拝啓、素浪人様

 納豆の臭みには抵抗が無かった美冴。
 然し、折角出してくれたのだからと、それらを納豆の小鉢に全て投入して丼勘定で150回、箸で攪拌する。朝の貴重な時間帯に長く納豆と戯れている時間は無い。なのに、納豆を掻き混ぜるだけの終わりが見えない手間隙は何故か心が躍る。
 まだ練り方が足りない納豆。箸の先にまだまだ粘液質の抵抗が有る。攪拌が足りない。時間の有る時にゆっくりと向き合いたいが今は仕方が無い。
 平均して人間の体感時間が早くなる時間帯だ。これくらいで止めておく。少し不満が残る納豆を白飯に乗せようとしたところで視線を感じる。
「…………」
 強い圧迫感。大きな何かが覆い被さるような圧力。
 生卵。
 朝食に於いてご飯に乗せると言えば納豆だが、落として掻き混ぜると言えば生卵だろう。
 熱くて白い飯にどれを乗せるかで派閥争いすら勃発する二大勢力。
 逡巡。躊躇。葛藤。心の中で様々なコンフリクトが発生する。此処まで来ておいて納豆への愛情を無碍にするのか? 生卵と云うたんぱく質の塊、曳いてはエネルギーの源を情緒無く飲み込む心算か? 箸の先が止まる。
 小鉢は既に茶碗の上で傾いている。
 生卵から圧力を感じる。
 生卵を失念していたわけではない。
 白飯を食した後に茶碗に割り、醤油と塩を少量加えて軽く掻き混ぜた後に生で飲み込むのも捨て難い。その後に口中を残った味噌汁で全てを洗い流し、焼き鮭で締める……そんなビジョンを思い描いていた。
 なのにこの期に及んで、卵掛けご飯の魅惑的なイメージが脳裏を過ぎったために、納豆を茶碗に注ぐ手を止めてしまった。
 逡巡。躊躇。葛藤。何を優先して何を捨てるべきか。悩んでいる時間すら勿体無い。なのに悩む時間はもっと必要。悩み抜くほどの人間性が未熟。
 内なる自分に妥協案を提出して、美冴の時間は……箸と小鉢は再び動き出した。
 納豆を白飯の上に乗せた。
 当初の予定通りに生卵は白飯を食した後に茶碗に割り、軽く掻き混ぜた後に喉に注ぎ込む事を優先した。
 生きていれば今日と同じ朝食はいつか必ず相見える。その時は卵掛けご飯を優先し、納豆は脇役として控えてもらう。今日は納豆の味方で在ろう。今日は生卵に嫌われても仕方が無い。
 こうして、美冴は朝食の一時を……脊髄反射で解決してきた人生でも珍しく苦悩して味わった。
 その記憶は心の奥底に牢記された。
 朝食が済んだ後に、街を廻る。
 常に火の粉が飛び交っている危険な状態の街だ。日が高いうちは唯の繁華街。日が暮れれば途端に顔色が変わる。日が沈むまでの平穏な雰囲気が一転する時間帯……明るいと云うのに逢魔が刻で誰そ彼時。
 【谷野興業】の幹部からは常に『街が喧しくなる』と聞いている。
 最初は何の事かと勘繰った。何処の街でも危ない空気は必ず漂っている。それが変貌する時は必ず来る。それの何がおかしいのか。偶々その変貌を遂げる時期に美冴がやって来たのか。
 最初は全く感知できなかった。
 それが最近になって急激に慌しくなった。
 具体的に抗争が勃発したと云う例はまだ無い。
 別組織からの引き抜きの声が何度も掛けられる。【谷野興業】も三下を別組織から引き抜いて即戦力として訓練している最中だという。内通者が増える機会が増す危険性を考慮しても賢いとは言えなかった。【谷野興業】の方針転換が露骨に頭が悪いと軽蔑したが、他の組織も同類だった。
 戦力の引き抜き。買収や賄賂は当たり前。
 『殺さずに生かしたまま此方側の戦力として取り入れようとする』危険な作戦を何処の組織も実行しているのが不気味だった。その引き抜き対象としてそれぞれの組織の用心棒や『客人』に声が掛かるのは当たり前の展開だった。
 最近は細かな仕事が増えてその度に支払われるボーナスも少々過剰だった。鞍替えをされる事を忌避して高額な報酬で繋ぎとめようとする魂胆。
 お陰で地下の銀行口座は潤いを見せる。嬉しい反面、この金額に比例する危険が近付いているのを気楽に見守る事が出来なかった。
 街一つを巻き込んだ市街戦でも始まるのではないかと危惧する。そうなれば警察も黙ってはいないだろう。
 どんなに鼻薬を嗅がせていてもカタギに被害が出たのなら黙っていられない。県警本部長に直接札束を積んでも同じことだ。
 街中を歩く。午前10時。曇天。
 今日は雨が降る気配は無い。
 空気が湿っているので近日中に纏まった雨が降るだろう。フィールドコートがそろそろ重くなってきた。
 春物のジャケットかパーカーを購入して着替えなければ。
 セーターやカーゴパンツも一考しなければ。懐に拳銃を呑み込んでいる以上、上着は必須だった。ボストンバッグのような『外付け収納』だと咄嗟にケルテックPMR-30を抜き難い。
 禁煙区域でも構わず、プリンシペ・ペティコロナのセロファンを剥いて、ヘッドを前歯で噛み千切る。
 乾燥しているうちはキャップの葉が脆いので直ぐに破れる。加湿させているとキャップの葉が全体的に捲れてしまって、そこからラッパーが解ける場合が有るのでそのような機能的意味合いからも加湿はしていない。
 背中を丸めて風防を作り、使い捨てライターでフットを炙る。
 乾いたプリンシペ・ペティコロナはジリジリと音を立てながら着火されて安っぽくて香ばしい香りを立ち昇らせる。
 暇だから街に出たわけではない。
 これからミカジメの回収だ。
 ラウンジやスナックと言った飲み屋が入った商業ビルへ向かっている。
 1棟に15軒以上も軒を連ねている。このビル一本を死守するのが職掌の一つだ。
 【谷野興業】からすればビル全部が収入源のこの建物は良く実った葡萄に見える。繁華街の中心から僅かにずれた位置に有るこのビルを手に入れるのにどれだけの犠牲者が出たのか想像に難くない。
 何しろ、向う三軒両隣のビルは全て別々の組織が仕切る商業ビルだ。酔っ払い同士の喧嘩から組織同士の抗争に発展する危険性もあるので喧嘩の仲裁や防止も仕事だ。
 ミカジメ料を払ってくれる有り難いビル。
 そのオーナーと店舗のオーナーに感謝する。皮肉でも嫌味でもなく本当に感謝している。畏れ多くもカタギの人間様の売り上げが廻りまわって自分の給料とボーナスに変貌するのだ。
 経済は様々な形を成して順調に廻っている。
 だからと言って取り立てる行為自体が必要悪であるとは絶対に言えない。社会の底辺以下の人間がまともに明るい世界を歩いている人様から経済の要を奪うのだ。
「……まあ、そうだよね」
 3分の1ほど灰になった葉巻。そろそろ味が変化を遂げる一番愉しい長さだ。安物の葉巻は有る程度ニコチンが詰まってこなければ味に変化が乏しい。
 美冴は肩を落とした。
 何処のラウンジもバーもスナックも喫茶店も上がりの金額が少なかった。上納させる金額は一定額以上だと言い聞かせていてもまともに回収できた例が少ない。
 これは何処の街も同じ。
 いつも経験している。
 出し渋っているのではなく、本当に納めるほどの金が無いのだ。今月のミカジメを払ってもらってもそれが原因で閉店されて空き店舗になったのでは本末転倒。取り立てを厳しくすれば警官OBからなる自警団が、警察とは別働で組織と話をつけに来て手打ち金を支払わせる。更にそれを組織の弱みとしてつけ上がるのでヤクザよりタチが悪い。
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