凍てつきが這い寄る!

 アジオ・ハーフコロナを吐き捨てたと同時に小さく「さて……」と呟き、右手を左脇に差し込んでコルトM1908を引き抜く。鋭利な大型ナイフを静かに抜く所作に似ている。
 コッキング。インジケーターを確認。薬室に実包が装填される。セフティを掛ける。
 目前にヨットハーバーへ繋がる一車線の道路がある。道路というより大型の通路という拵えだ。
 前方100m。風は強い。寒い。足元から底冷えを感じる。背中に使い捨てカイロを貼ってくるべきだったと少し後悔。体を温める気付けのアルコールも無い。『無性に悠の料理が恋しくなった』。
 標的は精密には3人。
 勝利条件は3人を行動不能にして債権を回収するだけ。3人はあと1時間ほどでやって来る外洋船に乗り換えるための、小型ボートを待っている。
 その3人を警護する要員は皆無。予想外の展開は充分に計算済み。3人とドンパチを始めると当然、ヨットハーバーを表の顔にする逃がし屋は良い顔をしないだろう。
 逃がし屋が独自に雇った用心棒が邪魔をするのも想定内だ。逃がし屋は自分達の仕事場が荒らされれば、相手がどこの組織でも高い慰謝料を請求する。慰謝料という名の改修費だ。
 それに司直の手が入る前に、手渡す賄賂の費用も含まれている。逃がし屋は難儀な商売で、敵味方中立にも良い顔と悪い顔を見せなければ機嫌が取れない。それを手早く解決するのは金しかない。
「!」
 ヨットハーバーの事務所が騒然とする。逃がし屋はクライアントである債権者3人を事務所の外に追い出した。
 その後ろを2人の男と思われる影が走って付いて行く。気付かれたというよりも、逃がし屋の当然のマニュアルだった。
 今夜は海からの来訪者以外は誰も近付かない手筈。そこへ拳銃を携えて道路の真ん中を歩いて現れた言子。逃がし屋の面子に懸けてクライアントを庇護保護警護する。
 事務所から飛び出した5人を眺めるだけにする言子。『案山子とデコイ』に用は無い。
 逃がし屋が良く使う手段だ。
 債権者に似た背格好の人間を影武者として予め雇い、警護役の人間も付き従わせて襲撃を察知すると事務所の正面から全速力で遠くに逃げる。この先には『見せかけの逃走用の車輌が置いてあるシナリオ』だ。
 その臭い芝居に乗った振りをして言子は走る。
 ヨットハーバーの事務所の前を行き過ぎる前に急ブレーキをかけて停止すると直角に左を向き、桟橋を渡った向こう20mの位置に有る事務所へと走る。
 虚を衝かれたとは行かないまでも、早くも自分達の作戦が見破られていた事に多少の動きを見せる逃がし屋。実を言うと逃がし屋とは揉め事を起こしたくは無い。
 この業界……この世界で住んでいると、いつどこで逃がし屋の力を借りて逃亡を図るか解らないからだ。逃がし屋にも人的被害は出したくない。逃がし屋と話し合いできる状態ではないが、逃がし屋とその関係者だけは『軽傷』で済ませてやりたい。
 ヨットハーバーの直ぐ脇に有るこじんまりした鉄筋2階建ての事務所の正面玄関から灯りが消える。
 窓という窓のカーテンが閉められて殆どの部屋の蛍光灯が消される。これも逃がし屋のマニュアル通りだ。世間やフィクション作品でよく誤解されるが、マニュアルが読めるからその裏を掻く作戦を練れば簡単に隙を突いて問題が解決できると思われがちだが、マニュアルとは鉄壁を誇るか裏の裏を掻く作戦が幾重にも張られており、手を出し難い状態を即座に堅固にする意味合いが強い。
 相手の手の内が読めるから、先が読めるとは限らないのだ。
 相手がそのマニュアル通りに展開するとこちらは完全にお手上げになる事の方が多い。だからこその即応できるマニュアルが行き届いているのだ。
 そのマニュアルが徹底されるとすれば、篭城を守りつつ逃走を手配していた迎えのボートには来るなと連絡し、契約中の護り屋と呼ばれる警護やボディガードを生業にする人間を増援として呼び寄せて闖入者である言子を排撃する。
 もしかしたら既に護り屋の数人が事務所内部で警護を続けているのかもしれない。護り屋にも泣き所は有る。ボディガードは映画やドラマのように戦ってはいけないのだ。
 逃げる、護る、固める、膠着させる……非常にネガティブな場合でしか発砲しない。自分達が戦っている最中に警護対象が殺されてしまっては依頼が遂行できない。故に体を張ってでも警護対象を護る為に亀のように引き篭もる。
 想定外を想定。
 これは誰も想定されていないから想定外と言える。
 そして想定外の想定の仕方は、人間の数だけ存在する。
 その想定外は言子にとっては想定内だった。
 コルトM1908のセフティを掛けたまま、右手にダラリと下げて、歩みを緩めて大きな歩幅で堂々と事務所の正面玄関――強化ガラスのドア――の前までやって来る。連中にとっては想定外。ネゴシェイターがやって来たと勘繰っている最中だろう。
 この状況に及んで、拳銃の銃口を下げて馬鹿正直に真正面に立つ人間など普通は存在しない。その馬鹿正直の範疇に入る人種は少数。いるとすれば、交渉人……ネゴシェイターだ。
 債権回収業者として顔が知れている言子が敵意の無い姿を見せて自分のペースで歩いてくるとなれば、逃がし屋にも交渉の余地が有る。逃がし屋としても人的物的損害を出さずに問題が解決できるのなら交渉に乗る価値を見出す。
 2分後には言子は既に事務所内部のロビーで立っていた。複数の気配。暗い。隙間風が寒い。どこか黴臭い。乾燥した空気。鼻の奥が痒くなる。
 光源は正面玄関の外から背負うようにして浴びせられているだけ。視界を広く持つ。ゆっくりと眼鏡のレンズの向こうで彼女は左目を開いた。
 2分前に左目を閉じていた。事務所から入れとも何とも言われていないが無言を交渉の肯定と捉えたからだ。
 逃がし屋。この事務所を仕切る逃がし屋の顔ぶれは覚えている。
 借金取りとしては、逃がし屋や運び屋や護り屋といった類の職種の人間は対極に位置するライバルだ。標的の逃走を手助けする憎むべき相手だ。そして万が一の場合には頼らざるを得ない大切な仲間だ。
 それを大前提に債権者を追い詰めて負債を回収する。
 開いた左目。暗闇に慣れた左目。
「ん?」
 言子は不意に左手でモッズコートの左側のポケットを探る。ぱんぱんと軽く叩いて何かを探す。
「んー? あれ?」
 ぶつぶつと独り言を言いながら今度はコルトM1908を左手に持ち替えて右手で右側のポケットを漁る。
「あ、有った有った……」
 いつもの安葉巻を、セロファンに包まれたままの安葉巻のアジオ・ハーフコロナを取り出し、前歯でするするとセロファンを剥いて口に銜えて流れるような仕草でジッポーを探すが……見つからない。
「ねえ。誰か、ライター持ってない?」
 軽口っぽいが早く葉巻を吸いたくて仕方が無いと声を上げる。
 その声を聞いて、事務所のロビー奥から男のシルエットが浮かび上がる。言子の左目はその姿を視認するなり、殺してはいけない対象だと判断した。
 この場を仕切る逃がし屋のリーダーだった。年齢は40代後半。名前は羽場(はば)といった。壮年に入る手前の男臭い顔付きが魅力的で大柄な体躯。
 羽場は無言でスラックスのポケットから使い捨てライターを取り出して言子に放り投げた。言子はそれを右手でキャッチ。
「……『3人』。あんたを入れてこの場に居るのは『3人』だ」
「!」
 途端に羽場の顔色が変わった。
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