拝啓、素浪人様

 昼飯。
 一番活力が求められる時間帯に胃袋に納める食事。
 カロリーと腹持ちだけの計算で終わらせるには余りにも勿体無い。心して食べるべきだ。それが例えカロリーや炭水化物の暴力の様な食材であっても有り難く感謝しつつ胃袋に送り込む。
 食べる事に執着を持たない様になっては人間として何か大事な物を一つ失うに等しい。少なくとも彼女はそう思っている。少なくとも食事とはそう在らねばならないと思っている。
 心を豊にする、生活を彩る主人公とさえ思う。その次に睡眠と排泄と入浴が並ぶ。人間の本能と尊厳が求める欲求は即ち人間性の表現であり賛歌である。
 間違えても捨ててはならない事柄の一つ。それが食事。
 貴船美冴(きふね みさえ)は場末の定食屋に入ると出入り口に近いテーブルに座る。
 ここならレジも近い。直ぐに店を出る事も出来る。店の中を見渡す事も出来る。小汚い、油汚れが漆喰の壁を侵蝕した年季の入った定食屋。屋号は【勝美屋】と言ったか。
 油だか手垢だか解らなの染みで薄っすらと汚れた暖簾を押して手動のスライドドアを開けて今に到る。店内は予想を裏切らず小汚い。嫌いじゃない。この方が落ち着く。同年代のセレブ方がお召しなるランチとは縁が無いどころか、興味が無い。
 午後12時を少し廻った店内は盛況には少し及ばなかった。近所に出来たレストランやランチ専門カフェなどの割拠によりこの店の存在は脅かされていたらしい。
 駅前から離れた位置に有るのも不幸の原因だろう。昔は繁盛していたに違いないがそれは店の構えから推定して30年以上前にこの店のピークは去ったと思われる。
 上着のフィールドコートを脱いで隣の席の上に置く。午後12時を廻っても7割しか席が埋まっていない。行列が出来る隠れた名店ではなさそうだ。
 無造作にロングの髪を焦げ茶色のバンダナで纏めて束ねる。簡素なポニーテール。黄土色のセーターにレディスにリサイズされたオリーブドラブのカーゴパンツ姿。
 この格好で歩けるのもあと少しだろう。もう直ぐ暖かい季節が本格的に到来する。彼女の荷物はフィールドコートでさり気無く隠した大型ボストンバッグが一つだけ。スポーツ用品店で買える量販品だ。取り立てて特徴が無い。
 彼女の風貌も取り立てて特徴が無い……訳ではなかった。
 今のご時世、すっぴんの女の方が目立つ。それなりに化粧は施しているが、原石を磨き上げる効果は現れていない。
 整った眉目に顎先の小さな現代風の美貌。薄いリップが少しばかり印象的。アイラインは嫌味なく。張りの有る頬。精悍と云うよりコンパクトに纏まった美貌と云うイメージ。涼しげな目元を何処か胡乱にして厭世主義が服を着て歩いているような表情をしている。
 彼女には店内の騒音の一切が耳に入っていないのだ。
 彼女の視線が監視カメラが作動するように壁に張られたメニューを一望する。暫しの逡巡。早く胃袋の虫を宥めたい。空腹を満たす事で幸福感を得たい。
 早くオーダーして早く味わいたい。
 この待つ時間が最高のスパイスだ。食べる事に於いて待つと云うことは大きな意味を持つ。空腹が何倍にも促されて食欲が無くとも待たされていると思い込むだけで満腹中枢が空腹の信号を発するほど人間の脳は好い加減なメカニズムだ。
 その好い加減なメカニズムを逆手に取れば美味さも増す。
 カップラーメンは嘗てお湯を注いで1分で食べられるシリーズが製造されたが、レギュラーラインの3分待つ従来製品に圧倒的に負けてしまい、市場から姿を消した。直ぐに食べられてしまうと云うのが、消費者の深層心理を理解していなかったが故の敗因だ。
 レジ脇の4人掛けのテーブルで彼女は1人で陣取り、静かに手を挙げた。
 厨房の奥からアルバイトと思しき女の子が赤いエプロンの裾を揺らしながら注文表が挟まれた小さなクリップボードを手に早歩きで彼女のテーブルに来る。
「はい!」
「……ハムエッグ定食。グリーンサラダ、ドレッシング抜き。ミンチカツ……以上で」
「はーい、お待ちくださーい!」
 活発明朗で利発そうなショートカットの女の子は忙しそうに厨房前のカウンターで今し方の注文を叫んでいる。
 厨房の奥から年配の男性と思われる声が了解を返す。良く視ればそのアルバイトと思しき女の子は予想通りに良い仕事をしていた。
 具体的には、細かなところに気が廻る。冷水のコップの並べ直しや食べ終わったテーブルの片付け、割り箸や爪楊枝の補充に各テーブルの醤油やソースの残量にも気を配っていた。
 ここでの活躍はきっと社会に出ても役に立つだろう。彼女のようなヤクザ者とは関係の無い世界で幸せを築いて幸せに終焉する事を切に願う。
 そんな事を考えていた。
 女の子の後ろ姿を視ながら席を立ち、冷水をセルフで入れる。
「!」
 背中に緊張が走った。殺気だろうが敵意だろうが背中にゴキブリを入れられようが緊張の度合いは同じだ。
 後は直感が危険か否かを判断する。
 この場合、危険だった。
 店内で喧嘩が発生したのだ。両者は先ほどから険悪だった。この時間からビールを何本も空けていた。中年が2人。昔はやんちゃをしていたであろう顔付きだ。
 カタギの人間だが、彼女は容赦しなかった。酒の上での喧嘩だろうとこの店の中で暴れられるのは御免蒙る。辺りが騒然としだす。
 殆ど彼女は脊髄反射で体が動く。2人の中年を挟んで激しく揺れるテーブルから数本のビール瓶が転げ落ちて砕ける。視界の端では顔が青褪めているアルバイトの女の子の顔が見える。
 2人の間に彼女はスタスタと歩みを進めて審判のようにテーブルの端に立つ。恰も2人を見守る様に。
 然し、次の瞬間、彼女は中年2人の後頭部を両手で同時に捕まえるとそのまま額同士をぶつけ合わせて軽い脳震盪を発生させる。
 額の骨は頑丈だ。これくらいの事で皹が入ったりしない。それでも鈍い大きな音だった。バスタオルに包んだガラスの灰皿を叩きつけた様な音が店内に聞こえる。
 脳震盪を起こした2人の男の襟首を素早く掴み後頭部をぶつけないように静かに床に崩れる体を置く。兎に角、彼女はこれ以上、この店で騒ぎが大きくなって欲しくなかった。
 これ以上大きな騒ぎになって、この店に警察が駆けつけようものなら、折角の昼食を独りで静かに心豊に愉しむ事が出来なくなるからだ。故に速やかに暴力で解決しただけだ。
 辺りは静まり返る。非日常。そんな空間に放り込まれた人間特有の遊離感に襲われている。
 人間は非日常に放り出されると本能的に日常への復元力を求めて騒ぎ出すことを放棄する。何も視なかった、何も聞かなかった、何も感じなかった。そんな防御反応だ。
 彼女も元のテーブルに戻る。
 床に倒れたままの2人は身じろぎを始める。軽い脳震盪から徐々に回復しつつある。目の焦点が合うまで時間が掛かるだろうが、以前に脳に外部的損傷を受けていない限り、今から慌てて救急車を呼ぶまでも無い。精々、たんこぶが出来て痛みの不快感に3日間ほど悩まされるだけだ。
 2人の中年が倒れるテーブルの周辺を片付け出すアルバイトの女の子。更に厨房の奥から慌てて青いエプロンをつけて飛び出してきたもう1人の女の子。
 顔付きから、厨房で切り盛りする中年夫婦の娘だと解る。目元など母親にそっくりだ。青いエプロンの女の子は箒と塵取りを持ってビール瓶の欠片を集めている。
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