凍てつきが這い寄る!

 目の前の廃屋。木造2階建て。
 中流家庭4人暮らしなら問題無い規模。今では風雨に晒されて壁が剥がれてガラスにも皹が入っている。この辺りに潜む残り2人に構わずに玄関のドアの鍵を9mmショートで破壊する。ドアが軋んで衝撃でたわんで開く。
「!」
 駆ける。その家屋に飛び込んで2階へと進む。
 ライトが照らし出す世界。埃に足跡。時折小さな血痕。埃の足跡は複数。靴底の跡は少なくとも3種類。大きな靴底の跡だけがこの家屋を往来している。
「逃げて!」
 2階へ向かう階段を昇っている最中に。悠の振り絞るような声が聞こえた。
 頭が沸騰する。
 急激に視野狭窄に陥る。
 辺りが『見えなくなる』。
 ライトの照射範囲は正常だ。正常でないのは思考力だ。何にも目をくれずに2階へと昇る。
 左右へ分かれる角で銃声がする。瞬間、目の高さにある角の壁紙が爆ぜる。モッズコートが埃塗れになる。床に伏せて手榴弾を投擲するように左手のタクティカルライトを銃撃された方向に投げる。
 銃声が続くも、床を転がるライトに銃弾が集中する。
 銃声の違いは2つ。
 床に伏せた状態から、無理な体勢から上半身を角から覗かせてコルトM1908を発砲。ライトが照らし出した僅かに明るい世界に浮かんでいる3m右前方の人影に3発、叩き込む。頭部、胸部、腹部に1発ずつ。横隔膜を破損したのか蛙を踏み潰したような音を発してその影は糸の切れた人形のように倒れる。
 その銃撃の隙間に悠の声が聞こえた気がする。
 何かを訴えているらしい。
 怒りの興奮で感覚が狭窄を始めている言子の耳は悠の声しか聞こえないのに、その声の真意を判断できていない。
 もう1人の影が慌てて踵を返す脚が遮蔽の角から出た。
 その足……脹脛に向かって発砲。
 命中。
 骨に命中したらしく、爪先が不自然な方向を向く。怪鳥のような悲鳴。撃たれた影が激痛のあまり叫んだようだ。
 目前の脅威を排除した言子は前のめりになりそうな勢いで立ち上がって前方に駆ける。片方の脹脛を負傷した影が入り込んだ部屋。その部屋に入るなり、発砲。
 6畳ほどの狭い世界で銃火が美しく咲いて一瞬だけ世界に灯火を与える。
 理解。
 この部屋には3人居る。
 日本刀を大上段に携えた男。
 右脹脛を抱えて苦悶している男。
 部屋の隅で上半身裸にされて後ろ手に縛られて転がされている悠。
 容赦はしなかった。
 銃声が更に轟く。
 2発。
 脹脛を負傷して自由でない男の喉仏に1発。白鞘で無い日本刀……拵えの有る日本刀を携えた男の胸部に1発。
 この間、1秒にも満たない。
 予想通り、5人以外に1人が居た。
 その1人は日本刀を携えてこの部屋に誘い込まれる言子の首を刎ねる役割を担っていたのだろう。日本刀の男……灰色と思われるスーツにノータイで黒革のハーフコートを羽織った男は壁にもたれかかりながらズルズルと力なく座り込んで項垂れたまま動かなくなった。
 日本刀の切っ先が畳に突き刺さって真っ直ぐに立っている。
「……悠」
「………………申し訳……ありません」
 蚊の飛ぶような小さな悠の声。
 ジッポーを着火。温かみの有る丸いオレンジの灯りが辺りを柔らかく浮かび上がらせる。
「!」
 悠は家で居た時と同じ水色のスエットに靴下、買い出し用の靴を履いただけで上半身は裸だ。
 更にその体には殴打や鞭打ちなどのリンチの跡が浮かび上がり始めている。
 歯ぎしりをしながら、彼の後ろ手に縛られた結束バンドをアーミーナイフで切断する。
「食べて! ちょっと待ってて!」
 持参していた板チョコを悠に強引に持たせると、死体から血で汚れていない衣服を探すがそんな都合のいい物が有るはずが無い。
「これ着て。さあ、帰ろう」
「……はい……」
 ジッポーを左胸に落とし込んだモッズコートを悠に着せ、彼に肩を貸しながらゆっくりとした動作で6畳間から出る。
 薬室に1発だけ実包が装填されたコルトM1908にセフティをかけて腹のベルトに差す。
 肌を差す寒さなど今の悠と比べれば何とも思わない。この時のために持参していた使い捨てカイロをモッズコートの裏側の腋や背部に貼り付けて少しでも体温の上昇に役立てる。
 彼の思った以上に華奢な体は今にもガラスのように壊れそうだった。こんなに恐ろしい目に遭わせてしまった自身を赦せない。
 階段を下りて玄関の開け放たれたドアに来るまでにタクティカルライトで足元を照らす。悠は黙々と板チョコを食んでいる。ハムかサラミを持ってくるべきだったと後悔。代謝の良い、若い悠がチョコレート程度で満足するわけが無い。
 玄関の小上がりの段差を下りようと悠をエスコートしようと思った時だ。
「がっ!」
 悠は突然、口を大きく開いて苦しそうに天井を向いた。白目を剥きかけている。
「悠!」
 言子は直ぐにコルトM1908を抜いた。
 悠は背中を引っ張られるように床の埃に引き摺り跡を作って後退する。
 セフティ解除。同時に悠の手から床に食べかけの板チョコが落ちる。
 タクティカルライトを咄嗟に悠に向ける。
 悠の頚部を背後から大きく掴んで引っ張っている手が見えた。
 その手の背後に男の影。ハーフコートを着た、胸部の真ん中を被弾して呼吸をするのも苦しいはずの、とっくに死んだと思っていた日本刀の男が額にグリスを塗ったような脂汗を浮かび上がらせて立っていた。
 男はすうっと日本刀の刃を悠の喉に宛がう。
 狭い廊下。短い廊下。彼我の距離3m。
 日本刀の男は凄まじい生命力で死線から一時だけ蘇った。
「…………名前、聞いておこうか」
「加納孝枝の家族、で納得してくれるか?」
 言子は出来るだけ冷静を装い、時間と隙を窺う。
 加納孝枝。いつぞやかのブローニングハイパワーの負債者が確かそんな名前だったと記憶している。怨恨か。単純だが、人間の怨恨は単純なほど凶悪で強力だ。
 地獄の底から呻くような男の声は腹に響く。
 最後まで名乗らないだろうし、交渉の余地も手加減や人質の交換にも応じないだろう。言子と悠諸共ここで殺害するのが加納孝枝の家族を名乗る男の今生で最後の願いに違いない。
 日本刀を喉に当てられた悠は、口の端から涎を流しながらも枯れる声で絶叫した。
「言子さん! 『好き』です! 『やってください!』」
 言子は唇を強く結んだ。
「悠! 『貴方のことは何でも知っているわよ!』」
 言子は引き金を引いた。
 弾倉は空。薬室の1発。
 それが狭い廊下で3mの距離で、絶対に日本刀の男に決定打を与えられないほど悠が邪魔な空間で彼女は発砲した。
 引き金を引く瞬間に見せた、悠の小春日和のような仄かに温かい微笑みは忘れない。
 ネコのように目が細くなった、幸せを噛み締めた微笑み。彼はその微笑みを湛えたまま、脱力し、自力で立つ事が出来なくなった。
「…………」
「…………」
 被弾の衝撃が『彼』をブルンと震わせた。
 悠の左胸に風穴が開き、彼は肩から爪先まで、力を失った。立つ事も喋る事も出来ない。恐らく、息もしていない。
 日本刀の男は信じられない光景を見たという顔を隠さずに、右手首の中で脱力して鉛のように重くなった人質の少年を思わず離してしまった。
 その少年は床に両膝を衝いて正座をするフォームで座り込み、スローモーションで顔面から倒れる。両手を揃えずに土下座をするのに似た格好で悠は微動だにしなくなった。
「は、ははっ! 馬鹿め! その銃にタマは残っていない! ちゃあんと数えていたからな!」
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