凍てつきが這い寄る!

 言子はスマートフォンでの記録というものを心から信用していないので、仕事上の備忘録としてアナログ媒体を活用する。
 ぎっしりと小さな文字で細いペン先のボールペンで書き込まれたスケジュールやメモ。
 クライアントの連絡先なども書かれているが、秘守義務に違反しているという定義はしていない。寧ろ、確実に仕事を遂行する為にデジタル媒体よりも重要だと思っている。
 アンダーグラウンドの住人だから、日陰を歩き人の目を忍んで裏道を歩きこそこそと生きている事を良しとするばかりに、何でもかんでも秘密裏にしなければならない風潮に言子はいささか反駁を覚えている。  『何も疚しい事はしていない』と思い込みたい自分自身が心のどこかに居る。
 唯の債権回収業者で仕事道具に非合法な代物が必要なだけ。負債者が常に無抵抗で素直に応じてくれれば拳銃などというモノを持つ必要は無いし、負債者を精神的にも肉体的にも追い詰める真似はしない。
 そう言う意味では国が定義する法律を傘に着て、権利を行使して負債者から全てを奪う表世界の金融業者の方が遥かに悪徳だ。何しろ、『こちらの業界では逃走が成功すれば幾らでも巻き返しが利く優しい世界』なのだ。
 従って、サラリーマンが手帳を愛好するのと同じく、言子も手帳を愛好する。
 そこに何の違いは無い。
 それに日常がひっくり返るインフラの途絶が発生しても、重要事項はアナログで記してあるので依頼を遂行する確率が高くなる。手帳は充電を必要としない。
 天地がひっくり返っても金を回収する事しか考えないのが金融業だ。その金に対する執着性は表も裏も変わらない。そのスタイルを知る……言子が手帳を愛好する事を知る、古株の顧客からは逆に彼女に対する評価が高かった。「ワシらの若い頃もそうだった……」と述懐しているのだ。
 モッズコートの左胸ポケットに、分厚いシステム手帳とジッポーを落とし込む。
 頭の中で復習は終わった。
 負債者の顔と名前と負債額も間違えて覚えていなかった。後は殺さずにケリをつけるのみ。
 黒ぶちの眼鏡の向こうで言子の瞳から精気が消える。頭の中を完全に負債者を追い回して回収する機械になるように自己暗示を掛けたのだ。いつもの簡単な儀式の範疇だ。力士が取り組みの前に頬を叩くのと同じだ。
 歩みを始める。100m。直線距離。10畳間ほどの空間しかないプレハブ小屋。夜更け。強く冷たい風。白い息。マスクの隙間から昇る湯気で眼鏡が鈍く曇る。
 眼鏡は曇り止めのコーティングが効いているので大きな違和感を覚えない。
 足元が冷たい。アスファルト。
 頭上には4車線の高速道路。左右はその幅を維持するために背の高いフェンスが張られている。作業員用の出入り口を締めている鍵はヘアピンだけで開く。つまり、このまま真正面のプレハブまで障害物は乏しい。
 高速道路の橋脚か、折りたたまれた通行規制やオレンジ色のコーンが積み重ねられた遮蔽くらいだ。銃撃戦を想定するのならどちらが有利でもどちらが不利でもない。増援を呼ばれる危険が無いだけ、こちらが少し有利になる。
 勿論、計算外も計算する。
 スラックスの下に履いているストッキングだけでは防寒の効果が薄いので、腰と背中に使い捨てカイロを貼っている。悠にしつこく言われた結果だ。
 悠は仕事には口出ししない。どこに行こうが黙っている。危険だからと止めたりしない。ただ、最高のコンディションで仕事に臨んで欲しい一心で、小さな気配りを見せるので言子が幸せな困り顔を見せる事もしばしばだった。マフラーやニット帽を嫌う言子なので、このままだと悠は毛糸のパンツを穿いてほしいとでも言いそうだ。
 右手をおもむろに左脇に差し込んで、コルトM1908を抜き出す。元から交渉をするつもりは無い。
 交渉の余地がなくなったから連中は逃げている。負債を解決する金策が無いから連中は逃げ出した。逃げ出した者がこの世界で生き残るにはどうすればいいかは言わずとも解るはずだ。
 コルトM1908のセフティをカットし、ゆっくりとスライドを引く。氷のように冷たい作動音。耳に異常に深く突き刺さる作動音。今夜も確実な作動を保障してくれる作動音。
 今までにこの音を聞いて、血を見なかったことは無い。血を見たが死体は見ていない。それは言子の自慢でも有る。殺してはならない。
 モッズコートの裾が強風に煽られて細かく激しくはためく。前方40m。
 連中もこちらの姿を確認したに違いない。
 この辺りは道路向かいの歩道の外灯が及び、光源が左右から確保されている。高架下の作業用スペースの真ん中にプレハブ小屋が建てられている。プレハブの左右には作業員用の通路。この奥へ行く為の関所じみた拵えだ。
 20m。連中は2人。拳銃を所持していると想定。
 狙っているとすれば既に先制を仕掛けられている。
 窓やドアが開く気配は無い。
 ドアの向こうで人が待機している気配は無い。プレハブの片隅で震えているだけの可愛い債権者とは思わない。
「! ……く」
――――でしょうね……。
 銃声。プレハブ小屋の裏手からの発砲。
 プレハブ小屋のドアは一つだが窓は2箇所。この角度から死角になっている場所から潜んでの先制を仕掛けられたが、焦りは無い。
 プレハブ小屋の裏手はフェンスで一旦仕切られており、作業員用通路も鍵が掛かっていて自由に往来できない。つまり、プレハブ小屋は奥まった場所に建てられた仮設事務所だ。連中は『こんな所しか選べないほどに困窮している』と言える。
 銃声を聞いた瞬間にぴたっと足を止める。
 風が強い。
 『じっくり狙われた、試射も無しに狙われた銃弾なら当たらない』。銃弾が風の影響を受けて着弾がずれる。
 こんな強風なら少なくとも2発の試射は必要だ。狙撃するにはロケーションもコンディションも悪過ぎる。
 豆鉄砲。銃声からして輪胴式の拳銃。
 38口径。銃身の長さは不明だが、初弾で掠りもしなかったので腕前が推し量れた。
 猛然とプレハブに向かって走る。銃声が続く。2箇所。プレハブの左右の角から。
 38口径の輪胴式と32口径の自動式。互いをカバーするだけの連携が有る。連中の着弾からの修正が正確になる前に高架の橋脚に飛び込んで遮蔽とする。たったの15mが酷く遠く感じる。
 軽い銃声。散発的な銃声。
 牽制。この距離で直撃を受けても即座に致命傷に繋がる危険性は低い。連中からすれば回収業者を足止めさせるか、負傷させればこの場での勝利条件を満たす結果になる。言子を歩けないほど負傷させれば連中の勝ちだ。
 2人。そこそこの連携ができる。それも情報通り。
 どの程度の連携が可能かは体験しないと解らない。
 ウサギの後ろ足で蹴り殺された猟犬の話は幾らでも聞いた。追い詰められた人間の勝率は無限大だ。悔しいがそれは認めなければならない。
 心の中で銃声の数を数える。
 輪胴式が黙っている間に自動式が牽制して、遮蔽の影を狙って撃ってくる。そして輪胴式が発砲を開始。再装填のロスをカバーするだけ頭が回転している連中。……こんな奴らは実に面倒臭い。
 場合によっては救急救命が必要なほどの重傷を負わせねば黙ってくれない場合が多いのだ。自分達の弱点を知っているということは最早弱点ではない。コアコンピタンスだ。
 モッズコートの右腰ポケットからコンパクトを取り出して、その鏡で光源を拾い、連中の姿や影に反射させる。姿を確認する目的の他に、連中の視界に『焼け』を作って視力を阻害する目的が有る。
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