凍てつきが這い寄る!
遅れて大の字になって枯れた溝の中に仰向けに倒れる警護対象……『逃亡する者』の顔が見える。
額に風穴を確かに拵えている。
生き残った警護要員は言子を狙って銃撃することは無かった。自分の任務が遂行できなかったことを悟ったのだ。
自分自身を囮にして逃亡者を演じ、警護対象に追跡者が潜んでいる場所を教えてじっくり狙って撃てと命じてその場を離れた。矢張り、基本のマニュアルから外れた行動をするものじゃないと警護対象は悔しがった……が、警護対象は速やかにその場を離れた。
自分が遂行できなかった今回のケースは、遅かれ早かれ情報屋経由で情報をばら撒かれ自分の信用にも障害が発生する。
もう死んでしまったクライアント……警護対象に執着する必要は無い。死体を回収しても何も得は無い。
後金を貰い損ねた上に、手配した逃がし屋や運び屋や隣街へエスコートする組織の先導に違約金や『オトシマエ』を払うのにこれから忙しくなる。
「……」
辺りが静まり返り、自分の呼吸しか聞こえなくなった。
のそのそと立ち上がる。倦怠感。地面に体温を奪われすぎたか。モッズコートの右腰ポケットから剥き出しになったまま押し込んだアジオ・ハーフコロナを抜き出して銜える。
派手に地面を這いずり回ったので、半分ほどの長さで折れてしまっている。短い安葉巻にブラス仕上げのジッポーで炙る。
言子の幽鬼のような姿を太陽が明るく照らす。
味のしない葉巻。味がしない葉巻。
達成感よりも疲労感が大きい。
踵を返し、ライトの点滅が終了していた自分のスマートフォンを回収して然るべきダイヤルを押す。
「?」
会話の最中に眩暈。急激な偏頭痛。自分の会話に覇気が無い。軽い吐き気。それらを堪えて通話を終了。
いつも通りにGPSで情報を送る。
死体と化した負債者を回収する為の要員が直ぐに来る。予想通りに負債者を殺害してしまった事を詫びても血の気の通わない声でそれを赦す返答が有った。矢張り、何かしらが原因で逃亡するに到った組織者だった。
口から葉巻が落ちる。
何が起きたのか解らなかった。眩暈と耳鳴りが一段と酷くなったと感じた瞬間。彼女の世界はぐるりと一回転した。そして彼女はその場で仰向けに大の字になって倒れていた。
※ ※ ※
ただの疲労。
闇医者はそう診断して、栄養剤をたっぷりと注入した点滴の輸液に油性マジックで患者の名前と開始時刻を書いた。
負債者という名の逃走者を仕留めた。
そしてクライアントに連絡した。そこまでは覚えている。我慢のしようが無い不快感を覚えたと思ったら意識が無かった。
目が覚めたら清潔でない小汚い部屋の硬いベッドで寝かされて薄っぺらい毛布を掛けて寝かされていた。
ゴキブリが這っていそうな天井と壁。床板は軋んで耳に不快。先ほど、酒臭い老年の小男の闇医者が「ただの疲労だ。寝てろ」と言って部屋を出て行った。
部屋には片腕を無くし、両目を失ったミイラみたいな男がベッド寝そべっていた。頚部を負傷し、呼吸が浅く短い男が応急手当だけを受けて毛布も掛けられずにベッドの上で死線を彷徨っていた。
闇医者の診療所。一目で理解できた。
自分はあの現場で倒れたらしい。クライアントの寄越した回収の命を負った人間に自分が仕留めた負債者と供に回収されてここに放り込まれたらしい。
クライアントとしても自分達の策謀が外部に漏れるのを避けるために生き残っていた言子を回収した……と肯定的好意的に解釈した。実際は今回の仕事の後金を払うのを渋る口実を作るためにまだ息が有った言子を回収したのが本当だろう。
何はともあれ命が有ったことに感謝だ。
そして心配すべき事項がどれもこれも最優先で冷や汗が流れ出る。体を起こそうにもベッドに縫い付けられたように体が重い。
「…………」
――――葉巻吸いたい……。
兎に角、自分を宥めたいが為に葉巻を求める。
ベッド脇の小さな折り畳みテーブルにコルトM1908とスマートフォンが置いてあった。
目を廻らせると、壁に自分が着ていたモッズコートとスーツが乱雑にハンガーで引っ掛けられている。自分が寝ている間に懐の物が全て窃盗の目に遭っていないか心配だった。
スマートフォンなど、見た目は無事でも電気屋街で売られている非合法な機器を用いればデータだけを全て抜き取ったりパスコードを解除するのは実に簡単だった。
「…………悠」
思わず口を衝いて彼の名前が出る。
悠は何をしているだろうか? 悠が心配になった。悠を心配させている自分を殺してやりたいくらいに後悔した。そして悠の手料理が恋しくなって空腹を覚える。
この部屋に壁時計は無かった。左腕を僅かに動かすと腕時計が巻かれたままの感触を感じる。
スマートフォンの番号は悠には教えていない。そして彼には毎回、仕事がいつ終わるかも報せていない。
落ち着いて心配事を整理する。
点滴が終了するまで2時間。
心配事を脳内で整理しているうちにいつの間にか睡魔に襲われ意識を無くすように眠っていた。腕から針を抜かれる痛みで目が覚めたのだ。
それからは重い体を引き摺って、空腹を耐えて闇医者の夕食である出前と同じく、近所に有るらしい中華料理屋でラーメンを注文させてもらい、掻っ食らってタクシーで帰宅した。
幸いにも懐から何も抜き出されては居なかったが、情報を吸い出された可能性は否定できなかった。
勿論、帰宅するなり、悠は顔色を青く変えて『言子を抱きかかえて寝室に運び込み、上着やスーツを乱暴に脱がせると有無をも言わせずベッドに押し込んだ』。
疲労極まれり。
自己責任と自己管理が甘すぎたのではない。
完全にオーバーワークだった。
依頼を『心身の不調を招かない程度に奮起していれば』こんな事にはならなかった。甘かったのは自分の体のスペックを過大評価していたことだ。
壁時計とカレンダーを見る。
午前11時を少し経過。
あの山間部で逃走者を仕留めてから3日も経過している。3日もあんな不衛生な診療所で寝ていたらしい。
その日の晩は胃に優しいからと鮭フレークと卵を溶いた少し固めの粥を土鍋で作ってくれてありがたく食べた。
胃のむかつきは、どうやら空腹で縮まった胃袋に大して美味くないラーメンを飲み込むように食べたからだ。不思議と悠の作る粥は幾らでも食べられた。悠は言子の顔色を見ただけでどんなコンディションで、どんな食事が必要なのか理解したらしい。
※ ※ ※
死活問題。精神的に。
疲労が回復するのに1週間も休業した。
1週間くらいの休業では言子の商業成績は下がらない。寧ろ、この時の為に普段からの蓄えが有る。平和を望むのなら戦いに備えよの精神で、不測の事態で休業に陥った場合の考えは用意して有る。問題はそこではない。
混浴だった。
いつか行きたいと思っていた近場の温泉。
行ってみると改装中で休業していた。仕方なくその近くに有る、ライバルが減って儲かっているはずの温泉宿に飛び込んで、一も二も無く2泊3日を偽名で記帳して部屋の鍵を貰った。
雪が絶景の名所。山々の寒空も露天ならではの愉しみ。だが、大浴場は混浴だ。
「……」
「……」
言子も悠も何故自分達が思春期の少年少女のように恥じらいを感じているのか解らなかった。
額に風穴を確かに拵えている。
生き残った警護要員は言子を狙って銃撃することは無かった。自分の任務が遂行できなかったことを悟ったのだ。
自分自身を囮にして逃亡者を演じ、警護対象に追跡者が潜んでいる場所を教えてじっくり狙って撃てと命じてその場を離れた。矢張り、基本のマニュアルから外れた行動をするものじゃないと警護対象は悔しがった……が、警護対象は速やかにその場を離れた。
自分が遂行できなかった今回のケースは、遅かれ早かれ情報屋経由で情報をばら撒かれ自分の信用にも障害が発生する。
もう死んでしまったクライアント……警護対象に執着する必要は無い。死体を回収しても何も得は無い。
後金を貰い損ねた上に、手配した逃がし屋や運び屋や隣街へエスコートする組織の先導に違約金や『オトシマエ』を払うのにこれから忙しくなる。
「……」
辺りが静まり返り、自分の呼吸しか聞こえなくなった。
のそのそと立ち上がる。倦怠感。地面に体温を奪われすぎたか。モッズコートの右腰ポケットから剥き出しになったまま押し込んだアジオ・ハーフコロナを抜き出して銜える。
派手に地面を這いずり回ったので、半分ほどの長さで折れてしまっている。短い安葉巻にブラス仕上げのジッポーで炙る。
言子の幽鬼のような姿を太陽が明るく照らす。
味のしない葉巻。味がしない葉巻。
達成感よりも疲労感が大きい。
踵を返し、ライトの点滅が終了していた自分のスマートフォンを回収して然るべきダイヤルを押す。
「?」
会話の最中に眩暈。急激な偏頭痛。自分の会話に覇気が無い。軽い吐き気。それらを堪えて通話を終了。
いつも通りにGPSで情報を送る。
死体と化した負債者を回収する為の要員が直ぐに来る。予想通りに負債者を殺害してしまった事を詫びても血の気の通わない声でそれを赦す返答が有った。矢張り、何かしらが原因で逃亡するに到った組織者だった。
口から葉巻が落ちる。
何が起きたのか解らなかった。眩暈と耳鳴りが一段と酷くなったと感じた瞬間。彼女の世界はぐるりと一回転した。そして彼女はその場で仰向けに大の字になって倒れていた。
※ ※ ※
ただの疲労。
闇医者はそう診断して、栄養剤をたっぷりと注入した点滴の輸液に油性マジックで患者の名前と開始時刻を書いた。
負債者という名の逃走者を仕留めた。
そしてクライアントに連絡した。そこまでは覚えている。我慢のしようが無い不快感を覚えたと思ったら意識が無かった。
目が覚めたら清潔でない小汚い部屋の硬いベッドで寝かされて薄っぺらい毛布を掛けて寝かされていた。
ゴキブリが這っていそうな天井と壁。床板は軋んで耳に不快。先ほど、酒臭い老年の小男の闇医者が「ただの疲労だ。寝てろ」と言って部屋を出て行った。
部屋には片腕を無くし、両目を失ったミイラみたいな男がベッド寝そべっていた。頚部を負傷し、呼吸が浅く短い男が応急手当だけを受けて毛布も掛けられずにベッドの上で死線を彷徨っていた。
闇医者の診療所。一目で理解できた。
自分はあの現場で倒れたらしい。クライアントの寄越した回収の命を負った人間に自分が仕留めた負債者と供に回収されてここに放り込まれたらしい。
クライアントとしても自分達の策謀が外部に漏れるのを避けるために生き残っていた言子を回収した……と肯定的好意的に解釈した。実際は今回の仕事の後金を払うのを渋る口実を作るためにまだ息が有った言子を回収したのが本当だろう。
何はともあれ命が有ったことに感謝だ。
そして心配すべき事項がどれもこれも最優先で冷や汗が流れ出る。体を起こそうにもベッドに縫い付けられたように体が重い。
「…………」
――――葉巻吸いたい……。
兎に角、自分を宥めたいが為に葉巻を求める。
ベッド脇の小さな折り畳みテーブルにコルトM1908とスマートフォンが置いてあった。
目を廻らせると、壁に自分が着ていたモッズコートとスーツが乱雑にハンガーで引っ掛けられている。自分が寝ている間に懐の物が全て窃盗の目に遭っていないか心配だった。
スマートフォンなど、見た目は無事でも電気屋街で売られている非合法な機器を用いればデータだけを全て抜き取ったりパスコードを解除するのは実に簡単だった。
「…………悠」
思わず口を衝いて彼の名前が出る。
悠は何をしているだろうか? 悠が心配になった。悠を心配させている自分を殺してやりたいくらいに後悔した。そして悠の手料理が恋しくなって空腹を覚える。
この部屋に壁時計は無かった。左腕を僅かに動かすと腕時計が巻かれたままの感触を感じる。
スマートフォンの番号は悠には教えていない。そして彼には毎回、仕事がいつ終わるかも報せていない。
落ち着いて心配事を整理する。
点滴が終了するまで2時間。
心配事を脳内で整理しているうちにいつの間にか睡魔に襲われ意識を無くすように眠っていた。腕から針を抜かれる痛みで目が覚めたのだ。
それからは重い体を引き摺って、空腹を耐えて闇医者の夕食である出前と同じく、近所に有るらしい中華料理屋でラーメンを注文させてもらい、掻っ食らってタクシーで帰宅した。
幸いにも懐から何も抜き出されては居なかったが、情報を吸い出された可能性は否定できなかった。
勿論、帰宅するなり、悠は顔色を青く変えて『言子を抱きかかえて寝室に運び込み、上着やスーツを乱暴に脱がせると有無をも言わせずベッドに押し込んだ』。
疲労極まれり。
自己責任と自己管理が甘すぎたのではない。
完全にオーバーワークだった。
依頼を『心身の不調を招かない程度に奮起していれば』こんな事にはならなかった。甘かったのは自分の体のスペックを過大評価していたことだ。
壁時計とカレンダーを見る。
午前11時を少し経過。
あの山間部で逃走者を仕留めてから3日も経過している。3日もあんな不衛生な診療所で寝ていたらしい。
その日の晩は胃に優しいからと鮭フレークと卵を溶いた少し固めの粥を土鍋で作ってくれてありがたく食べた。
胃のむかつきは、どうやら空腹で縮まった胃袋に大して美味くないラーメンを飲み込むように食べたからだ。不思議と悠の作る粥は幾らでも食べられた。悠は言子の顔色を見ただけでどんなコンディションで、どんな食事が必要なのか理解したらしい。
※ ※ ※
死活問題。精神的に。
疲労が回復するのに1週間も休業した。
1週間くらいの休業では言子の商業成績は下がらない。寧ろ、この時の為に普段からの蓄えが有る。平和を望むのなら戦いに備えよの精神で、不測の事態で休業に陥った場合の考えは用意して有る。問題はそこではない。
混浴だった。
いつか行きたいと思っていた近場の温泉。
行ってみると改装中で休業していた。仕方なくその近くに有る、ライバルが減って儲かっているはずの温泉宿に飛び込んで、一も二も無く2泊3日を偽名で記帳して部屋の鍵を貰った。
雪が絶景の名所。山々の寒空も露天ならではの愉しみ。だが、大浴場は混浴だ。
「……」
「……」
言子も悠も何故自分達が思春期の少年少女のように恥じらいを感じているのか解らなかった。
