凍てつきが這い寄る!

 確かに2人。
 顔は薄暗いとは言え辛うじて確認できる。
 コンパクトのハレーションに照らされて眩しそうに掌で顔を隠しながら遮蔽に潜む。その隙を見逃さない言子ではない。直ぐに距離を詰める。
 4m前方に有る右手側のコーンの山に飛び込む。コーンに次々と弾頭が命中し、軽く跳ねる。38口径や32口径では樹脂製のコーンを貫通するに到らない。
 連中は謂わば袋の鼠だ。
 問題は袋の口から侵入しようとするのが言子、独りということだ。
 2人の内1人は確実に仕留められる。その隙にもう1人が反対方向から逃走する可能性が非常に高い。この行き詰った、遮蔽がプレハブしか無い場所でカタをつけるのは実際にはパズルのように難解だった。
 コルトM1908は護身用を主眼として開発されたハンマーレスだ。狙撃は度外視される。使用する実包も9mmショート。連中の使う38splと同程度の威力。弾頭や炸薬の分量に違いは有っても9mmパラベラムのようなパワフルな対人停止力は望めない。尤も、人を殺さない程度の威力だから惚れ込んだのだが。
 しかし、それは同時に拳銃として長距離まで弾頭が届かない事を意味していた。
 予備弾倉を左手で右脇から1本抜き出す。
 左手の小指と薬指で巻き込むように保持して左手の残りの3本指を右手のコルトM1908を保持し助ける。
 発砲。弾き出された9mmショートの空薬莢が無秩序にアスファルトを跳ねる。
 狙いはプレハブ小屋の真正面の窓ガラス。
 ガラスが痛々しい悲鳴を挙げて叩き割られる。プレハブの左右の遮蔽に見えていた爪先の影が更に引っ込む。いつまでも篭城が続けられる訳が無い。いつまでも篭城に付き合ってやる暇は無い。
 寒い。使い捨てカイロが仄かな暖かさを供給してくれなければ風邪を引きそうだ。
 口元を隠していた使い捨てマスクを剥ぎ取って捨てる。荒くなり始めた呼気で眼鏡の曇りの範囲が広くなってきたのだ。それに……アジオ・ハーフコロナを横銜えにするのに不便だ。仕事の最中でも口が寂しく、安葉巻を銜えたまま火を点けずに弄ぶのは彼女の癖だ。
 思い切って大きく息を吸う。
 着火前の安葉巻の、ジャワ葉の香りが肺に入る。
 アジオ・ハーフコロナを唇の端で噛み縛って覚悟を1秒で完了させて遮蔽から飛び出る。
 直線移動と蛇行移動を織り交ぜたランダムなリズムでプレハブの真正面側に有るドアに向かう。
「……」
――――『やっぱりそう来るよね!』
 背中をプレハブの壁に押し付けた途端、左右から黒い影が走り出る。2人が一斉に走り出した。
 5m。右手。男。身長175cm。大きな体躯。左手に中型自動拳銃のシルエット。翻るジャンパー。風向き。光源。銃口の向こう。照門から見た照星の向こう。大きな歩幅。背中をプレハブに任せる。固定。脚を地面に埋めるイメージ。呼吸を一瞬だけ鎮める。息を止める。
 頭の中から雑念を刹那の時間だけ消し去る。体の温度が低くなる感触。コルトM1908の引き金を引き絞る。遅れて聞こえる銃声。遅れて聞こえる金属音。遅れて聞こえる悲鳴。タキサイキア現象に似る浮遊感。……その男は前のめりにつんのめって転ぶ。
「!」
 軽いトランス状態に陥っていた言子。
 精密に狙おうとすればいつもこうだ。
 『狙って撃てるのに、狙って撃った、その後の反応が鈍くなる』。
 だから狙撃は嫌いだ。
 直ぐに駆ける。今度は左手側から飛び出した人影を追いながら足止めを意図した牽制を放つ。弾倉が空になる。空引きする前に空弾倉を引き抜き、新しい弾倉を叩き込む。
 走りながらの挙動。手元を見ない感覚だけで行う。拳銃での牽制に精密な動作は必要ない。
 右手側のシルエットは女だ。最初は女のように髪を長く伸ばした男かと思ったが、ハーフコートのサイズや歩幅から女だと割り出す。距離は付かず離れず。発砲すれば無駄に終わる。まともな照準は期待できない。
 先ほどの牽制で多少は歩幅に乱れは見えたが、振り向いて右手にしたスナブノーズを発砲して更に大きな距離を保とうとする真似はしなかった。直ぐに倒れている男の脇を通過する。
 その際に男の左手側に転がるベルサ中型自動拳銃を蹴り飛ばす。男は腰の辺り、脊髄から離れた位置に被弾して走れないで居た。腰に被弾しても死にはしない。脊髄に被害が及べば直ぐに救急車を呼ばなければ命に関わるのでその部位だけは外した。
 男は苦痛を顔で表しながらも動くと、激痛のあまり脂汗が出る。動かない方が楽な負傷だ。この男は後で『回収』できる。
 先を行く女を足止めせねば。この先は直線で走ればフェンスで区切られている為に行き止まりだが、攀じ登って超えたり言子が侵入してきた出入り口から外部へ逃走されると面倒なので、それまでに動けない程度の負傷を負わせる必要が有る。
 この期に及んで無傷のまま捕らえられるとは思っていない。
 何事も体が資本だ。
 体が資本で無い状況などこの世には存在しない。
 衣食住は体が資本たる由縁で由縁たる資本だ。
 先を走る女は明らかにその資本を欠いていた。疲労だろう。寒さが原因の血行不良かもしれない。空腹が原因の気力低下とカロリー不足かもしれない。
 それを緊張の糸でカバーする精神論は時として無情だ。非情だ。体は正直だ。足が縺れて何も無い地面に躓いてその場で倒れる。倒れても立ち上がり、こちらを振り向く事無く、這いずりながら地面に爪を食い込ませる。
 気力。精神力が駄目なら、気力が有ると言わんばかりの頑強。
 若しも彼女が今夜、少しでも何か食べて短時間でも睡眠を取り、僅かでも連続して温暖を供給してもらっていればこんな事にはならなかっただろう。
 その差は大きいようで小さい。
 言子も彼女と紙一重なのだ。
 言子は悠と出会っていなかったらこの様に無様な姿を晒して地面で冷たくなっていたかもしれない。
 帰宅したら真っ先に悠を熱烈に抱擁してやろうと真剣に考える。
 言子は負債者の女を哀れむ目で決して見なかった。明日の自分かもしれない。昔の自分だったかもしれない。状況や環境が違えばここに無様に転がって、弾の切れたスナブノーズの引き金を言子に向けて引いている女と同列の存在だった。
 悠と云う少年を気紛れで雇わなければ……今夜、サンドウィッチを作ってくれなかったら、腰や背中にカイロを貼ってくれなかったら、そんな存在と出会うことが無かったら、言子はとっくの昔に絶命していた。
「チェックメイト。今晩は。債権回収に参りました」
 女に歩み寄って右手を蹴り飛ばしてロシーのスナブノーズを弾く。
 女の顔から表情が消え、絶望の色が浮かび上がる。勝者の気分を味わう為に今、安葉巻にジッポーで火を点けたのではない。その顔に思わず自分を重ねてしまったのだ。
 自分より少しばかり年上だろう。セミロングの整った顔をした女だった。彼女や被弾した男が幾らの負債を抱えているのか解っている。どこの何者で何を生業にしているのかも知っている。
 彼、彼女は言子のプロフィールを知らない。どこの誰とも解らない人間に屈辱を与えられるのは『最高の屈辱』に違いない。
「聞かせて? お金、当ては?」
「…………」
 女の精気の薄い目が「そんな物は無い」と語っていた。
 言子は安葉巻の紫煙を薄く吐く。
 おもむろにスーツの懐から左手でスマートフォンを取り出して無言でダイヤルする。
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