凍てつきが這い寄る!
夕食後にリビングでテレビを観ていた言子が何気なく言い放ったら、悠は子犬のように全力で喜んだ。
そんな顔が見られるのならオフにすると決めた午前中にでも遠出するべきだったかなと、ちょっと後悔。
2月に入り、寒さのピークも一段落した辺りだ。『契約』とはいえ雇用者の英気を養うのも事業主としての責務だろう。
近いうちに旅行代理店を梯子しながら一日を費やすのも悪くは無い。少なくともその日は悠は家事から解放される。朝から夜まで好きなだけ遊ばせてやらなければ悠の精神衛生も保てないだろう。
どんなに家事のスキルが高い年少者といっても、遊びたい盛りの自称17歳だ。世間の空気に触れないと心の老化が進んでしまう。言子も悠もフィクションの生物ではない。
休息と安息は必須だ。ストレスこそが人間を育てるという精神論は否定しないが、自分の体がストレスに耐えられるか否かは別の話だ。程よく休暇を取らなければ必ず心身が壊れてしまう。
事業主も雇用者も自分を守るために手段を選んではいけない。金を稼ぐ前に体を調えないと社会人として失格だ。その社会が表でも裏でも体が資本で有ることには変わりは無い。
どんなに札束が目の前に有っても健康は買えないのだ。
※ ※ ※
夕食を食べ損ねた。
目の前に並べられた、悠が腕によりを掛けて作ってくれた煮込みハンバーグを食べる直前に緊急で依頼が舞い込んだ。
そんな依頼なら、先日のオフの日にあらかじめ報せておいてくれれば予定を空けていたのに。
悠の作る洋食は絶品だ。様々なレパートリーを低予算で拵える能力は才能の一つだ。彼と結婚する女性は幸せだろう。『彼を泣かすような目に遭わせたのなら、言子は迷わずその女に銃弾を叩き込む』。
悠は優しい。その優しさが料理にも現れている。殺伐とした毎日の僅かな至福を邪魔されたのだ。……今夜の言子は少しばかり機嫌が悪い。
依頼人が贔屓にしてもらっている『金融関係者』でなければこの依頼を受けなかった。
言子は乱暴にアジオ・ハーフコロナの紫煙を吐き出す。
吐き出した煙は寒風に叩きつけられて黒い空に舞い上がる。口の端から紫煙の残りと白い呼気が混ざった物が細く長く流れ出る。
市内の湾岸部を横たわる高速道路の高架下。深夜1時を少し経過。業腹ながら情報屋に頼ってしまった。
情報屋経由で債権回収業者が逃走を企てている負債者に情報が漏洩する恐れが有るので緊急の案件では使いたくなかった。
この世界の債権回収業者とは意外と孤独な職業だ。ライバルが多く、忌避する職業が多く、伝が少ない。
逃亡を企てる人間に出来る限り情報が漏洩しないようにクライアントから齎される情報以外に頼る宛が少ない……否、少なくしている。クライアントも自社で仕入れた以上の情報は何も提供してくれないので場合によっては『債権者の情報も纏めて調べて自力で回収して欲しい』という依頼も有る。……そんな時は限って緊急の依頼だ。
その緊急に夕食を邪魔されたのだから、食べる直前に邪魔をされたのだから、虫の居所も悪くなる。
更にクライアントは手持ちの情報が少ないので、『そちらで』何とかして欲しいと注文をつける。
前金を地下銀行で確認したところ、前金にも色を付けてくれていたのでプロとしては引き下がれない。
電話一本で何でもこなす便利屋を『表看板』にしている手前、嘘は許されない。今度から看板の内容を少し書き直そうかと真剣に考える。
家を飛び出る直前に、悠がどこでも直ぐに食べられるようにとハム、卵、レタス、トマトを6枚切りの食パンで作った分厚いサンドウィッチを持たせてくれた。カロリーや腹持ちを考えると充分だ。
以前、同じ状況の時に握り飯だけでいいと言ったところ、栄養が偏るから駄目だと可愛らしい怒り顔で反抗されたので、非常食にも文句を言うのはやめた。
港湾部。車の往来が激しい。
逃走ルートとしては最適。更に高速道路の高架下。潜伏にも向く。
相変わらず靴裏を貫通する寒さは厳しい。車の排気ガスで喉がいがらっぽくなる。花粉や風邪の予防を目的とした使い捨てマスクをしているが高い効果は現れない。
負債者が潜むのは、高架下に使われずに放置されているプレハブ小屋。
この辺りは港湾部へと進む道路しか伸びていないのでエアポケットのように車の往来が少ない場所だった。頭上の高速道路は相変わらず往来が激しく、銃声を掻き消してくれる効果が高そうだ。
プレハブ。掘っ立て小屋と変わらない粗末な造り。
潜伏している負債者の数は2人。護り屋や逃がし屋を雇う金も無い。自分達でセーフハウスという名のプレハブを転々としてきたらしい。拳銃程度は所持していると考える。このまま霞みのように消える事が出来るのが負債を抱えた人間の実力である事も視野に入れる。
金を貸す側は優劣をつけない。
負債総額が大きかろうと小さかろうと負債を背負った者は等しく同じ価値だ。
負債者を逃がしてしまえばそれこそ『地下』で金融業を営む者としてライバル企業に優劣や高低という格差をレッテルで貼られてしまう。だから何としても回収する。
回収できない分は親族知人を人知れず誘拐略取し、金品や臓器を奪う。
その為に書類を偽造する専門家も子飼いにしている。フリーランスの債権回収業者である言子もその部品の一つだ。どこの金融業者とも繋がりが有るが、多数のアンダーグラウンドの人間や職業から忌み嫌われている。
命を狙われないのは、言子を殺すメリットが無いからだ。機械のネジを外したところで換えや代替は幾らでも居る。言子はその程度の認識でしか扱われていない。
群れる事すら面倒で、足手まといで嫌ってしまうからフリーランスだ。1人だからこそスピーディに展開できる。
いつぞやの夜にブローニングハイパワーを使う女と対峙した時は、商売敵の回収業者の回し者が同時に現場に現れたが、予想通りに団子状態を形成し、案山子を撃つ様に全員仕留められた。
ブローニングハイパワーの女の腕前もかなりのものだったのも確かで、それは評価に値する。今頃臓器も血液も何もかもが売買されてどこかの誰かの体の一部として生きているはずだ。
果たして、今夜の仕事はスムーズに運ぶか? 今はそれを考えよう。
口に銜えたアジオ・ハーフコロナの長さが残り3分の1になる。
足元に吐き捨てて踵でにじり潰す。足元から悪臭が広がる。葉巻は自然な鎮火を待たなければこの様な悪臭が広がるのが難点だ。揉み消すような真似は御法度とされるのも頷ける。
目標のプレハブまで直線距離100m。
建物内部に小さな光源がチラチラと見える。
寒そうな拵えのプレハブだが確かに中に誰か潜んでいる。懐中電灯で手元を照らしているのだろうか、擦りガラスの窓にぼうっと柔らかい灯りが浮かぶ。内部は屋外で突っ立っているのと変わらない気温だろう。風の直撃と雨や雪に掛からない程度の放置されたプレハブ。元は工事中に使用された仮設事務所らしい。
「ふん……さて……」
やおら言子は懐から厚さが3cmくらいの小型のシステム手帳を取り出し、中身をぱらぱらと捲る。時折、ブラス仕上げのジッポーで灯りを点けて文字を確認する。
そんな顔が見られるのならオフにすると決めた午前中にでも遠出するべきだったかなと、ちょっと後悔。
2月に入り、寒さのピークも一段落した辺りだ。『契約』とはいえ雇用者の英気を養うのも事業主としての責務だろう。
近いうちに旅行代理店を梯子しながら一日を費やすのも悪くは無い。少なくともその日は悠は家事から解放される。朝から夜まで好きなだけ遊ばせてやらなければ悠の精神衛生も保てないだろう。
どんなに家事のスキルが高い年少者といっても、遊びたい盛りの自称17歳だ。世間の空気に触れないと心の老化が進んでしまう。言子も悠もフィクションの生物ではない。
休息と安息は必須だ。ストレスこそが人間を育てるという精神論は否定しないが、自分の体がストレスに耐えられるか否かは別の話だ。程よく休暇を取らなければ必ず心身が壊れてしまう。
事業主も雇用者も自分を守るために手段を選んではいけない。金を稼ぐ前に体を調えないと社会人として失格だ。その社会が表でも裏でも体が資本で有ることには変わりは無い。
どんなに札束が目の前に有っても健康は買えないのだ。
※ ※ ※
夕食を食べ損ねた。
目の前に並べられた、悠が腕によりを掛けて作ってくれた煮込みハンバーグを食べる直前に緊急で依頼が舞い込んだ。
そんな依頼なら、先日のオフの日にあらかじめ報せておいてくれれば予定を空けていたのに。
悠の作る洋食は絶品だ。様々なレパートリーを低予算で拵える能力は才能の一つだ。彼と結婚する女性は幸せだろう。『彼を泣かすような目に遭わせたのなら、言子は迷わずその女に銃弾を叩き込む』。
悠は優しい。その優しさが料理にも現れている。殺伐とした毎日の僅かな至福を邪魔されたのだ。……今夜の言子は少しばかり機嫌が悪い。
依頼人が贔屓にしてもらっている『金融関係者』でなければこの依頼を受けなかった。
言子は乱暴にアジオ・ハーフコロナの紫煙を吐き出す。
吐き出した煙は寒風に叩きつけられて黒い空に舞い上がる。口の端から紫煙の残りと白い呼気が混ざった物が細く長く流れ出る。
市内の湾岸部を横たわる高速道路の高架下。深夜1時を少し経過。業腹ながら情報屋に頼ってしまった。
情報屋経由で債権回収業者が逃走を企てている負債者に情報が漏洩する恐れが有るので緊急の案件では使いたくなかった。
この世界の債権回収業者とは意外と孤独な職業だ。ライバルが多く、忌避する職業が多く、伝が少ない。
逃亡を企てる人間に出来る限り情報が漏洩しないようにクライアントから齎される情報以外に頼る宛が少ない……否、少なくしている。クライアントも自社で仕入れた以上の情報は何も提供してくれないので場合によっては『債権者の情報も纏めて調べて自力で回収して欲しい』という依頼も有る。……そんな時は限って緊急の依頼だ。
その緊急に夕食を邪魔されたのだから、食べる直前に邪魔をされたのだから、虫の居所も悪くなる。
更にクライアントは手持ちの情報が少ないので、『そちらで』何とかして欲しいと注文をつける。
前金を地下銀行で確認したところ、前金にも色を付けてくれていたのでプロとしては引き下がれない。
電話一本で何でもこなす便利屋を『表看板』にしている手前、嘘は許されない。今度から看板の内容を少し書き直そうかと真剣に考える。
家を飛び出る直前に、悠がどこでも直ぐに食べられるようにとハム、卵、レタス、トマトを6枚切りの食パンで作った分厚いサンドウィッチを持たせてくれた。カロリーや腹持ちを考えると充分だ。
以前、同じ状況の時に握り飯だけでいいと言ったところ、栄養が偏るから駄目だと可愛らしい怒り顔で反抗されたので、非常食にも文句を言うのはやめた。
港湾部。車の往来が激しい。
逃走ルートとしては最適。更に高速道路の高架下。潜伏にも向く。
相変わらず靴裏を貫通する寒さは厳しい。車の排気ガスで喉がいがらっぽくなる。花粉や風邪の予防を目的とした使い捨てマスクをしているが高い効果は現れない。
負債者が潜むのは、高架下に使われずに放置されているプレハブ小屋。
この辺りは港湾部へと進む道路しか伸びていないのでエアポケットのように車の往来が少ない場所だった。頭上の高速道路は相変わらず往来が激しく、銃声を掻き消してくれる効果が高そうだ。
プレハブ。掘っ立て小屋と変わらない粗末な造り。
潜伏している負債者の数は2人。護り屋や逃がし屋を雇う金も無い。自分達でセーフハウスという名のプレハブを転々としてきたらしい。拳銃程度は所持していると考える。このまま霞みのように消える事が出来るのが負債を抱えた人間の実力である事も視野に入れる。
金を貸す側は優劣をつけない。
負債総額が大きかろうと小さかろうと負債を背負った者は等しく同じ価値だ。
負債者を逃がしてしまえばそれこそ『地下』で金融業を営む者としてライバル企業に優劣や高低という格差をレッテルで貼られてしまう。だから何としても回収する。
回収できない分は親族知人を人知れず誘拐略取し、金品や臓器を奪う。
その為に書類を偽造する専門家も子飼いにしている。フリーランスの債権回収業者である言子もその部品の一つだ。どこの金融業者とも繋がりが有るが、多数のアンダーグラウンドの人間や職業から忌み嫌われている。
命を狙われないのは、言子を殺すメリットが無いからだ。機械のネジを外したところで換えや代替は幾らでも居る。言子はその程度の認識でしか扱われていない。
群れる事すら面倒で、足手まといで嫌ってしまうからフリーランスだ。1人だからこそスピーディに展開できる。
いつぞやの夜にブローニングハイパワーを使う女と対峙した時は、商売敵の回収業者の回し者が同時に現場に現れたが、予想通りに団子状態を形成し、案山子を撃つ様に全員仕留められた。
ブローニングハイパワーの女の腕前もかなりのものだったのも確かで、それは評価に値する。今頃臓器も血液も何もかもが売買されてどこかの誰かの体の一部として生きているはずだ。
果たして、今夜の仕事はスムーズに運ぶか? 今はそれを考えよう。
口に銜えたアジオ・ハーフコロナの長さが残り3分の1になる。
足元に吐き捨てて踵でにじり潰す。足元から悪臭が広がる。葉巻は自然な鎮火を待たなければこの様な悪臭が広がるのが難点だ。揉み消すような真似は御法度とされるのも頷ける。
目標のプレハブまで直線距離100m。
建物内部に小さな光源がチラチラと見える。
寒そうな拵えのプレハブだが確かに中に誰か潜んでいる。懐中電灯で手元を照らしているのだろうか、擦りガラスの窓にぼうっと柔らかい灯りが浮かぶ。内部は屋外で突っ立っているのと変わらない気温だろう。風の直撃と雨や雪に掛からない程度の放置されたプレハブ。元は工事中に使用された仮設事務所らしい。
「ふん……さて……」
やおら言子は懐から厚さが3cmくらいの小型のシステム手帳を取り出し、中身をぱらぱらと捲る。時折、ブラス仕上げのジッポーで灯りを点けて文字を確認する。