拝啓、素浪人様

 その日の午後8時には【谷野興行】の縄張りである商店街の地下で居た。
 黴臭く、泥臭く、硝煙臭い。地下の射撃場……とは言っても、土嚢を積み上げて盛り土を拵え、それより約30m離れた位置にスチールデスクと折り畳み机を2つ並べたレンジが有るだけだ。
 机を仕切るのは唯のボール紙。隣のレンジの空薬莢が飛んでこないようにするだけの代物。
 レンジは2つ。マンホールの下に有る下水道の空間で使用頻度が少ない場所を勝手に占拠してシューティングレンジを拵えただけだ。
 常に何処からか風が吹き込んでいるので窒息や酸欠になる事は無い。空気が鼻に優しくないのを無視すればいいアイデアだった。
 照明は水銀灯が壁にぶら提げられている。光源には困らない。30m程度の距離でもスポッティングスコープが用意されている。
 このシューティングレンジは横に2人並べば満員御礼で、『利用客』が列を成している。
 これと同じ形式のシューティングレンジが街の到る場所の地下に設営されているのだから【谷野興行】も大した商魂だ。
 シューティングレンジを使う人間は闇社会の人間だけではない。カタギの人間を言葉巧みに誘ってこの地下射撃場で試射させ、現場を隠し撮りしてその動画や画像を脅迫材料に金品を強請る。都合の良いシノギの一つだ。
 地面には空薬莢が転がっていない。こまめに集められて回収される。踏みつけて発生する転倒による負傷を危険視しての事だった。
 転倒するのがアンダーグラウンドの人間なら幾らでも隠蔽できるが、『利用客』がカタギで貴重なカモだった場合は、その負傷を隠すのは面倒だ。難しくは無いが面倒だ。
 不快な印象を与えて地下射撃場の存在を触れ回られると、今後に影響する。
 この手の地下射撃場は昔から存在するが、最近は廃棄された区画や山間部の廃村なども増えた為に開けた空間での射撃場がライバルになりつつある。
 尚、集められた空薬莢は炸薬と弾頭を詰め直されて再利用される。
 美冴は鼻が曲がりそうな臭いを我慢して心を平静に近づけて30m先の標的を見る。標的はブルズアイ。
 着弾修正をしたいだけなのでバイタルゾーンが示されたターゲットペーパーは遠慮した。
 発砲。狭い空間に銃声が轟く。22口径のマグナムでも場違いなほどに大きな音として鼓膜が認識。
 イヤーカフ越しの銃声。
 確かに、耳栓でも無ければ途端に鼓膜を損傷して難聴になるだろう。
 弾倉に10発ずつ詰めて左右の手……片手での発砲とアソセレススタンスで着弾の修正を行う。
 右手左手だけでなく、右目左目をスイッチして試射。
 弾き出された細長い空薬莢が右隣の段ボールに当たって地面に無秩序に転がる。発砲中はレンジマスターを任された準幹部見習いが射手の動向を見守る。危険な射撃を行わないか注視する。此処は『手軽な射撃場』であってCQCの訓練場ではない。……マナーやモラルが重要な場所だ。
 ショルダーホルスターからの抜き撃ちをややスローなモーションで繰り返して発砲する。咄嗟での射撃の練習だ。ここでは本場宛らの訓練は出来ないからこれで良しとする。
 地下射撃場の使用料金は『客人』なら無料。
 客が混んでいない時間帯ならいつでも利用できる。尤も、ここで常に射撃に興じているほどの余暇は与えられない。地上で実戦を経験している方が多い。
 鼻を突く硝煙の臭い。
 硝煙の臭いと地下の黴や埃が混じった嫌な空気が肺を侵蝕する印象を受ける。
 この場所でそのような清潔な観念を持ち込むのは逆に場違いだ。
 文字通り、アンダーグラウンドな雰囲気がカタギに受けてカモが舞い込んでくる。
 この場所がグアムやハワイの様な手入れが行き届いたまともな射撃場だったのなら売り上げはどうなっていただろうか?
 1時間ほどでサイティングは終了する。
 思ったほどの大きな修正は無かった。
 精密ドライバーを毛の先ほど動かしただけだった。30mの固定されたレンジでもサイティングの調整や確認は充分行える。それを容易にするためにスポッティングスコープが用意されている。狙撃を生業にする美冴では無いので、充分な調整だった。
 美冴がレンジの前から立ち去った時に背後のレンジでレンジマスターが定期的なメンテナンスの報せをハンドスピーカーで伝達する。
 このメンテナンスの時間に空薬莢の回収とペーパーの張替えを行う。客が入れ替わるたびにこのメンテナンスは行われると言う。
   ※ ※ ※
 翌日の朝。午前7時。
 旅籠屋【澄み科】の食堂で朝食を摂っていた。
 食事は自室でも食堂でも希望すれば何処でも食べられる。食べに外出してもいい。
 典型的な旅館の朝食。白い飯と熱い味噌汁だけでも御の字の生活が多いのでこのように温かみの有る食事は何よりの楽しみだった。
 焼き鮭を中心に、生卵、納豆、味海苔、香の物。
 冷蔵庫の有り合わせを寄せ集めたような朝食だが、焼き鮭の身が分厚く大切りだったので幾らでも涎が出てくる。
 味噌汁は合わせ味噌でスタンダードな豆腐とわかめにネギを浮かせたもの。寝汗を程よくかいて塩分を求める体に丁度いい。
 焼き鮭の香ばしい香りが鼻腔を撫でて我慢ならずに箸を取り、香の物を呷る様に食べてよく咀嚼する。昆布ダシが隠し味に使われた白菜の香の物が口の中で瑞々しく弾ける。白菜特有のシャキシャキとした歯触りが心地よい。
 その塩分が口の中で残っているうちに熱いご飯を掻っ込む。
 これだけで幾らでもシャリが進む気がする。
 次に早くも焼き鮭に箸を埋める。魚特有の脂が染み出して扇情的に食欲を刺激する。細かな骨は一切確認できない。調理の段階で調理師がピンセットで丁寧に抜き取ってくれたお陰だ。荒い骨も少なく、箸で摘めば抵抗無く抜き取る事が出来る。
 鮭の身を口に放り込み、ゆっくり噛み締める。
 予想以上の塩分。だが、辟易する嫌味は全く無い。
 添えられた摩り下ろし大根や醤油は無粋に感じられるほどに『出来上がった』味だった。鮭の甘味が消えずに脂と塩分が一体となって舌の上で踊る。
 猛然と炭水化物が欲しくなる味。自然と白飯を口に運ぶ。
 ハラスのようなこってりした脂が白飯の力を以ってしても完全に洗い流す事はできなかった。
 味噌汁の器を手に取り、風味を吸い込みながら喉に汁を流す。それから口の中で豆腐を磨り潰す。
 後を追うようにわかめの風味がほんのりと漂う。
 焼き鮭を半分ほどその調子で味わい、次に味海苔の包装を粉末が飛び散らないように静かに開けて、中身の1枚を白い飯の上に置き、箸で包んで食べる。旅館の朝食といえばこれが定番だろう。
 落ち着いていれば一般家庭でも食べられる何でも無い組み合わせだが、根無し草の美冴には懐かしい味だった。嫌な記憶の中でも極少ない愉しかった記憶の断片が脳裏に浮かんだ気がした。
 150g相当の白飯が盛られた茶碗だった。気がつけば既に半分ほど食べていた。
 焼き鮭を愉しみながら時折、味海苔をそのまま食べる。勿論、納豆と生卵は忘れていない。
 納豆は小鉢に盛られた状態。表面に小さな気泡が纏わりついているのを鑑みるに、小鉢に移す直前に軽く攪拌されたらしい。業者が作ったか、自家製かは判断できない。小皿にネギの刻みと練り芥子と鶉の卵が添えられている。
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