凍てつきが這い寄る!

 4月が目前。
 金融関係としては一番忙しい時期。
 2月に入った今ではそれに加速。債権回収の依頼がどんどん舞い込む。この山を片付けたら1週間ほどの長期休暇を貰おうと決める。
 コーヒーメーカーで淹れたコーヒーの紙コップ。仄かに暖かい。断熱コーティングの特殊な紙が使われている。
 口に短くなったアジオ・ハーフコロナを銜えてジッポーで炙る。ニコチンが沈着して味が不味く変貌しているがタスクの割きすぎで鈍った頭に活を入れるには丁度いい苦さだった。
 首元の緩んでいるネクタイを更に緩める。
 室内でも黒尽くめのスーツ姿なのは言子にとっては制服を意味していた。それを一日中着ている理由は、緊急の案件が舞い込むと着替える時間も惜しいからだ。
 同じ黒いスーツを何着も持っている。それ以外の衣服となるとジャージやどてらという『間の無い』衣服しか箪笥に入っていない。
 寝るときでさえワイシャツを着ている。
 体も心も休まる暇が無い。
 休暇や休日は設定しているが頭の芯から解放された事が無い。本当に休暇が必要なら週休3日が理想だ。しかも完全3日で。
 片付ける休み、遊ぶ休み、休む休み。たった1日の休みでは何も回復しない。何も解決しない。
 そろそろオーバーワークを感じている。溜息混じりに悪臭を放つ紫煙を大きく吐く。部屋の片隅に置いた3台の空気清浄機が唸り声を挙げる。
  ※ ※ ※
「!」
 手強い。数が多い。
 クライアントが手駒として2人の三下を手配してくれたがあっと言う間に銃弾に倒れる。脚や腋に被弾し、痛みを堪えていれば問題ない負傷だった。
 無力化させるという目的が果たされたのだから負債者は精神的余裕を感じているだろう。
 午前5時の過疎地。山間部。殆ど廃村。休田が続く荒地。県境が目前。非常に分が悪い。
 負債者は1人。警護要員が3人。
 借金持ちを守るだけの価値が有るか否かは大した問題ではない。連中の背景やこうなった経緯はあまり意味は無い。借金を回収して来いと依頼が有ったから回収に来たまで。
 夜明け前に始まった銃撃戦はイニシアティブの奪い合いで膠着を見せていた。放置された玉葱小屋や農具倉庫を遮蔽に伝い移動する。その移動すら連中に時間稼ぎの為に弄ばれている感覚がする。
 実のところ、今回の依頼は不明瞭な点が多かった。
 依頼に不明瞭な点。不明瞭。疑うなという方が無理な話で、もう既に言子は気が付いている。
 負債者は負債者じゃない。
 ただの逃亡者だ。
 クライアントの組織から逃げようとする逃亡者だ。
 警護要員を雇えるほどの負債者がこんな寂れた場所で無意味に潜んでいるはずが無い。県境の向こうから『隣街のライバル組織が寄越す迎え』を待っているに違いない。
 1人の人間に3人の警護。逃走するのに都合がいいロケーション。県境の寂れた村。密かに逃亡しようと目論む姿が想像できる。
 警護要員はボディガードとして雇った護り屋の可能性も有ったし、自分の側近の中でも腕が立つ拳銃遣いとも予想できる。
 負債者というレッテルを貼っておけば、債権回収業者の言子を動員させ易い。
 言子は債権回収と同じく負債者の確保についてもプロだ。逃亡者を追い詰めてひっ捕らえるのに適した職業だ。それに負債者を追えと命令されて断る債権回収業者も居ないし、債権回収業者が負債者を追い掛け回す理由は負債者が負債を抱えているからでそれ以上の理由は詮索しない。
 だから手軽に言子を猟犬代わりに放ったのだ。
 言子が追い詰めても負債者は負債を抱えていないのだから、借金の事など知らぬ存ぜぬを当然、喚く。そこでいつものようにクライアントの傘下の『金融業者』に連絡して身柄を引き取りに行く。
 ここまでいつもの仕事の流れ。
 それを逆手に取ったから契約に違反していると言子がクライアントに強く言える立場に無いのもクライアントは知り尽くしている。……常日頃より、どんな依頼も迅速に引き受けて的確にこなし、丁寧に商談の縁を結ぶお世辞やビジネスマナーや社交辞令や『一般常識』が仇となった。 とは言え、まさか債権回収業者が看板の但し書きに「殺人と連れ戻しは行いません」と書けば何も知らない顧客や顧客になるかもしれない他の『金融業者』は眉を顰めて訝しげに伺うだろう。
 ここまで来て泣き言は許されないし、職務放棄はもっと許されない。プロとしての矜持が有る。
 あくまで、目の前の1人と3人を負債者だと扱って、『いつもの様に無力化させてからクライアントの手配する回収要員に電話をかける』。何も変わらない……と、自分に言い聞かせて、アジオ・ハーフコロナを銜える。
 左手が思わずモッズコートの左胸ポケットに伸びるがはっと気がつき、止める。
 夜明け間の一番暗い時間帯。仄かな灯りで命を落としかねない。安葉巻を手持ち無沙汰に銜えっぱなしにする。
 どうも最近、頭がしっかりと回転している気がしない。
 小さな平凡なミスを繰り返しているような気がする。頭が呆ける時間が少し長くなった気もする。
 スケジュールの睨み過ぎで疲労が溜まってきただけだと自分を納得させる。足取りが重いのは足元が荒れた土塊がシューズを踏み砕いているだけだろう。
 多少のコンディション悪化やロケーションが悪いくらいで早退は出来ない。早退という概念は無い。組合の保険が存在しない世界だ。自己管理は自己責任。無理が祟るからと断っていたのでは次の依頼に影響する。一般企業で言えば評価が下がる。
 だから、無理を承知でこの場に臨む。
「…………」
――――3人。1人……。
――――30……いや、35m四方か?
 展開する図案を練る。自分が遮蔽にしている4畳半程度の農具小屋を中心……ではなく、四角形の1点として残りの3点を引き伸ばして、標的たる負債者が収まる地点を覆う。そしてピンを止めて頭の中で歪な四角形を思い描く。
 その目算の面積が35m四方の広さだと言子は踏んだ。
 銃火が瞬く。
 その位置から警護要員の数と位置と距離を算出。冷たい空気を大きく鼻から吸い込んで頭も胸の中も急激に冷やして計算をさらに深める。
 ブリキとベニヤ板で作った農具倉庫は遮蔽になるが、拳銃の弾で簡単に貫通する。長居は出来ない。
 火の点いていないアジオ・ハーフコロナを口から離してモッズコートの右腰ポケットに押し込む。その右手でコルトM1908をスーツの右脇から抜き放ち、スライドを引く。コンチネンタル型マガジンキャッチを操作して弾倉を引き抜き、今し方減った1発を補弾して再び差し込む。これで薬室に1発、弾倉に7発。たった1発増えただけでも精神的な余裕は違ってくる。
 頭を低くして走る。光源の確認。星と月は無い。忘れられた街灯が寂しく数本立っている。
 街灯が有る場所は水門や水路の二股に限られていた。それ以外に照明を提供してくれる有り難い存在は無い。自分からタクティカルライトを照らす手段は最後に取っておきたい。
 今は連中が街灯の下を横切りや牽制の発砲から位置を割り出す。銃火は4つに増える。これで益々面倒臭くなった。各自がランダムに移動されると、この暗がりでは誰が負債者か解らなくなる。
 正直なところ、警護要員は殺害しても問題は無い。間違えて負債者という逃亡者らしき人物を射殺しては拙い。
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