拝啓、素浪人様

 鳩尾の不快感もその所為だといえる。興奮作用を上手く鎮静できないのだ。
 鉄火場で麗らかな春の訪れを体感しながら、掌に浮かんできた汗の不快感を我慢して樹脂のグリップを握り直してカウンターに近付く。安堵。この場の制圧が完了。
 全員が両手を後ろに廻して……否、2人が両手を後頭部に廻して、残りの右手首を失った2人はパニックから負傷箇所の痛みを抑えるために前歯できつく噛み縛って止血しているつもりだった。
 その2人は腰を屈め気味にゆっくり立ち上がるだけで死にそうな顔色を浮かべる。
 大粒の汗に大粒の涙。口元からは右手首から溢れる血液と大量の涎が混じった液体がダラダラと流れ落ちている。人間の手首を始め太い動脈が通る部分は重大な負傷をしても、水道のホースを切った様に勢い良く流血しない。心拍に合わせて脈打つパターンで血液が吹き出る。
 片手首を失ったのなら、適切な処置を行えば手首を手術で縫い合わせることも出来る。尤も、22口径のマグナムで手首の骨は複雑骨折以上に骨が粉砕されているはずなので諦めるしかない。
 残りの人生は障害者手帳を取得して能動義手の世話になるしかない。最近では義肢装具の技術も進んでいるので暗い未来ではない。
 硝煙と血の臭いが濃厚に立ち込める空間。
 硝煙に反応しない煙感知センサーの実態が消防にばれたら指導や注意が入るので、この惨状が片付いたら消防の手入れが入らないようにビルのオーナーに忠告しておこうと思う。
 ニコチンが欲しいはずなのに何故かぴたりと葉巻に興味が失せた。
 自律神経の過剰な反応でホルモンバランスが崩れて一時的にニコチンに対して不感症になったらしい。
 毎年、この季節になると体の何処かが必ず不調を訴えるので、もはや慣れたものだった。何も心配していない。生理が重なっていないだけマシだ。
 【谷野興業】とカチ合った敵対組織との手打が行われたのは2日後の事だった。
 【谷野興業】側の三下4人が殺され、敵対組織の三下の死者が割合少なかったので何とか交渉の余地が有ったのだ。
 一方的に殺されて、一方的に美冴が敵対組織の三下連中を殺していれば風向きは少し違っていただろう。そんな危ない現場判断も任されている割にボーナスは少なかった。
 アンダーグラウンドにも互助会や労働基準監督署のような組織が欲しいと甘えた考えが頭に浮かぶ。
   ※ ※ ※
 ケルテックPMR-30を滑らかに通常分解し、何枚も重ねた新聞紙の上に丁寧に並べる。
 定期的なクリーニング。揮発性のクリーニングリキッドを用いるために窓は全開。リキッドを零しても直ぐに対応できるように雑巾やウエスも用意する。気化した液体が鼻を突く。樹脂フレームのケルテックPMR-30は大して手入れを入念に行う必要が無い。
 深刻な故障でも発生しない限り、通常分解以上に分解して手入れを行う必要は無い。
 今までにそのような面倒な事態には余り直面していない。
 撃芯や銃身廻りの火薬滓を入念に払ってメンテナンスオイルを吹き付けるだけで完了だ。
 サイトには一切触れない。
 銃身を外したので微妙にサイトとのズレが発生しているはずなので、【谷野興業】が手配する地下の……文字通り、マンホールの下に有るシューティングレンジで試射を行って着弾を微調整する予定だ。
 窓は全開。
 暖かい日差しが入り込む。
 この旅館、旅籠屋【澄み科】は全部で7室で、その何れも【谷野興業】の『客人』に宛がわれている。
 『客人』とは勿論、外部からの流れ者で用心棒として契約を交わした連中だ。この旅館で世話になって2週間経過するが、『客人』の出入りは激しい。
 2週間も居座っているのは美冴くらいだ。
 他の連中は契約が切れたか死んだかのどちらかだ。時折、電器屋が冷蔵庫やテレビを運び込む姿が確認されるが、それは恐らく死んだ『客人』の遺品を整理したり指紋を拭き取ったりしているのだろう。
 ケルテックPMR-30を慣れた手つきで組み立て始める。リキッドを含んだ鉄のブラシはウエスの上に置く。リキッドは引火性の物質が含まれているので銜え葉巻で手入れは絶対にしない。
 良く見ればケルテックPMR-30の樹脂フレームは傷だらけだ。
 大きな傷ほど思い出深い。
 この拳銃はプロが長く使うようなモノではない。
 今までに様々な拳銃を遍歴してきたが、火力を重要視する上でこの銃を上回る拳銃は存在しないと思った。
 キャリコピストルでは嵩張りすぎる上に同じ22口径でも威力が低すぎる。求める程度の精密な射撃が出来ない。特徴の有る弾倉を中心にしたジャムの確率が高い。それに実のところ、人間を殺すのが目的で拳銃を持っているのではない。2発叩き込んで無力化させられるだけの威力が有ればいい。
 普通に考えて、タクティカルペンで腹を2箇所刺されただけで人間は無力化される。それの延長の思想だ。
 人間を好き好んで殺したがる性的嗜好は持ち合わせていない。精々、足止めできる程度に無力化できればいい。効率よくバイタルゾーンに2発叩き込めれば問題無い。
 2発の銃弾ともなれば22口径でも45口径でも殆ど大差は無い。
 痛過ぎて動けない。苦し過ぎて動けない。或いは活動に必要な部位が動かせない。
 人間の体で突然、欠損したり負傷したりして問題なく行動できる部位と云うのは実は数えるほどしかなく、バイタルゾーンから離れている為に丹力を込めて苦痛を無視すれば自由に行動できる。
 その部位から離れた部分、即ち、胴体のど真ん中に孔が開くだけで人間は丹力すら練る事が出来ずに力無く、その場に倒れてしまう。どんなに精神鍛錬を積んでいても腹膜に風穴が開けば呼吸すら出来ず、気迫すら込められず、血流すら阻害されて膝を衝く。
 無為な殺しを愉しむ中毒ではないので22WMR程度で充分だ。
 何しろ、30発の大容量弾倉は通常の軍用拳銃と比べれば弾倉2本分の火力で実に頼もしい。予備弾倉を2本、いつも携行しているが、全て撃ち切る事態はここ暫く記憶に無い。
 合計90発の弾丸を撒き散らして弾薬に困る展開など、戦争でも始まらなければ有り得ない。
 小口径なれどマグナム。必要なだけの苦痛を与えるエネルギーには欠かない。
 それに、鉄火場は拳銃のスペックで優劣が決まるほど単純なゲームではない。
 人間の命が懸かった……自分の命が懸かった戦場だ。敵が自動小銃を構えた一個小隊だから、それに刃向かう自分は38口径の輪胴式なので戦う前にその拳銃で自殺すると云うのは愚かな考えだ。胃癌が怖いから健康なうちに胃を先に切ろうと云うくらいに愚かな考えだ。
 人間の可能性に自ら蓋をしても何も解決しない。
 自分が死ぬ事で敵が喜ぶと考えるのなら、最初からこの世界に足を踏み入れない事を考えるべきだ。
 惰性でこの世界に来たと云うのなら、確固たる自分を持っていないと云うのなら、銃火器を手にするべきではない。
 スライドを勢い良く引く。
 空の弾倉を差し込んで空撃ちをする。全てのレバーの根元から綿棒で丁寧に埃を拭った。
 サイティング以外は万全。尚、今日は非番なので弾倉に実包は詰めない。弾倉のバネの寿命を鑑みてのことだ。
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