凍てつきが這い寄る!

 否、悠は思春期だ。
 その彼が可愛らしい恥じらいを見せるものだから、先に部屋風呂である露天風呂に入る。『自分の残り湯が彼の体に染み渡る』のかと思うと何故か、言子は顔を気まずく赤くする。
 同じ屋根の下で暮らしているが、裸の付き合いは『無い』。
 死活問題。
 契約主が雇用者に対して……アンダーグラウンドを走り回る人間が高が混浴温泉如きで心が揺れているとなると沽券に関わる。……随分と可愛らしい沽券だが。
 自宅では数え切れないくらいにバスタブを共有したのに、雰囲気が違うだけでこうも簡単に感情は自分の理性を裏切るのかと、頭の天辺まで逆上せる思いで湯船につかる。
 様々な少女のような葛藤もやがて温泉の効能と、足腰を存分に伸ばせる広い浴槽の魔力に吸い込まれて程よく温まった。
 願わくば、このような人並みの平和が続きませんように。
 こんなに平和な安息が続くと逆に不安になる。
 幸せの影で、地獄がほくそえんで大きな口を開いて待ち構えているような漠然とした恐怖を感じる。
 この後、夕食を終えてロビーで葉巻を吸い終えて部屋に戻ると、一組の布団が敷かれていた。思わず顔を見合わせる言子と悠。
「し、仕方ないですよね……はは」
 確かに仕方が無い。
 波乱万丈でない、平凡すぎて幸せに満ちた2泊3日が終了した。
 帰路に就いている最中で、運転席から助手席を見ると悠が心地よい寝息を立てていたので、これはこれで有りだと初めて幸せを享受した。ささやかで誰の罪にもならない人並みの幸せ。
 帰路の車内では悠の寝息を邪魔してはいけないと、いつもの葉巻はぐっと我慢した。
  ※ ※ ※
 2月も終わろうかとしていた。夕方。
 仕事部屋に篭っていつものように銜え葉巻でスマートフォンとパソコンとシステム手帳に視線を走らせながらスケジュールを確認していた。依頼に優先順位をつけるだけでなく、重要度の高低も判断する。重要度が高いから最優先で片付ける案件とは限らない。
 アイスコーヒーのように冷たくなったコーヒーで喉を潤す。
 空気が乾燥している上に葉巻を銜えっぱなしなのだから、口中は干からびたように渇く。ふと壁時計に目を向け、悠の気配を何と無く察知しようとするが食材を買いに出たままだというのを思い出す。
 2月は終わりが近い。だが、緩まぬ寒さ。
 この寒さがピークであって欲しいと願うばかり。とはいえ、夏場に黒づくめもかなりキツイ。
 2時間経過。
 空腹を覚えてキッチンへ向かう。確かに買い物カバンと食材購入用の財布が無い。
 テーブルの上の菓子籠に入っていたバナナやチョコレートを齧る。自分でコーヒーをドリップして飲む。熱いのに悠が作るコーヒーより美味しくない。
 更に1時間経過。午後8時。
 流石に心がざわつく。砂を喉に流し込まれたような不快感が気管を支配する。
 子供じゃないんだから、と悠の携帯電話に連絡を入れて居場所を聞くことはしなかった。
 悠の居場所を探る為に彼のGPSを探る真似も今まではしなかった。……だが、流石に焦る。自分の要件を後回しにしても言子の食事だけは優先する彼の身に何か有ったのでは? と勘繰る。
 プライベートで使うスマートフォンでアプリを起動させてそれと連動するGPSで悠の居場所をサーチする。
「!」
 繁華街から大きくずれている。住宅街からも商業地区からも大きく外れている。
 彼の居場所を示すピンはディスプレイの地図上では郊外の造成地を指していた。まだ碌に道路も舗装されていない、造成されたばかりの地区。市内。山間部へ続く途中に有る新興住宅街の一つ。
 背中を冷たい掌で触れられた悪寒。
 『悪い事が起きている』。
 脳内の温度がどんどん下がる。
 ディスプレイを見つめる言子の双眸からオフタイムの光が消えて徐々にアンダーグラウンドを徘徊する者の目つきへと変貌する。
 悠が標的になったのではない。『言子が標的になった』のだ。
 悠は都合のいい人質だ。背後関係や怨恨の筋を当たるのは無駄だった。心当たりが多過ぎる。ライバル業者や同業者の嫌がらせかもしれない。
 大急ぎで菓子籠に手を突っ込んで板チョコを掴んでスーツのポケットに捻じ込む。
 仕事部屋に戻り、ショルダーホルスターを装備し、予備弾倉が差し込まれたポーチをベルトに通す。
 ネクタイを締めて気を引き締める。いつものモッズコートに袖を通し、テーブルの上のノートパソコンを閉じて『仕事に必要な道具』をモッズコートのポケットに押し込む。
 部屋を出る直前に使い捨てカイロを5枚ほど掴んでそれもモッズコートのポケットに落とし込む。悠が人質とされて寒くてひもじい思いをしていると察した。彼は言子ほど頑強な体ではない。
 悠がどのような目的であれ、行く必要の無い郊外で存在しているということは罠だ。
 携帯電話のGPSが発達した現代では通話をしなくとも誰がどこで何をしているのか大体の予想はつく。
 悠を拉致した或いは唆した人物や集団の姿は不明だが、少なくとも彼に直接用件は無いのは確実だ。『彼と言子では積み上げてきた罪の数が圧倒的に違う』。
 愛車の青いN―BOXに乗り込む。
 苛立ちを宥める為に乱雑に安葉巻を銜える。ブラス仕上げのジッポーで先端を炙りながら大きく口腔に吸い込み、肺腑の空気諸共、怪獣のように紫煙を吐く。
 一気に車内が白く濁る。カー用品店で買った2個小型の空気清浄機が作動する。大枚を叩いて買った馬力の強い吸引力と清浄能力を誇る空気清浄機も、2個の実力を以ってしても車内の空気を浄化させるのには無理が有った。
 急発進。地下駐車場のコンクリにタイヤの焼ける臭いを刻み付ける。
 スマートフォンをナビとして使用する場合の専用ホルダーにプライベート用のスマートフォンを差し込んでアプリと連動させて悠が居るであろう地点を目指す。
 悠のスマートフォンが囮に使われて、悠本人はどこか別の場所で幽閉されている事を願う。
 間違えても最悪の事態は考えない。験担ぎではないが、『悪い時に悪い事は考えない方が生存率と成功率は高い。予想する最悪の事態の9割は的中しない』。自分にそう言い聞かせる。
 走る。
 ストップ&ゴーや曲がり角の多い街中では軽自動車は有利だが直線距離をかっ飛ばすとなるとやや不利。アクセルをべた踏みでも気が焦るばかりで愛車は牛のようにのろく歩いている気がする。
 住宅街を抜けて山間部へ向かう一般道へ合流。そこから苛つきを押さえながら制限速度を遵守しながら走る。この辺りはどこの角にカメラが備えられているか解らない。
 気が焦るほど、速度超過を見過ごさないカメラが視界に入り、銜えた葉巻は益々短くなる。
 頭の中で様々な憶測と推測と想像が衝突する。GPSの指し示す場所をもっと詳細に調べなかったのは痛恨のミス。ディスプレイ上のピンは建物を差しているのか造成されたばかりの番地を差しているのか不明。それが判明するだけでも救出の手順は大きく違ってくる。
 高額でも良いからダイレクトに情報を提供してくれる情報屋を頼りにするべきだった。
 漸く愛車が目的地に言子を運んだのは1時間後だった。
 速度を遵守したのと信号に引っ掛かる回数が多かったのと途中で事故が発生して通行制限されていたのが苛つきの頂点だった。カップホルダーの灰皿にはアジオ・ハーフコロナが屍骸を晒して山を為していた。
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