凍てつきが這い寄る!

「今夜は先に寝ていて」
「あ、はい……」
 カルボナーラのソースを作りながら、彼は柔和な笑顔で返答する。
 悠は言子の仕事に全く口を挟まない。言われた通りの仕事……家事を遂行することが悠の幸せであり任務だった。それと同じく彼は言子の仕事にも門外漢が口を挟むべきではないと命じている。
 余計な事は知りたくないのではない。
 知ってしまうと言子の弱点が一つ増えてしまう。
 彼女がどこでどんな仕事をしているのかを知ると、万が一、自分が人質に取られて口を割るように脅され、拷問されても何も知らないのだから喋りようが無い。
 何も知らない事を貫くのも彼の任務だった。否、使命だと自分に言い聞かせていた。ドブの底から助けてくれた女神を自分の存在で危険な目に遭遇させるのは何としても避けたい。彼のズボンのポケットに入っているタクティカルナイフは護身用ではない。自決用だ。彼がこっそりと入手して忍ばせている。
 言子はそれ以上何も言わずに、キッチンから続くスイートへ向かい、自分用のソファに腰を深く下す。
 銜えたままのアジオ・ハーフコロナに改めて火を点ける。
 真新しいブラス仕上げのジッポーだ。自分の正体を眩ませる工作として出鱈目の誕生日を軽口を交えて悠に話したら、その偽の誕生日にプレゼントとして悠から貰った。
 着火道具に拘りが無く、火が点くのならマッチでも使い捨てライターでも良かった言子は愛すべき雇用者へのサービスとして贈り物を大事に使っている素振りを見せる。
 スイートの中空にたゆたう紫煙を眺めながら、昼食を終えてからの予定を脳内で整理する。室内では緩めっぱなしのネクタイを更に緩める。タイピンが安っぽい輝きを放つ。
 今夜も忙しくなる。
 昼食を終えたら仮眠を取ってから風呂に入り、身支度を整えて替えのスーツに着替えて相棒のコルトM1908を懐に仕舞い込んで……。
 彼女の思考はいつの間にかフェイドアウト。
 悠に声を掛けられるまで眠っていたようだ。
 口には火が消えたアジオ・ハーフコロナ。全体の半分程が灰になってスラックスの腿に落ちている。疲労が蓄積されている。近いうちに近場の温泉にでも足を伸ばしたい。
「言子さん……」
「あ、大丈夫。眠いだけだ。食べたら軽く寝る」
 言子のことを心底心配する、潤んだ瞳の上目遣いを見せる悠。この仕草が時折、抱きついてやりたいほどに愛しく感じる。
「さあ、昼食にしましょう!」
 無理矢理気分を切り替えようと明るい笑顔で悠は言う。それに釣られて言子も疲れ気味の笑顔を見せる。
 美味しく愉しい昼食に対して辛気臭い顔は無礼千万。言子にもその程度の敬意は有る。
    ※ ※ ※
 午後11時50分。
 メンズウォッチのダイバーモデル。大きな文字盤の日本製。回転ベゼルとストップウォッチとカレンダーを具えたモデルだ。蓄光塗料で夜間でも視認性が高い。
 どこの時計屋でも1万円程度で買える。失っても大した痛手にはならない。どこでも修理できる。正確に作動して時刻が解れば問題は無い。ブランド主義で腕時計を選ぶ趣味は無い。実用性だけを重視したい。
 左手首の腕時計を確認するたびに時刻は1分ずつ進む。
 携帯電話経由で舞い込む依頼。
 後ろ暗い、裏の世界でのみ通用する金融会社からの依頼だ。依頼人のプロフィールがPDFで送られてjpgで数枚の顔写真が添付される。前金の振込みを確認。
 後の金はこの仕事を完全に遂行した後だ。
 どうせ今回も負債者はまともな額面の金を持っていない。逃走資金はあるだろうが、そんな金で借金が払えるのなら逃げ出しはしない。
 街から離れた港湾部の更に外れに有る民間のヨットハーバー。そこで潜んでいる借金持ちを捕まえる。
 ヨットハーバーは逃がし屋との関係を持っている事から、このまま外洋へ廻る船に乗って沖合いに出て洋行ルートへと合流。そうなる前に、陸上で潜んでいるうちにカタを付ける。
 その逃がし屋の便に同乗する同じ孔の狢も捕まえるように依頼が舞い込んでいるので想像以上に大きな山だ。
 黒尽くめ。黒いふちの眼鏡。オリーブドラブのモッズコート。左脇には仕事道具にして相棒のコルトM1908。右脇と後ろ腰には予備弾倉が収まったポーチ。
 長丁場の銃撃戦は想定していない。
 短期決戦が言子のモットーだ。
 丸身を帯びたデザインのコルトM1908。世界で初めて9mmショートを用いる自動拳銃として名を馳せる名銃だ。
 32口径モデルのコルトM1903の派生型として開発された経緯が有る。最近になってリバイバル生産されたモデルで忠実な復刻版。故に機能の付加は無い。コンシールドとしてはこれで充分。仕事用としてもこれで不足を感じたことは無い。
 相手を殺してしまっては意味が無い。臓器が使える程度に生きていればいい。
 本来なら32口径のコルトM1903を使いたかった。32口径ならオーバーキルはありえない。ダブルタップでも絶命には遠いだろう。5mの距離からのモザンビークドリルでも32口径なら充分に助かる。
 残念ながら武器屋には9mmのコルトM1908しか在庫が無かった。それにコルトM1908のフィーリングが一番掌に馴染んだ。
 丸みを帯びたシルエットも愛嬌たっぷりで長く付き合える予感がした。モダンオートと比較するのは間違えているが、9mm口径の中型拳銃として視た場合、護身用でも仕事用でも事足りる。
 反動は軽快。出番が来るまで左脇にぶら下げていても嵩張らずに違和感は少ない。ハリウッド映画で持て囃される近代の大型オートを何度か携行して使用した事が有るが、重く嵩張り、高威力で手に余る大きさ。出番が来る前に自分の体力が削られる。……それに軽い肩凝りも感じてしまう。
 どんなに高性能でも自分と相性が悪ければ使いこなす前に銃弾を叩き込まれて冷たくなっている。
 ヨットハーバー。夜。月に纏わり付く群雲。
 風は潮の臭いを大量に孕んで生臭い。
 近隣のコンテナ群やブリキの倉庫街から鉄錆びの臭いも風に混じる。光源には困らない。夜中に出航するヨットやプレジャーボートも有るからだ。特に桟橋から転落しないように足元を煌々と外灯で照らしてくれているのは助かる。
 事前の調査では今夜のヨットハーバーは貸切だ。
 貸切……正確には正式な出航予定の船が無いために事務員の姿をした逃がし屋の窓口要員しか居ない。
 ヨットハーバーを300m離れた位置からノクトビジョン付きの双眼鏡で覗く。
 愛車の青いN-BOXはここで待機。双眼鏡を助手席に放り込むと愛車を廃屋同然の倉庫内に停めて降車し、徒歩で向かう。モッズコートのハンドウォームから赤い紙箱を取り出し、その中からアジオ・ハーフコロナを1本抜き出して口にやおら銜える。
 掌で覆いを作りながらブラス仕上げのジッポーで先端を炙りながら吸い込む。口の中に東南アジア葉巻特有の香りが広がり生理的反応で唾液が分泌される。
 葉巻を半分ほど灰にした辺りで、地面に吐き捨てて爪先で蹂躙して火の気を完全に消す。葉巻の愛好家が見たら噴飯する光景だ。葉巻は吸わずに放置しておけば勝手に鎮火する。それにポイ捨てはモラル的重罪に値する。
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