凍てつきが這い寄る!
東領言子という人物は今に到る生い立ちに謎の部分が多い。年齢が24歳であることを公言しているが、それを裏付ける書類は皆無。運転免許証も偽造屋に大金を積んで作らせた。賃貸契約のマンションに住む際も様々な偽造書類を活用した。
そもそも、東領言子が自分の事を気軽に話す相手を作らない。
この世界では、この後ろ暗い世界では、このどうしようもなく暗澹たる空気が支配する世界では表の世界と縁を切って逃げ込んだ人間が多いので今更、驚くことではない。寧ろ本名を名乗る方が気が触れているとしか思えない。
経歴不詳は存在しても、人柄不詳は中々存在しない。
会話が皆無で表情が無く、自分を喋らない人物が居たとしてもそれはそのような個性なのだろう、それはそのように振舞うのが防衛手段なのだろうと『世間』は解釈する。
それに対し、言子は普通に会話し普通に生活を営み、普通に仕事を忠実にこなす、言うなれば植物のような生活を心掛ける人間だった。
いつも黒いスーツ。黒いフチの眼鏡。髪型はイメージチェンジを計ったことが無い。
少しサバサバした性格。気が強いが男勝りではない。身長170cm近い体躯はスーツの上からでは想像が難しい。ほんの少し胸の主張が強い印象だが、記憶に残るほどアンバランスなスタイルではない。
否、記憶に残る事柄が一つ。
彼女は場所を弁えないヘビースモーカーだった。
日常から赤い紙箱のハーフコロナを愛飲し、火が点いていなくとも横銜えにしている姿が度々目撃されている。
表の世界では少しばかり奇異な目で視られる姿。そのヘビースモーカーという特徴も、酒や煙草や麻薬に依存しなければ真っ直ぐ目を開く事が出来ない人間ばかりが吹き溜まる暗い世界では、余り珍しい光景ではない。
つまり、彼女の特徴的な風貌を以ってしても有象無象が犇く世界では普通の人間だったのだ。
今もまた、彼女は火の点いていないアジオ・ハーフコロナを横銜えにしてスーツ姿でベッドの上で寝転がっている。
眼鏡を額の上に押し上げて天井を見つめている。精気を感じない眼球には中空が映るのみ。銜えっぱなしのアジオ・ハーフコロナは3分の1ほどが既に灰になって灰皿に折られている。
草臥れたスーツ。皺だらけになっても気にしない白いシャツ。ネクタイは風雨に晒した縄のように垂れ下がっている。いつもパリッとしているので、この『だらし無い黒いスーツ姿』がトレードマークとして認識される事は余り無かった。
『どこにでも居る変わり者』の1人だ。
口に銜えたアジオ・ハーフコロナの先端が黒く焦げたまま手持ち無沙汰に揺れる。仰向けにベッドに転がって1時間は経過した。
部屋は薄暗い。遮光カーテンとレースのカーテンのうち、レースのカーテンだけが窓を覆う。
午前中の貴重な日光が緩やかに遮られる。日照不足で頑強な人間でも自律神経が崩れる時期に太陽の恩恵を受けないのは賢い選択とは言えない。
気だるそうに体を起こし、ベッドしか置いていない寝室を出る。
マンションの一室。一般的な中流家庭が背伸びをして賃貸するレベルの賃貸料。5LDK。23階建て12階の西側。
調度品が少なく、肌寒さすら覚える。実際に1月の空気は寒いがそれを加速させる冷気がこの物件に封入されていた。
どこに行っても安物のドライシガーの悪臭。5本1箱で700円也。ジャワ葉100%のハーフコロナ――全長100mm前後。直径14mm前後――は何だかんだと言いつつも、いつも言子の手元に有った安葉巻だ。その安葉巻の悪臭を押し退けるように、熱気が言子の顔を撫でる。キッチンに出た途端、システムキッチンとコンロの前を忙しく左右する少年が見える。
「あ、お早う御座います!」
利発そうな笑顔を浮かべて、幸薄そうな口元に幸せを浮かべて少年は振り返った。IH加熱器具でパスタを茹でている。
彼は自称家出少年の作上悠(さがみ ゆう)。彼の言葉を信じるのなら彼は高校を中退して、田舎から都会に出てきた17歳だ。
確かに儚げな印象を覚える幼い顔は成年を迎えていないだろう。流れるような茶色い前髪をヘアピンで留めて麗しい眉目を歪め、立ち上る湯気に立ち向かいながら昼食のカルボナーラを作っている最中だ。
身長は言子よりも5cmほど低い。肩幅も狭く腰周りも弱々しく、四肢には家事に必要なだけの筋肉しか付いていない。紺色のジャージにエプロンを掛けて、幸せそうに昼食を作る彼の後姿は生まれる性別を間違えた存在に思える。
男性器が付いているショートカットの抽象的な顔付きの少女かと間違えられても仕方が無い。
悠は行く宛ての無いところを『言子との契約』で雇われた使用人だった。
家事全般は彼が引き受ける。
家事力が皆無の言子には貴重な戦力だった。
彼女の健康が保たれている理由の7割は彼の尽力によるところが大きい。言子は口には出さないが、今までで一番『いい買い物』をしたとほくそえんでいる。
作上悠という少年は男娼だった。
金次第で誰にでも抱かれる、普通の不幸な生い立ちをした普通の少年だった。そして普通の家出少年の末路を辿っていた。
男娼を営むにもその場をシマにする組織に加盟しなければ客を取ることは許されない。更に上前を納めなければ春をひさぐ行為自体が目の仇にされて命すら奪われかねない。自暴自棄に陥る手前で彼は地下の娼窟で『日雇いの男娼』として源氏名を名乗る。
そんな生きる為に寿命を削る悠の前に現れたのが言子だった。
今から丁度1年前。
悠も言子も初々しく初心で瑞々しい感性が残っていた。
言子は家事をこなす生活力が皆無で、今直ぐにでもアルバイトを雇って家事全般を任せたかった。だが、都合のいい家政婦ほど表世界のハローワークでしか見つからず、ゴミの山が山積するマンションの自宅に溺れそうだった。
そこで言子は思いついた。生活基盤を与えるという口実と契約内容で『どこにも逃げ場の無い年少者で、言う事を何でも聞く都合のいい労働力』なら男娼や娼婦の世界に幾らでも居ると。
この際、家事が出来るか出来ないかは二の次だ。
言子の仕事を知っても口外しないアンダーグラウンドの若い男娼か娼婦を家政婦代わりに使おうと思った。家事はその内覚えるだろう、と。
娼窟に入ったばかりで、スレが少ない悠に目を付けた。おどおどした被虐的な眼差しに、か弱い美少年が原石のまま、磨かれもせずに放置されている姿は正に性的な玩具として大成功の香りしかしない。
その彼と個人的に契約を結び、娼窟には身請けを払って住み込みの家政夫とした。
その彼がその辺の主婦よりも生活力と家事に長けているのは、流石に計算外だった。
体を売る商売をしていたので自堕落な生活力しか持っていないだろうと思い、家事を独学で覚えさせるはずだったが、予想外にも彼は有能だった。
話を聞けば娼窟の住み込み部屋では先輩の男娼に家事を押し付けられていつも扱き使われていたという。更に夜は夜で先輩の男娼達に輪姦されて不満の捌け口にされて眠る暇も無かった。……常に逃げたいと思っていた悠の前に現れた言子は女神同然だった。
そして現在に到る。
今もこうして彼女の為に昼食を作っている。
彼女の為にカロリー計算の行き届いた食事を作ることに余念が無い。勿論、掃除洗濯裁縫等の家事は完璧にこなす。買い物に出ても生鮮食品売り場では鋭い選別を持って家計に優しい買い物を心掛ける。新聞のチラシは彼にとっては宝物のカタログだった。
そもそも、東領言子が自分の事を気軽に話す相手を作らない。
この世界では、この後ろ暗い世界では、このどうしようもなく暗澹たる空気が支配する世界では表の世界と縁を切って逃げ込んだ人間が多いので今更、驚くことではない。寧ろ本名を名乗る方が気が触れているとしか思えない。
経歴不詳は存在しても、人柄不詳は中々存在しない。
会話が皆無で表情が無く、自分を喋らない人物が居たとしてもそれはそのような個性なのだろう、それはそのように振舞うのが防衛手段なのだろうと『世間』は解釈する。
それに対し、言子は普通に会話し普通に生活を営み、普通に仕事を忠実にこなす、言うなれば植物のような生活を心掛ける人間だった。
いつも黒いスーツ。黒いフチの眼鏡。髪型はイメージチェンジを計ったことが無い。
少しサバサバした性格。気が強いが男勝りではない。身長170cm近い体躯はスーツの上からでは想像が難しい。ほんの少し胸の主張が強い印象だが、記憶に残るほどアンバランスなスタイルではない。
否、記憶に残る事柄が一つ。
彼女は場所を弁えないヘビースモーカーだった。
日常から赤い紙箱のハーフコロナを愛飲し、火が点いていなくとも横銜えにしている姿が度々目撃されている。
表の世界では少しばかり奇異な目で視られる姿。そのヘビースモーカーという特徴も、酒や煙草や麻薬に依存しなければ真っ直ぐ目を開く事が出来ない人間ばかりが吹き溜まる暗い世界では、余り珍しい光景ではない。
つまり、彼女の特徴的な風貌を以ってしても有象無象が犇く世界では普通の人間だったのだ。
今もまた、彼女は火の点いていないアジオ・ハーフコロナを横銜えにしてスーツ姿でベッドの上で寝転がっている。
眼鏡を額の上に押し上げて天井を見つめている。精気を感じない眼球には中空が映るのみ。銜えっぱなしのアジオ・ハーフコロナは3分の1ほどが既に灰になって灰皿に折られている。
草臥れたスーツ。皺だらけになっても気にしない白いシャツ。ネクタイは風雨に晒した縄のように垂れ下がっている。いつもパリッとしているので、この『だらし無い黒いスーツ姿』がトレードマークとして認識される事は余り無かった。
『どこにでも居る変わり者』の1人だ。
口に銜えたアジオ・ハーフコロナの先端が黒く焦げたまま手持ち無沙汰に揺れる。仰向けにベッドに転がって1時間は経過した。
部屋は薄暗い。遮光カーテンとレースのカーテンのうち、レースのカーテンだけが窓を覆う。
午前中の貴重な日光が緩やかに遮られる。日照不足で頑強な人間でも自律神経が崩れる時期に太陽の恩恵を受けないのは賢い選択とは言えない。
気だるそうに体を起こし、ベッドしか置いていない寝室を出る。
マンションの一室。一般的な中流家庭が背伸びをして賃貸するレベルの賃貸料。5LDK。23階建て12階の西側。
調度品が少なく、肌寒さすら覚える。実際に1月の空気は寒いがそれを加速させる冷気がこの物件に封入されていた。
どこに行っても安物のドライシガーの悪臭。5本1箱で700円也。ジャワ葉100%のハーフコロナ――全長100mm前後。直径14mm前後――は何だかんだと言いつつも、いつも言子の手元に有った安葉巻だ。その安葉巻の悪臭を押し退けるように、熱気が言子の顔を撫でる。キッチンに出た途端、システムキッチンとコンロの前を忙しく左右する少年が見える。
「あ、お早う御座います!」
利発そうな笑顔を浮かべて、幸薄そうな口元に幸せを浮かべて少年は振り返った。IH加熱器具でパスタを茹でている。
彼は自称家出少年の作上悠(さがみ ゆう)。彼の言葉を信じるのなら彼は高校を中退して、田舎から都会に出てきた17歳だ。
確かに儚げな印象を覚える幼い顔は成年を迎えていないだろう。流れるような茶色い前髪をヘアピンで留めて麗しい眉目を歪め、立ち上る湯気に立ち向かいながら昼食のカルボナーラを作っている最中だ。
身長は言子よりも5cmほど低い。肩幅も狭く腰周りも弱々しく、四肢には家事に必要なだけの筋肉しか付いていない。紺色のジャージにエプロンを掛けて、幸せそうに昼食を作る彼の後姿は生まれる性別を間違えた存在に思える。
男性器が付いているショートカットの抽象的な顔付きの少女かと間違えられても仕方が無い。
悠は行く宛ての無いところを『言子との契約』で雇われた使用人だった。
家事全般は彼が引き受ける。
家事力が皆無の言子には貴重な戦力だった。
彼女の健康が保たれている理由の7割は彼の尽力によるところが大きい。言子は口には出さないが、今までで一番『いい買い物』をしたとほくそえんでいる。
作上悠という少年は男娼だった。
金次第で誰にでも抱かれる、普通の不幸な生い立ちをした普通の少年だった。そして普通の家出少年の末路を辿っていた。
男娼を営むにもその場をシマにする組織に加盟しなければ客を取ることは許されない。更に上前を納めなければ春をひさぐ行為自体が目の仇にされて命すら奪われかねない。自暴自棄に陥る手前で彼は地下の娼窟で『日雇いの男娼』として源氏名を名乗る。
そんな生きる為に寿命を削る悠の前に現れたのが言子だった。
今から丁度1年前。
悠も言子も初々しく初心で瑞々しい感性が残っていた。
言子は家事をこなす生活力が皆無で、今直ぐにでもアルバイトを雇って家事全般を任せたかった。だが、都合のいい家政婦ほど表世界のハローワークでしか見つからず、ゴミの山が山積するマンションの自宅に溺れそうだった。
そこで言子は思いついた。生活基盤を与えるという口実と契約内容で『どこにも逃げ場の無い年少者で、言う事を何でも聞く都合のいい労働力』なら男娼や娼婦の世界に幾らでも居ると。
この際、家事が出来るか出来ないかは二の次だ。
言子の仕事を知っても口外しないアンダーグラウンドの若い男娼か娼婦を家政婦代わりに使おうと思った。家事はその内覚えるだろう、と。
娼窟に入ったばかりで、スレが少ない悠に目を付けた。おどおどした被虐的な眼差しに、か弱い美少年が原石のまま、磨かれもせずに放置されている姿は正に性的な玩具として大成功の香りしかしない。
その彼と個人的に契約を結び、娼窟には身請けを払って住み込みの家政夫とした。
その彼がその辺の主婦よりも生活力と家事に長けているのは、流石に計算外だった。
体を売る商売をしていたので自堕落な生活力しか持っていないだろうと思い、家事を独学で覚えさせるはずだったが、予想外にも彼は有能だった。
話を聞けば娼窟の住み込み部屋では先輩の男娼に家事を押し付けられていつも扱き使われていたという。更に夜は夜で先輩の男娼達に輪姦されて不満の捌け口にされて眠る暇も無かった。……常に逃げたいと思っていた悠の前に現れた言子は女神同然だった。
そして現在に到る。
今もこうして彼女の為に昼食を作っている。
彼女の為にカロリー計算の行き届いた食事を作ることに余念が無い。勿論、掃除洗濯裁縫等の家事は完璧にこなす。買い物に出ても生鮮食品売り場では鋭い選別を持って家計に優しい買い物を心掛ける。新聞のチラシは彼にとっては宝物のカタログだった。