凍てつきが這い寄る!

 熱い。体が火照る。窓から吹き込む潮の香りを孕んだ風が心地よい。気がつけば軽く肩で息をしている。
 建物内部は光源に乏しいが、階段の窓から差し込む強烈な外灯のお陰で誰が誰であるか簡単に判別できた。左手にスマートフォンを取り、然るべきアドレスを呼び出す。ディスプレイに表示されたアドレスを背の低い、標的の中年男性に向ける。
 頭の天辺が寂しくなった50代後半くらいの男だ。地味なデザインの焦げ茶色のブルゾンを着ていた。
 その男はディスプレイに表示された名前を見るなり、顔色を変えて後退りを始める。
「ここに今から連絡を入れるわ。嫌なら負債額を全額……どうする?」
 男にとってはどうしようもない提案だった。
 そんな金額が有るのなら返済の当てにしている。護身用に拳銃すら買えない。
 この件の同乗者に同じ境遇の2人の人間を巻き込んで、協力して今夜の逃がし屋を雇った。それはたった今、瓦解した。逃がし屋に金を払うからこの女を今直ぐ殺せと命令する甲斐性も無い。
 その間、呼吸2回分。
 ディスプレイを見た男は項垂れて膝からその場に落ちた。
 言子は画面を操作して連絡すべき相手に通話する。残念だが、この標的達は血液の一滴も漏らさず、余さず、残さずに『体で金を返す』運命に有る。
 連絡した先から『金融関係者』が到着するまで言子は3人を給湯室に押し込めて睨みを利かせているだけだった。
 逃がし屋の羽場がリーダーの面子や逃がし屋のプライドを捨ててこの場は金でカタをつけようと申し出てきた。言子を買収する目的は今夜の失敗が情報屋に嗅ぎつけられない様にするためだ。
 今夜の失敗は今後の商売に大きな影響が出る。言子は訊かない振りをした。コルトM1908で何度も無言で脅しを掛けた。
 金で雇われた人間が更に大きな金額でクライアントを裏切るのは簡単だが、それこそ今度は言子の評価に直結する。もう誰も言子を債権回収業者として使ってはくれないだろう。信用商売で腕前を売っている手前、金で主人をホイホイと替えるのは仁義に反する。
 表に多数の人間の気配を感じる。
 腕時計は連絡して15分経過した事を告げていた。
 今夜のこの仕事の為に悠の作る夕食を無碍にした事を少し反省する。同時に今晩の献立はなんだったのか気になるところだった。
   ※ ※ ※
 仕事は実に尊いものだ。いつでもそう思う。誰でもそう思う。
 債権回収業者が卑しい仕事だと誰が決めた。
 誰も決めない。自分が勝手に決めているだけだ。少しばかり卑屈。気分が落ち込むと言子はいつも自室に引き篭もりベッドで丸くなったまま過ごす。
 スラックスとスーツを放り出してシャツに緩めたネクタイ、靴下のままベッドに入り込む。何もかもを放り投げて逃げ出したい衝動。原因も理由も解っている。季節性情動障害と生理が重なっているだけだ。
 体が重い。心も重い。自律神経が激しく反応した結果心身の不調を招いている。
 症状の原因と解決方法は判明している。何も怖がるような病ではない。自力で解決できない症状だから安定するまで待つしかない。仕事の最中に生理が始まらなかっただけでも良しとする。
 鎮痛剤を何錠、嚥下したか。ベッドサイドのテーブルにはこんな時の応急用に常備している鎮痛剤がゴミのように置かれている。
 マグカップとミネラルウォーターのペットボトル。それに赤い樹脂グリップのアーミーナイフ。栓抜きを兼用する大型マイナスドライバーを展開したままだ。言子はこの大型マイナスドライバーで鎮痛剤を大雑把に4分の1に割って水で嚥下する。
 少し前はブラックの缶コーヒーで嚥下してばかりだったが、まるで自分の体のように心配する悠がその行為を諌めて、水で飲むように言いつけたのだ。悠に反抗する気は無い。反抗する気が起きない。反抗する理由が無い。反抗する口実を見つけるだけの気力が無い。
 ベッドの足元にはコルトM1908が収まったままのショルダーホルスターが無造作に転がっている。
 コルトM1908に心や主人を思いやる機能が具わっていたらこんなダウナーな言子を見て何と言うだろうか。
 悠はキッチンで夕食の用意をしているはず。
 献立の半分は何と無く予想できる。
 悠は聡い少年だ。言子の定期的な現象を理解している。ビタミンやら鉄分やらを多量に含んだメニューをこれでもかと目の前に並べてくれるだろう。本当に良い『買い物』をしたものだと涙目で感謝する。
 そして子供など生みたくないのにと、自分の性別を恨む。寧ろ、悠が女として生まれるべきだった。女として生まれれば……。いつもそこで思考は一時停止する。
 悠が女として生まれていればこんな出会いは無く、若しかしたら悠はもっと明るい世界を歩いていたかもしれない。そう思うと無性に悲しくなって大粒の涙が零れる。
 情緒不安定。
 心身ともに不調だ。
 女性ホルモンの変動から、女性は一ヶ月に4回、性格が変貌するといわれている。
 意識できるレベルが有れば出来ないレベルも有るらしい。
 言子は自分のメンタルが不安定な時期を知っているが、性格が変わるほどの不調とも変調とも思えない変化は感じた事が無い。鈍いだけなのか例外なのか。
 それでも生理は辛い。
 1ヶ月の内、生理の影響を受けずにまともに活動できる日数は10日も無い。生理が重い日や今回のように自律神経失調症に類する季節性情緒不安定に見舞われた時は素直に仕事は一時休業としている。
 ベストコンディションで常に仕事に臨みたいがそれが出来ない。
 だけど出来るだけ依頼は受ける。
 それでも今日のように恐ろしく生理が重い日は、世間一般で言う生理休暇を取らせてもらう。悠には危険が及んではいけないので自分が関わる全ての仕事には触れさせない。携帯電話にも触らせない。
 悠は言子だけの悠だ。誰にも奪わせない。もう誰も手放さない。誰にも邪魔されない。何も。何も。何も、言わせない。誰にも絶対に。
「!」
 ベッドのシーツの中で頭を強く振る。
 いつの間にか心がマイナスのベクトルに向かって突き進んでいた。
 大昔の下らない事を思い出して解離発作を引き起こすところだった。その前兆の過呼吸に近い呼吸の息苦しさを覚える。
 喉にヒステリー球が発症していた。ヒステリー球とは自律神経の不調が招く不定愁訴の一つで、あたかも、喉に空気の塊が詰まったように呼吸がし難くなり、唾の嚥下も難しいと錯覚する症状だ。
 悪い夢と悪い記憶に引き摺り込まれそうな自分をベッドから無理矢理引き離し、ペットボトルの水をマグカップに注いで喉を鳴らして飲む。生ぬるい水。これもまた自律神経の不調から酷い口渇を覚えていた口中には心地よく感じられた。
 重い足。重い体。重い心。声も重い。呼吸も重い。手にしたアルミのマグカップすら何tもの重量を感じてしまう。
「…………ちっ」
 へその下で生暖かい生卵が割れたような感触を覚える。またも出血だ。
 歯を食い縛って眉を深く刻んでトイレへと向かう。
 今日は四つん這いにならないだけマシな方なのかも知れない。
   ※ ※ ※
「悠」
「はい?」
 ある日のオフ。本日は一切の仕事は無し。依頼が舞い込んでいないから休日。帳簿にも本日の取引は皆無であることを記す。
「近いうちに温泉に行かない? ちょっと疲れてきたわ」
「はい! 行きましょう!」
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