凍てつきが這い寄る!

 孝枝の口が大きく息を吸い込んだまま硬直する。
 顔面は蒼白になる。
 熱い汗が、熱い緊張感が一転して冷たい感覚へと変貌する。背中から氷柱で心臓目掛けて串刺しにされた感触とはこんな感じなのだろう。
 背後に女が居る。いつの間にか居る。気配はしなかった。
 否、気配を感知する努力を怠っていた。
 ほんの一瞬だけの油断。目の前で何かが……大きな面積の布が翻ったのを勝手に解釈しただけだ。いつから敵は暗闇に潜んでいると錯覚していたのか。
「銃にセフティを掛けて静かに地面に置きなさい。二度は言わない」
 背後の若い女の声は夜よりも深く氷よりも冷たく、孝枝の耳奥深く届く、脳髄を氷の手で攪拌されるイメージが襲い掛かる。
 孝枝は眉目を僅かに歪めるとささやかな抵抗と言わんばかりに右手の人差し指を僅かに動かす素振りを見せた。
 銃声。孝枝の後頭部より右側頭部で銃声が『破裂する』。
「!」
 孝枝は声にならない悲鳴を挙げ、白目を剥きながら両膝を地面に沈めて右耳を両手で押さえた。
 相棒の年代物のブローニングハイパワーが無残にも地面と衝突して粗い傷がスライドに刻み付けられる。撃鉄を起こしたままのブローニングハイパワーは暴発し、その反動で数m先の路地の出口まで吹き飛ぶ。
「二度は言わないと言った筈よ?」
 声の主は飽く迄冷淡だった。
 声にまで血液も体温も人間味も感じない。機械のような声だった。
「あーっ! あーっ! あーっ! あーっ!」
 孝枝は痛みを堪えられず大声で叫ぶ。
 右耳の直ぐ傍で銃火が閃いたのだ。そのマズルフラッシュで顔の右側を焼かれただけでなく、鼓膜を酷く損傷して聴力を失った。更に三半規管にも影響が及んだのか、両膝を突いて苦悶する背中がぐるぐると右回転している。
 両手で押さえた右耳の辺りから大量の血液が溢れ落ちる。
「会話が出来るように左耳は残しておいてあげる。私がここにやって来た理由は解るでしょ?」
 女……背後に立つ、黒いスーツ姿の、黒ぶち眼鏡の、耳上無造作パーマでショートカットの若い女は、その黒尽くめの20代前半の若い女は白い息を口から吐きながら能面のような顔で激痛に悲鳴を挙げるしか手立てが無い孝枝を見下ろしていた。
 黒尽くめの女の右手にはコルトM1908。
 全長17cmばかりの、9mmショート7+1発の自動拳銃だ。孝枝ブローニングハイパワーよりも古い拳銃だ。
 唇の端を強く噛み縛りすぎて唇が破けて鮮やかな血を流す孝枝。
 その凄まじい形相で、自分よりも10歳近く若いであろう女にゆっくりと振り向いた。
 そこにい、能面の黒尽くめ。
 それを見る般若の孝枝。
「『加納孝枝さんですね。債権の件で回収に上がりました』」
 若い女は唇だけ営業スマイルを浮かべて孝枝に語りかける。
 孝枝は顔面で威嚇する以外に為す術も無くギリギリと歯軋りをする。その度に破れて唇から赤い血がつうっと流れる。唇の中の柔らかい肉がはみ出している。
「貴女の債権を回収に上がった者ですが。支払いは可能ですか? そうですか無理ですね。無理みたいですよね」
 コルトM1908の銃口を孝枝の額に押し付ける、黒尽くめの女。
「関係各所に問い合わせたところ……『まだ使える部分が有るとの事ですので』回収させていただきます」
 孝枝は激痛と屈辱に眦に涙を浮かべる。だが、闘志は失っていない。右手に相棒が居なくとも、何としてでも切り抜けるという強い意志が宿っていた。
 正に視線で射殺す勢いだ。
 だが、無情だ。非情だ。
 黒尽くめの女はコルトM1908の引き金を引いた。
 今度は左側頭部に向けてだ。
 左顔面に火薬滓が張り付いて今度は左耳の聴力も失う。失禁しながら気絶する孝枝。口の端から泡を吹いている。死んではいない。死なれては困る。
「……」
 黒尽くめの女は白い息を吐きながら、冷たい風に晒されながらスーツの懐から左手でスマートフォンを取り出し、然るべきダイヤルを押す。
「債権は回収できず。『代替』は回収可能。直ぐに手配を」
 それだけ話すとスマートフォンのディスプレイを幾つか素早く操作してGPS連動の所在地のデータを送信し、スマートフォンを懐に押し込む。
 彼女の視界に孝枝の無残で無様な姿が映っていたが、丸で道端の石ころでも見る、全く意に介さない顔で踵を返して10mほど向こうの暗がりの中にある遮蔽へと向かう。
 コルトM1908にセフティを掛けて左脇に財布でも仕舞うかのような仕草で仕舞い込む。遮蔽の角にはオリーブドラブのモッズコートが吊られていた。
 孝枝はこれが発する衣擦れを勝手に勘違いして歩みを止めてしまった。それを回収した黒尽くめの女はモッズコートに袖を通して背中を丸める事無く胸を張って更に奥の暗がりへと爪先を向けた。
   ※ ※ ※
 東領言子(とうりょう ことこ)。
 24歳。万屋を看板にする闇社会専門の債権回収業者。
 逃走した借金持ちを追いかけて借金、或いはそれに相当する金目の物を回収してクライアントに届ける後ろ暗い仕事を生業にする。
 紙や口頭での契約や約束は正に価値の無いゴミクズに成り下がるのが裏の世界の怖いところだ。その世界では借金の踏み倒しは日常茶飯事だ。
 だからと言って殺害してしまっては金を貸した方は損をする。そこで言子のような荒事に吶喊する債権回収業者が必要になる。
 明るい世界で暴力団が借金の取立てを行うドキュメンタリーが放映される事があるが、実際はもっと泥臭い。堅気が相手ならそれで通じるだろうが、最初から逃走を企てる暗い世界の負債者は文字通りに実力行使で逃走を行う。
 テレビでよく見る、見てくれが、見るからに三下の取り立て業者がのこのこと取り立てに行くとあっという間に返り討ちにされて逃げ果せられる。ドア越しにマグナムを一発、ズドンと発砲されれば金を貸した方が死体となる。
 ハイリスクハイリターンの金融関係。
 言子はフリーランスで債権回収業者を生業にしている。
 勿論、公に名乗っていたのであれば表の世界から無職なのに金廻りが良いと怪しまれるので万屋……何でも屋、便利屋を名乗って身分を韜晦している。
 一日に5万円の収入を得ていると帳簿につけ、税務署に申告する。勿論、そのような帳簿は嘘っぱちで、よろず仕事の依頼人や必要経費は全てヤラセでサクラだ。
 危険な業界には違いない。
 殆どの場合、鉄火場に発展する。
 金を貸しても、この街を出て他所の街で出直しが利く場合が往々にして有る。逃げた債権者は他所の街で更に大きな実力を持つ組織に取り込んでもらって一つ二つ大きな手柄を立てれば直ぐに傘下に収められる。
 その組織が、金貸しと仲が悪ければ……ライバル関係にあれば尚更だ。金貸しやその上位組織に嫌がらせをするために態と債権者を囲って庇護する。
 そうなれば言子の様な小さな個人では解決できない問題になる。それを何としても阻止するのが言子達、債権回収業者の仕事だ。
 尤も……殆どの場合、逃走資金しか持ち合わせていない場合が殆どなので、先日の夜の仕事のように、ブローニングハイパワーを相棒とする運び屋の加納孝枝のように、『生かしたまま回収して臓器や血液や骨髄や眼球を売り払い』金に換えて借金の返済の当てとする。
 結局は人間の生き血を啜る卑しい仕事だった。
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