凍てつきが這い寄る!
彼女は只管走っていた。
狭く暗く寒い、暗渠が這う隘路を、只管に走っていた。
自慢の黒髪が乱れるのも気にせずに、お気に入りのトレンチコートが泥や雨で容赦なく汚れても構わずに走る。
暗い。光源が頼りない。今此処でポケットに入っているタクティカルライトで足元を照らすわけにはいかない。自分から居場所を照らして相手に知らせる必要は無い。この暗さを利用して何としても遁走を成功させるのだ。
今はそれしか考えていない。
寒い。暗い。そして路は狭い。
路地裏。建設中のビルの裏手に入ってから林立するビル群の裏側に入り込んだのだ。
室外機に何度も足元を取られながら、躓きながら、転びながら、走る。どんなに地面と顔面が衝突しそうになっても右手にしっかりと握ったブローニングハイパワーだけは手放さなかった。
タンジェントサイトを備えたミリタリーモデル。現代ではモダンオートに対抗するには力が及ばない感が有るが、それでも装填された9mmmmパラベラムの威力は変わらない。今も昔も9mmパラベラムをバイタルゾーンに叩き込まれて無事で居られる人間など存在しない。
相棒のブローニングハイパワーが皮肉にも体の幹を狂わせる錘となって全力で走る彼女の疲労を増幅させる。
精悍に整っているであろう眉目が、今は疲労と汗に彩られて顎を突き出している。口から白い息が激しく撒き散らされる。喉が渇く。自動販売機の煌々とした電飾が恨めしい。
懐には1本のペットボトルの水を買うだけの小銭が幾らでも入っているのにそれを行使して喉を潤す事を許してくれない状況なのだ。
空は黒い。
夜。雲が完全に月を覆い隠している。
その分厚い雲が冷たい雨を降らせる。しとしととした冷たい雨。更に体の温度を奪う微風。
スラックスの足首から凍えそうな空気が這い上がる。死人に掴まれたように冷たい。
右手のブローニングハイパワーに残弾は確か5発入っている。薬室に1発。全力で走ると決めてからコック&ロックで待機させている。
何度、角を曲がっただろうか。何度、路地の出口を見過ごしただろうか。人気のある場所に出て雑踏に紛れれば、遁走の確率が上がると踏んでいたのに、気が付けばこの辺りは繁華街から離れたビル群の路地で表通りに出ても活気が皆無だった。
その度に路地に再び潜り込んで逃げる。
人が歩いていない大きな通り。
そんな場所を走っていれば都合のいい標的だ。
加納孝枝(かのう たかえ)は懐からリップミラーを取り出して角を遮蔽に背後を確認する。
「…………」
リップミラーの世界には誰も映っていない。
然し、どこかに潜んでいる。確実に潜んでいる。
大粒の汗が額を伝う。
乏しい光源。掴み難い距離。リップミラーに映る10m先の世界は暗い世界。光源が及んでいないのだ。
覚悟を決める。追跡者は私を殺すつもりだ。殺すつもりでなくとも殺すのと同義語の扱いを下すだろう。
ブローニングハイパワーのセフティを静かに解除する。
自分の呼吸と心拍が五月蝿い。この状況ではまともにサイティングできない。
懐には予備弾倉が1本。
牽制を放つにも、頭を使わなければ無為な発砲に終わる。
追跡者の腕前は確かだ。射撃という意味での腕前よりも、この地域の事情に詳しい。下手に逃走しても直ぐに追いつかれる。
ここで応戦して足止め……願わくば手傷を負わせて追跡を不可能にさせる。殺す必要は無い。負傷させれば勝利だ。
気配からして一人。足音が増えることは今までになかった。気が付けばお気に入りのトレンチコートに風穴が開いていた。
路地に追いやられた理由を思い出した。銃撃されたので身を捻って咄嗟に路地に飛び込んだ。最初は牽制を放ちながら遮蔽を利用して距離を稼ぎながら逃走に移行した。
手勢と思われる3人の人影を何とか脱落させた。負傷させた。生きているか死んでいるかは知らない。
蛇のように執念深い1人が執拗に追跡してくる。その1人が発砲する回数は少なかったが、発砲するたびにトレンチコートに鋭い衝撃が伝った。……その際に風穴ができてしまったのだろう。
脚の歩幅に違和感を覚えている。
追跡者の歩幅だ。
自分の歩幅と似ていると思うと男の歩幅と同じになったり……。
複数の人間に追いかけられている感覚。孝枝が32年に及ぶ人生経験とこの業界……闇社会の『危険物』専門の運び屋を始めてからの経験を加味して敵の戦力を冷静に分析しようと頭を捻る。……考えたいのに、激しい吐息も心拍も簡単に収まってくれない。
早く自宅に帰って熱い湯船に体を沈めたい。頭から浴びるように冷蔵庫で冷やしているギネスのスタウトを飲み干したい。
リップミラーを内ポケットに仕舞い、左手に予備弾倉を握る。
呼吸を鎮める為に首筋から肩までの力を抜いて大きく腹式呼吸を繰り返す。
敵は1人。焦る事は無い。必ず足止めできる。
今は自宅が押さえられている可能性は頭から消す。
帰る場所が有るという安心感は大きなモチベーションだ。今はそのモチベーションに縋って生き残ることを誓う。
右の掌にチェッカリング痕が刻まれるくらいに強く握る。相棒のブローニングハイパワーが冷たい雨に濡れる。この件が片付いたら念入りにクリーニングしなければ。
「……!」
足音。確かに空き缶を蹴り飛ばした。
わざと蹴り飛ばしたのではない。確かに、思わず蹴ってしまったという単純なミスを感じた。
追跡者が空き缶を蹴り飛ばしてくれたお陰で暗闇の中に潜む敵の大まかな位置が判明する。
この期に及んで増援を要請している手間を惜しんでいるのか、それとも外注で雇われた追跡者なのか気配は1人きりだ。1対1でこの場所で勝負を決める。悪くは無い。今までに同じ状況は幾らでも有った。
運び屋の窓口として自分から危険な場所に飛び込んで、ブツを回収する仕事も普通に有る。追跡者に心当たりは有る。有りすぎて特定するのが難しい。
少し雨が弱くなる。今度は風が強くなる。
路地を走り回ってどれくらいの時間が経過しただろうか。
体内の時計では30分は過ぎている。突然の鉄火場を形成した時に視界の端に入ったアナログ腕時計の時間が正しいとすれば午前1時20分辺りから走り回っている計算になる。
疲労が重量感を伴って肩や腰を襲う。無理も効かない体になったのか、体の芯が冷たい雨と風で冷えたのか。
衣服が風で翻る音が暗い路地の向こうで聞こえる。追跡者はしゃがんだか伏せたか、その場で待機しだしたらしい。孝枝が決戦に持ち込む意思が伝わったのか。追跡者も律儀に付き合う気らしい。
口の中で前歯を舐めて唾液の分泌を促す。
少しでも喉を潤してコンディションを正常に戻そうとする。
「…………」
背中が焼けそうだ。緊張感が焼け火箸のように体に突き刺さる。殺意は感じないが敵意は感じる。憎念は感じないがプロ意識は感じる。そこまで迫っているのは男なのか女なのか判然としないほどに意識が遠のく。
現在では飾りだけのタンジェントサイト。
タンジェントサイトを操作して遠距離を狙ったことなど今までに一度も無い。その特徴的なタンジェントサイトを雨粒が静かに流れてきらりと光る。
孝枝は静かに口を開く。
「……チェックメイトよ」
勝利宣言。
然し、その台詞は孝枝が放った台詞ではない。
孝枝は大きく息を吸おうと口を開いただけだ。その隙に『背後で誰かがそのように勝利宣言を謳った』のだ。
狭く暗く寒い、暗渠が這う隘路を、只管に走っていた。
自慢の黒髪が乱れるのも気にせずに、お気に入りのトレンチコートが泥や雨で容赦なく汚れても構わずに走る。
暗い。光源が頼りない。今此処でポケットに入っているタクティカルライトで足元を照らすわけにはいかない。自分から居場所を照らして相手に知らせる必要は無い。この暗さを利用して何としても遁走を成功させるのだ。
今はそれしか考えていない。
寒い。暗い。そして路は狭い。
路地裏。建設中のビルの裏手に入ってから林立するビル群の裏側に入り込んだのだ。
室外機に何度も足元を取られながら、躓きながら、転びながら、走る。どんなに地面と顔面が衝突しそうになっても右手にしっかりと握ったブローニングハイパワーだけは手放さなかった。
タンジェントサイトを備えたミリタリーモデル。現代ではモダンオートに対抗するには力が及ばない感が有るが、それでも装填された9mmmmパラベラムの威力は変わらない。今も昔も9mmパラベラムをバイタルゾーンに叩き込まれて無事で居られる人間など存在しない。
相棒のブローニングハイパワーが皮肉にも体の幹を狂わせる錘となって全力で走る彼女の疲労を増幅させる。
精悍に整っているであろう眉目が、今は疲労と汗に彩られて顎を突き出している。口から白い息が激しく撒き散らされる。喉が渇く。自動販売機の煌々とした電飾が恨めしい。
懐には1本のペットボトルの水を買うだけの小銭が幾らでも入っているのにそれを行使して喉を潤す事を許してくれない状況なのだ。
空は黒い。
夜。雲が完全に月を覆い隠している。
その分厚い雲が冷たい雨を降らせる。しとしととした冷たい雨。更に体の温度を奪う微風。
スラックスの足首から凍えそうな空気が這い上がる。死人に掴まれたように冷たい。
右手のブローニングハイパワーに残弾は確か5発入っている。薬室に1発。全力で走ると決めてからコック&ロックで待機させている。
何度、角を曲がっただろうか。何度、路地の出口を見過ごしただろうか。人気のある場所に出て雑踏に紛れれば、遁走の確率が上がると踏んでいたのに、気が付けばこの辺りは繁華街から離れたビル群の路地で表通りに出ても活気が皆無だった。
その度に路地に再び潜り込んで逃げる。
人が歩いていない大きな通り。
そんな場所を走っていれば都合のいい標的だ。
加納孝枝(かのう たかえ)は懐からリップミラーを取り出して角を遮蔽に背後を確認する。
「…………」
リップミラーの世界には誰も映っていない。
然し、どこかに潜んでいる。確実に潜んでいる。
大粒の汗が額を伝う。
乏しい光源。掴み難い距離。リップミラーに映る10m先の世界は暗い世界。光源が及んでいないのだ。
覚悟を決める。追跡者は私を殺すつもりだ。殺すつもりでなくとも殺すのと同義語の扱いを下すだろう。
ブローニングハイパワーのセフティを静かに解除する。
自分の呼吸と心拍が五月蝿い。この状況ではまともにサイティングできない。
懐には予備弾倉が1本。
牽制を放つにも、頭を使わなければ無為な発砲に終わる。
追跡者の腕前は確かだ。射撃という意味での腕前よりも、この地域の事情に詳しい。下手に逃走しても直ぐに追いつかれる。
ここで応戦して足止め……願わくば手傷を負わせて追跡を不可能にさせる。殺す必要は無い。負傷させれば勝利だ。
気配からして一人。足音が増えることは今までになかった。気が付けばお気に入りのトレンチコートに風穴が開いていた。
路地に追いやられた理由を思い出した。銃撃されたので身を捻って咄嗟に路地に飛び込んだ。最初は牽制を放ちながら遮蔽を利用して距離を稼ぎながら逃走に移行した。
手勢と思われる3人の人影を何とか脱落させた。負傷させた。生きているか死んでいるかは知らない。
蛇のように執念深い1人が執拗に追跡してくる。その1人が発砲する回数は少なかったが、発砲するたびにトレンチコートに鋭い衝撃が伝った。……その際に風穴ができてしまったのだろう。
脚の歩幅に違和感を覚えている。
追跡者の歩幅だ。
自分の歩幅と似ていると思うと男の歩幅と同じになったり……。
複数の人間に追いかけられている感覚。孝枝が32年に及ぶ人生経験とこの業界……闇社会の『危険物』専門の運び屋を始めてからの経験を加味して敵の戦力を冷静に分析しようと頭を捻る。……考えたいのに、激しい吐息も心拍も簡単に収まってくれない。
早く自宅に帰って熱い湯船に体を沈めたい。頭から浴びるように冷蔵庫で冷やしているギネスのスタウトを飲み干したい。
リップミラーを内ポケットに仕舞い、左手に予備弾倉を握る。
呼吸を鎮める為に首筋から肩までの力を抜いて大きく腹式呼吸を繰り返す。
敵は1人。焦る事は無い。必ず足止めできる。
今は自宅が押さえられている可能性は頭から消す。
帰る場所が有るという安心感は大きなモチベーションだ。今はそのモチベーションに縋って生き残ることを誓う。
右の掌にチェッカリング痕が刻まれるくらいに強く握る。相棒のブローニングハイパワーが冷たい雨に濡れる。この件が片付いたら念入りにクリーニングしなければ。
「……!」
足音。確かに空き缶を蹴り飛ばした。
わざと蹴り飛ばしたのではない。確かに、思わず蹴ってしまったという単純なミスを感じた。
追跡者が空き缶を蹴り飛ばしてくれたお陰で暗闇の中に潜む敵の大まかな位置が判明する。
この期に及んで増援を要請している手間を惜しんでいるのか、それとも外注で雇われた追跡者なのか気配は1人きりだ。1対1でこの場所で勝負を決める。悪くは無い。今までに同じ状況は幾らでも有った。
運び屋の窓口として自分から危険な場所に飛び込んで、ブツを回収する仕事も普通に有る。追跡者に心当たりは有る。有りすぎて特定するのが難しい。
少し雨が弱くなる。今度は風が強くなる。
路地を走り回ってどれくらいの時間が経過しただろうか。
体内の時計では30分は過ぎている。突然の鉄火場を形成した時に視界の端に入ったアナログ腕時計の時間が正しいとすれば午前1時20分辺りから走り回っている計算になる。
疲労が重量感を伴って肩や腰を襲う。無理も効かない体になったのか、体の芯が冷たい雨と風で冷えたのか。
衣服が風で翻る音が暗い路地の向こうで聞こえる。追跡者はしゃがんだか伏せたか、その場で待機しだしたらしい。孝枝が決戦に持ち込む意思が伝わったのか。追跡者も律儀に付き合う気らしい。
口の中で前歯を舐めて唾液の分泌を促す。
少しでも喉を潤してコンディションを正常に戻そうとする。
「…………」
背中が焼けそうだ。緊張感が焼け火箸のように体に突き刺さる。殺意は感じないが敵意は感じる。憎念は感じないがプロ意識は感じる。そこまで迫っているのは男なのか女なのか判然としないほどに意識が遠のく。
現在では飾りだけのタンジェントサイト。
タンジェントサイトを操作して遠距離を狙ったことなど今までに一度も無い。その特徴的なタンジェントサイトを雨粒が静かに流れてきらりと光る。
孝枝は静かに口を開く。
「……チェックメイトよ」
勝利宣言。
然し、その台詞は孝枝が放った台詞ではない。
孝枝は大きく息を吸おうと口を開いただけだ。その隙に『背後で誰かがそのように勝利宣言を謳った』のだ。
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