凍てつきが這い寄る!

 距離を詰める。モッズコートの裾が寒風に大きくはためく。先ほどまで風は静かで冷たい空気だけが辺りを席巻していたのに急激に体感気温が下がるのを実感する。
 距離を詰める。銃弾が飛来する。
 至近の土塊にめり込んで土が跳ね上がる。
 蛇行移動を繰り返す。目標は13m先の水門管理の事務所。小さな建物。電話ボックス6個分ほどの床面積しかない。
 ただの掘っ立て小屋。
 防弾の効果は薄いが遮蔽としては充分に役に立つ。
 牽制の発砲。20m右前方の枯れた溝に潜んで、拳銃を乱射している男の付近に着弾させて怯んだ隙に掘っ立て小屋同然の水門管理事務所の陰に飛び込む。
 中には入らない。直ぐ様匍匐全身。今のように暗ければ連中もまともにこちらを狙うことは出来ないだろう。牽制を繰り出すだけの、意味の無い攻防が続く。
 言子はスマートフォンを取り出して幾つかの操作をして、スマートフォンを土塊に突き刺す。その場所から匍匐全身で姿や格好など構わず、衣服が土だらけで汚れるのも構わず前進する。心の中で30秒数える。
 数えながら移動。出来るだけ早く移動。
 連中の銃火は2つ。1人が負債者を連れて逃亡に移ったかもしれない。どのみち、目前25m先に居る2人を黙らさなければこれ以上は前方に進めない。左右に1人ずつ。距離はそれぞれ違う。
 弾倉1本使って無為な発砲を行った。仰向けになり左手で右脇から予備弾倉を抜いて弾倉交換をする。空弾倉はモッズコートのポケットに押し込む。
「!」
 視界の端でフラッシュが瞬く。
 弾かれたように再びうつ伏せの体勢を取り、両手を伸ばして両足を肩より少し広く開いて体を地面に固定する。
 発砲。言子ではない。連中の銃火が一斉に閃く。
 着弾。フラッシュが瞬く位置に集中する。
 スマートフォンのカメラに具えられたライトをタイマー式で作動するようにセットしたのだ。連中は脊髄反射のようにスマートフォンのライトに反応して乱射を繰り返す。『充分に狙えるだけの時間』が確保できた。
 血の気が引いている人差し指で引き金を引き絞る。9mmの軽い反動と発砲音。
 その銃声だけが山間部に木霊したように聞こえる。コルトM1908の銃声がいつもよりシャープに聞こえた時は決まって誰かが死ぬときだ。
 右手側前方であれほど乱射していた1人が突如沈黙した。その姿をはっきり見ていたわけではない。
 薄っすらと浮かび上がったシルエットを捕捉して狙いを定めて『可及的速やかにおとなしくしてくれ』と願いながら引き金を引いただけだ。 左手側の銃声はまだ続く。右手側の仲間が脱落した事に気がついていないのか、点滅を続けるスマートフォンのライト目掛けて銃撃を浴びせている。
 銃声や再装填の機会の少なさから9mmパラベラムを用いる多弾数オートだと判明する。呼吸を吸い込み、体の前面から染み込む地面の冷たさを刹那の間忘れる。
 呼吸を吸い、息を止めて苦しくなる手前で引き金を引く。『殺すつもりは無い。静かにしてくれ』と願いながら引き金を引く。
 被弾。
 左手側の銃撃が沈黙する。
 肉袋を金槌で軽く引っ叩いたような鈍い音が聞こえた。肩か胸部上方の筋肉か骨に命中したのだろう。死にはしないがバイタルゾーンかそれに近い部位に命中したと感じた。「お大事に」と呟きながら言子は立ち上がる。
 土の汚れを払いながら点滅する自分のスマートフォンを無視して前進。頭を低くする。警護要員の1人がエスコートしていると見せかけてどこかの遮蔽で息を潜めて反撃の機会を窺っているかもしれない。
「……?」
 足が縺れる。軽い眩暈。僅かな違和感。口を小さく開いた。自分でも土塊に足を取られた程度の認識だった。
 なのに、その場で躓いて膝から前のめりに倒れてしまった。
 その時だ。銃声が耳に届く。
「!」
 ひざまついた拍子に手放して目の前に放り出してしまったコルトM1908を這って拾い、再び伏せたまま銃声の位置を探る。今度の銃撃はスマートフォンのライトを狙ったものではない。明らかに言子を狙ったものだった。
 言子が足元を土塊に取られなかったら確実に仕留められていた。直ぐに場所を移動。匍匐前進。
 ランダムに移動と停止を繰り返す。
 この位置から言子を狙える遮蔽を検索する。そろそろ空が白く翳る。日が昇ると負債者という名の逃走者は一人でも案内無しに逃げ果せられるだろう。
 姿が見えない警護要員はそれだけで脅威だ。警護要員が言子を仕留めなくとも、どこに潜んでいるのか解らないというプレッシャーを与えて釘付けにするだけで目的は達成している。
 相手から見えているかもしれない。こちらは既に視界に捕らえているかもしれない。相手は虎視眈々と狙っているかも? 自分は既に視界に捕らえているのに判別できないだけなのかも?
 様々な疑問が頭を過ぎる。空は白く変貌する。山々の向こうから白く侵蝕する風景はほんの僅かに幻想的な光景を見せてくれる。
 銃声。着弾。目前1m。銃声が尾を引く。軽い木魂。息を呑む。心臓が確実に脈拍を打つ。
 乾いた空気が喉から容赦なく湿度を奪い、冷たすぎる空気ゆえに気管支が逆Y字をしている事が身に染みて解る。肺が凍てつく。急激な冷え込み。冷え込みのピーク。後数分でこの辺り一体は朝日の下に晒される。
 そんな中での銃声だった。
 視界の端で……僅かに右手側、前方20m以上。脳内で生体微電流の速さで戦闘区域の広さに修正を加える。30平米。
「…………」
 言子はコルトM1908の銃口を『左手側』に大きく振った。
 この銃口の数百m先には農道が有る。その農道は充分に『大型ミニバン』が往来できる。銃声はブラフだ。自分を狙った銃弾は……『お前を狙える距離に居る』事をアピールするための囮。
 本物は……警護要員や護り屋が『マニュアルに従わないのなら』、警護対象を単独で別方向に逃がしているはずだ。警護要員が最後の1人になっても対象をエスコートすると云うのはボディガードとしては基本中の基本。……あの警護要員がその基本のマニュアルを捨てて自分の体を囮にするに違いないと信じた。
 それしか、この場から警護対象を静かに離脱させる方法は無い。
「……居た……」
 言子は乾いた唇をペロリと舐めた。獲物を前に舌なめずりというわけではない。本当に唇が乾いてヒリヒリと痛んでいるのだ。
 銃口の前。遥か前。9mmショートの弾頭では射程外にも甚だしい前方。白い靴裏が見える。白い運動靴の底がチラリチラリと見える。こちらに背中を向けて一目散で走る人影が居る。
 そして、引き金を引く指が重い。重く感じる。重い違和感。自分の目前1mに着弾した銃弾。それ以外に銃声が聞こえない。直ぐに言子は銃口を『右手側20m先』に合わせる。
 白い空の下、その容貌は確かに見えた。
 あらかじめ、画像で見た顔。それが枯れた溝から上半身を出してこちらに向かって拳銃を構えている。
 最後の警護要員は、自分を囮にして……『逃げる警護対象』を演じて背中から撃たれる覚悟を見せたのだ。だが、それを看破された。警護要員と言子の数瞬の知恵比べは言子の勝利に終わった。
 引き金を引く。
 今度の引き金は恐ろしく軽い。
 発砲。9mmショートの空薬莢が威勢良く弾き出されて地面に落ちる。
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