拝啓、素浪人様

 足音。靴音。隠そうとしない歩幅。歩調。
「…………チッ」
 舌打ちする美冴。まだ残存勢力は健在か。
――――階段から……階下……此方に向かう……1人
――――靴底の音?
――――敵? 味方?
 様々な疑問が一拍毎に大きくなる。
 その遮蔽から姿を現すなり、問答無用で頭を吹き飛ばしてやろうと誓う。
 情報を素早く整理。増援を報せる為の連絡は皆無。辺りのビルは散発的な銃撃戦。このビルでの防衛線は崩壊。【谷野興業】の残存戦力はこのビルに於いては恐らく美冴1人。
 気配を隠すつもりの無い足音がその増援とは思えない。足音から精神的余裕すら感じられる。辺りのビルでの銃撃戦の最中に表通りからこのビルに入り込む人間でそこまで心に余裕の有る人物は『敵勢力』だと一応の判断をくだす。
 ケルテックPMR-30をアソセレススタンスで構え直す。
 体をほんの少し右半身。重心を落として命中精度を少しでも高める事に務める。
 鼓動が五月蝿い。鼓動が発するブレはケルテックPMR-30のサイトにまで現れる。緊張で目が乾く。
 一時的に忘却していた葉巻の味が舌に浮かぶ。今直ぐにプリンシペ・ペティコロナを吸いたい。コーヒーと愉しみたい。
 喉が渇く。生唾を飲み込む。恐怖による震えではない。正体が判然としない足音に神経を掻き乱されている。
 冷たい汗。味方なら味方で構わない。
 撃つなと一言言って欲しい。
 此方からそれを言い放つと、此方の距離や方角や戦力を分析され易くなる。鉄火場で孤立した場合には不用意に自分の声を発しない方が生存率は上がる。
 足音、近付く。
 緊張の糸が限界だ。
 それだけの圧力を感じる。
 可也の遣い手。
 近付けば近付くほど、殺意を感じる。
 不思議と敵意は感じない。
 恨みや怒りと云う感情は感じない。
 裏返せば、階段を上がってくる人物が『それなりの遣い手』ならば、美冴の緊張は伝わっているだろう。此処で待ち構えているのもばれているだろう。圧倒的な戦闘力がぶつかり合う錯覚。
 肌が焼ける。肌が冷たい。鳩尾に不快感。喉が詰まりそうだ。胃袋の底が冷える。脳内で麻薬が分泌されるのを実感。緊張が高まる。……緊張しているのは美冴だけと云う錯覚も感じる。
 耳鳴りがしそうなほど静か。隣のビルの銃撃戦が遠い世界の出来事のように解離する。自分が此処に居ないと云う遊離した体感。
 研ぎ澄まされる意識とそれに反比例する意思。
 どちらが死んでも……自分が死んでもそれはそれ、で片付けられるほどに焦りが生じる。
 焦る自分を宥める自分が居る。生きる事は放棄していない。この状況が少しでも動くのなら……焦りが解消されるのならどのような方向に事態が急転しても心が救われると思い込んでいるから焦りが生じる。
 尤も救われるではなく、焦りの揚げ足を『掬われる』可能性が有る。ほんの数秒後に姿を現す何処かの誰かと出会う前に自分の心と向き合う必要が有ると云う禅問答。
 本物の禅問答と違う点は、座禅をして瞑想をする時間が無い事だ。
 足音が止まる。
「!」
 ケルテックPMR-30を握る掌に脂っぽい汗が吹き出る。
 熱いのか寒いのか解らない……痛いのか何も感じないのか解らない不可解な体感センサー。
 緊張の糸が極限まで張り詰める。
「ま、待て! ……撃つな!」
 遮蔽の向うから右手が伸びる。白いハンカチがひらひらと翻る。
 そしてゆっくり突き出される左手。
 左手には38口径と思しき4インチの輪胴式がぶら下がっている。トリガーガードの端を摘むように左手は持っている。敵意が無い事を示す遮蔽の向うの人物。
 【谷野興業】からの増援で用心棒が廻されたか……。
 ぷつりと耳の奥で音が聞こえた。緊張の糸が緩んだ。
 その人物は灰色で薄い生地のハーフコートに身を包んだ、30代後半の五分刈りの男だった。
 身長は175cmを少し上回る。しっかりとした体躯でハーフコートと黒いスラックスに包まれた体躯は素晴らしい筋骨であると予想された。
 美冴がケルテックPMR-30の銃口を下げると、ハーフコートの前を開けて、懐から国内では販売が終了した紙巻煙草の峰を取り出す。
 リラックスした手つきで峰を取り出してマーベラスのオイルライターで火を点ける。
 美冴は背中にびっしりと汗をかいていたが、その恐怖を悟られまいと誤魔化すようにハンドウォームからプリンシペ・ペティコロナを取り出した。ケルテックPMR-30を腹のベルトに差す。
 目前の男は初めて見るが、4インチの輪胴式を腹のベルトに差して悠々と峰を吸っている。
「お互い、嫌な鉄火場に放り込まれたなぁ」
 間延びした男の問いかけに美冴は肩を竦めて葉巻のフットを使い捨てライターで炙る。
 硝煙と血の臭いが充満するフロアの廊下に場違いな紫煙が混ざる。
 普通の人間なら吐き気を催すほどに鼻が曲がりそうだ。
 敵意の無い男。
「ああ。酷いもんね」
 と、美冴。
「酷いついでで悪いが」
 男は続ける。
「?」
 男は黙ったまま暫しの沈黙。
 数秒間の空白。
 空間に句読点でも打たれたかのような静かさがこの世界を支配。隣のビルの銃撃戦が先ほどよりも更に散発的。
 怪訝な顔の美冴の銜え葉巻が微かに揺れる。
 男は美冴に振り向き直る。彼我の距離7m。直線の廊下。薄暗い廊下。異臭が渦巻く廊下。死体が転がる廊下。
 男は名乗らなかった。
 美冴も名乗らなかった。
 美冴のアラートが名前を名乗ることを拒んでいた。
 名前を名乗ってはいけないと。この直感が自然に働く時は正しい時。意識して直感は操れない。直感を制御する神経は人間には具わっていない。
 第六感に似て非なるもの。
 それが危険だと先ほどから疼く。目前の男に対しての警告なのか、新しい脅威の登場前なのか判然としない。
 僅かな沈黙。
 美冴の眉目が変化する。
 急激に、ではなく、途端に、だ。
 プリンシペ・ペティコロナを八重歯で噛み縛る。
 それと同じ時間。
 それと同じ瞬間、彼の……こちらに向き直っていた男のハーフコートが大きく翻る。
 走馬灯に代表されるタキサイキア現象を見るとはこの事だろうか? 違うのか? 自分も含めた全ての世界がスローモーションだった。
 目前の男も自分の動作も酷く緩やかで苛つきを覚える。尤も、苛つきが怒りに変わる前に全てが終焉する。
 男は右手を……鞭が撓るように緩やかなくせに軌道が読めない速さでハーフコートの左懐に差し込まれ、美冴は腹のベルトに差したケルテックPMR-30のグリップを掴んで抜いた。
「……」
「……」
 遅れて聞こえる銃声。
 少なくとも美冴には遅れえ聞こえた。
 何もかもがスローな世界での出来事。
 自分が、葉巻を噛み縛って苛つく感情すら置いてけぼりの世界。そんな泥のような世界が解かれた後に銃声が聞こえた。
 銃声は2つ重なった。
「ああ。酷いもんだ」
「そうね……同意よ」
 男は口の端に銜えた峰の灰が零れるのも構わずに、眉を歪めて苦笑した。
 微笑が混じる、皮肉じみた哂い方。
 自分自身を哂っていたのか美冴を笑っていたのか。
 美冴のフィールドコートの裂けた左肩から血が滲み出し、みるみるうちに血で汚れる面積は広がっていく。
 それでも両者は互いから銃口を外さなかった。
 互いに与えられたイニシアティブはそれだけの会話で消費された。
 男の足元に血の雫がポタポタと落ちる。その雫はやがて大きな血溜まりを作る。致命傷には遠い出血。
 この瞬間の、大きく吸い込んだ葉巻の味を美冴は一生忘れない。
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