンフリクトを起こして逡巡し躊躇するのが、最も時間の無駄だと悟った。
それこそが、『主義と哲学を持たない』と云う事が彼女の主義と哲学。
自分に正直であれ。動物のように野性的で人間のように知的で植物のように深く静かに。
その概念が心に芽生えた時、18歳。
初めて殺人を犯した。
自分を囲っている街の暴力団の構成員……即ち、自分のパトロン。
自分を養ってくれているはずの男を殺した。表向きの理由は単純明快。今までの扱いに不満を持っていた。実際のところはこの男が心に隠した闇を押さえきれずに希死念虚に囚われ始めたからだ。
連日連夜の命の遣り取りに借り出されて心を患っていた。ヤクザだから身も心も暴力的とは限らない。単純に社会から落伍しただけの人間だった。そんな人間特有の劣等感で偶々知り合った美冴に暴力を奮いながらも世間体を気にして金を美冴に叩きつける様に与えた。
そのヤクザは自身の中でコンフリクトが発生している苦しさに耐えられなかった。
自分が何処の何者であるのかを見失った。
その結果、発作的に自殺を実行した。何処にでも有る首吊り自殺。
それも、ドアノブにタオルを引っ掛けて自重の落下で首を絞めると云う古典的な手段。
気がつけば……振り向けば部屋の隅でヤクザの男はそれを実行していた。脊髄反射。思い返せば理由の無い咄嗟の、発作的行動が必ず美冴の人生の岐路として君臨していた。
今回もそうだった。
美冴は脊髄反射で台所から包丁を持ち出し、絶命するまであと数秒と云うヤクザの胸に包丁を『差し込んだ』。
深く突き刺したのではない。肋骨に阻害されないように、包丁の刃を横に倒して左脇下から右斜め上に向かって全長20cmほどの包丁を差し込んだ。
抵抗も呵責も無い。
止めを差して楽にしてやったと云う満足感も快楽も無い。
何故か反射的に行った事が酷く夢遊。
然し、美冴に意識は有る。人を殺した意識はしっかりと、有る。意外と硬い人の肌に包丁の切っ先がゆっくりと差し込まれていく感触は現実として認識していた。
美冴の人格が壊れたのではない。
美冴は踏み外した世界でないと生きていけない事を実感した。
理論や理屈よりも直感で行動する彼女の居るべき世界はヤクザに囲われる飼い猫のような世界ではない。
やがてヤクザを殺した事実が露見するまでに彼が生前に懇意にしていたアンダーグラウンドの住人たちの情報が詰まった携帯電話を頼りに、各地を点々とする生活が始まった。
あの時、自殺を図ったヤクザが何故に心を患ったのかを理解した。
携帯電話のアドレスの範囲の広さが鍵だった。上位組織の都合の良い様に扱われるだけあって、様々な後ろ暗い職種のアドレスが携帯電話に詰まっている。
早くも腫れ物を触るような雰囲気が店内に漂う。
喧嘩を物理的に仲裁した彼女から距離を置こうとする雰囲気。
騒然雑然とした店内に静寂。
やがてぽつぽつと話し声。会話の内容は彼女にとってネガティブなものだった。単純に警官が駆けつけて昼食にありつけなくなるよりも此方の方がまだマシだった。
床に転がった2人の中年を介抱してやろうという者は居なかった。5分後に2人の顔や額に濡れたタオルを乗せてやっている赤いエプロンの女の子はこの場を『穏便に』片付けた彼女の顔を見ようともしなかった。
……『こういう状況』は慣れている。寧ろ、暴力に敬意を表す事の出来る界隈の人間の方がここでは異常なのだ。
更に5分待たされて漸く注文した食事が運ばれてくる。この芳しい香りを鼻腔一杯に吸い込んで幸福感に満たされる。器が熱いうちに箸を取り、ハムエッグ定食の白飯を口に運ぶ。
願わくば、このプレートを運んで着てくれた、恐れ慄くのを堪えているアルバイトの女の子の記憶から今し方の出来事が早く消えますように。
45分もかけてゆっくりと昼食を噛み締めて味わう。
伸びていた2人も回復し、自分達を伸した女の顔を見るや否や、千鳥足気味で逃げるように定食屋を出て行った。
ちゃっかりと自分達の飲食代を払っていなかったのを彼女はしかと見届けていた。
あれだけ早く歩けるのなら問題は無い。前頭部への打撃に備えるために額の骨は分厚く出来ているのだ。進化の過程で具わった頭部の防御力に感謝して欲しい。
米の一粒、キャベツの千切りの一欠片も残さず、器や皿を綺麗に片付ける。箸を置いて、始終無言で彼女はフィールドコートに袖を通して代金を支払って店を出る。
食べ物に賛辞を贈るのは言葉だけではない。
美味しくいただいたと云う感謝の念を忘れない事も重要だ。
髪を束ねていた焦げ茶色のバンダナを解いてフィールドコートのハンドウォームに捻じ込む。
彼女……貴船美冴は今年30歳になるが根無し草の放浪を続けている。目的は無い。目的を探す事が目的で有るように目的が無いのだ。
主な収入源はその地域の暴力団やマフィアに一時的に囲ってもらう事。
契約社員的扱いの用心棒として暴力を振るい、幾らかの旅銭が溜まったらまた違う街へと流れる。
美冴がこの街へやって来た辺り。同時にこの街の風向きが変わっていた頃だった。
宿無し。根無し草。風来坊。流れ者。そして無法者。
どれをどの様に組み合わせても美冴には合致する。
美冴の人生には何も無い。何も無い故に自由。自由ゆえに迷う。選べる選択肢の幅が広すぎた。
選択肢の幅の内で最も選んではいけない路を選んだ。
平和に穏便に安穏に静謐に誠実に生きることが難しいと感じた瞬間に彼女は家を飛び出た。美冴が15歳の時。何の不満も無い事が不満。自由で何でも選べると云う不自然。
この世の理とこの世のシステムが素晴らしいまでにバラ色だった。
素晴らしいバラ色が自分にとって、最も苦手な色だと気が付いた。
体が自然と動いた。何も持たずに家を出た。夜中の2時。家出をするには丁度いい時間で丁度いい季節だった。
あの夜桜は忘れない。
たった一本の桜の木が大きく誇らしげに満開。美しい。心を奪われる。
昼間も確か、このように咲き誇ってたはずなのに記憶に無い。
日常の隙間にも記憶が無い。美しい夜桜。夜でなければ真価と本領を発揮できない満開の桜。
たった1本の街灯も無く、月夜の明かりだけで儚くも盛大。きっと自分は桜なんだ。そう思った。
姿を眩ました美冴は春をひさぐ事も厭わず嫌わず否定せず金を稼ぎ、ヤクザの情婦として自分に合った生活を満喫していた。
非常に不幸。幸薄。薄幸。報われない毎日。苦しく不憫。憐憫を誘う。
その中でこそ自分は生きていると感じていた。
当時17歳。生まれ育った街からは遠くに来た。厭世主義を背負いながら生きるのにぴったりのライフスタイル。死を望む事が皆無……死に憧れるメランコリックな感情が全く芽生えなかった。破局や破滅を望んでも物理的に死ぬ事に何の興味も無かった。
自分としての確固たる生き方が見つからない方が辛いと思っていた。彼女なりの哲学で処世術。自分と云う人間が何を目指す何者でそれを探求する意識の所在が既に定まっていた。
『明るい世界では生きていけない』……それが行動教義の根底。
更に付加するのであれば、『生きる為に迷うのは時間の無駄』。哲学と主義を背負い悩み、コンフリクトを起こして逡巡し躊躇するのが、最も時間の無駄だと悟った。
それこそが、『主義と哲学を持たない』と云う事が彼女の主義と哲学。
自分に正直であれ。動物のように野性的で人間のように知的で植物のように深く静かに。
その概念が心に芽生えた時、18歳。
初めて殺人を犯した。
自分を囲っている街の暴力団の構成員……即ち、自分のパトロン。
自分を養ってくれているはずの男を殺した。表向きの理由は単純明快。今までの扱いに不満を持っていた。実際のところはこの男が心に隠した闇を押さえきれずに希死念虚に囚われ始めたからだ。
連日連夜の命の遣り取りに借り出されて心を患っていた。ヤクザだから身も心も暴力的とは限らない。単純に社会から落伍しただけの人間だった。そんな人間特有の劣等感で偶々知り合った美冴に暴力を奮いながらも世間体を気にして金を美冴に叩きつける様に与えた。
そのヤクザは自身の中でコンフリクトが発生している苦しさに耐えられなかった。
自分が何処の何者であるのかを見失った。
その結果、発作的に自殺を実行した。何処にでも有る首吊り自殺。
それも、ドアノブにタオルを引っ掛けて自重の落下で首を絞めると云う古典的な手段。
気がつけば……振り向けば部屋の隅でヤクザの男はそれを実行していた。脊髄反射。思い返せば理由の無い咄嗟の、発作的行動が必ず美冴の人生の岐路として君臨していた。
今回もそうだった。
美冴は脊髄反射で台所から包丁を持ち出し、絶命するまであと数秒と云うヤクザの胸に包丁を『差し込んだ』。
深く突き刺したのではない。肋骨に阻害されないように、包丁の刃を横に倒して左脇下から右斜め上に向かって全長20cmほどの包丁を差し込んだ。
抵抗も呵責も無い。
止めを差して楽にしてやったと云う満足感も快楽も無い。
何故か反射的に行った事が酷く夢遊。
然し、美冴に意識は有る。人を殺した意識はしっかりと、有る。意外と硬い人の肌に包丁の切っ先がゆっくりと差し込まれていく感触は現実として認識していた。
美冴の人格が壊れたのではない。
美冴は踏み外した世界でないと生きていけない事を実感した。
理論や理屈よりも直感で行動する彼女の居るべき世界はヤクザに囲われる飼い猫のような世界ではない。
やがてヤクザを殺した事実が露見するまでに彼が生前に懇意にしていたアンダーグラウンドの住人たちの情報が詰まった携帯電話を頼りに、各地を点々とする生活が始まった。
あの時、自殺を図ったヤクザが何故に心を患ったのかを理解した。
携帯電話のアドレスの範囲の広さが鍵だった。上位組織の都合の良い様に扱われるだけあって、様々な後ろ暗い職種のアドレスが携帯電話に詰まっている。