そして紫煙は香る

 取引現場での情報収集。
 クライアントは数多居る。
 金の匂いがする、大変宜しい現場。
 複数の同業者が潜んでいるはずの廃棄区画。
 その辺りで寝転がっている浮浪者など、完全に情報屋の窓口だ。凡そ世捨て人しか寄り付かない場所で取引が有るので現場を押さえて『どの様な取引が行われたのかを確認』するのが仕事だった。
 同業者が多数潜んだ廃棄区画。
 元から縄張りにしている者、嗅ぎつけて外部からやって来た者、情報屋からの正式な依頼で踏み込んできた者……様々だ。そしてそれらの同業者はライバルではあるが全員が同じ標的……全員が同じ『どの様な取引が行われたのかを確認』する為にやってきたわけではない。
 取引の金額や物品。
 その場に出てきた幹部の氏名と肩書き。
 警護要員の中に潜むかもしれない内通者。
 取引現場自体の安全性の確認。
 それぞれのライバルは、それぞれの目標を達成すると次々と引き揚げて行く。
 今はそれが賢明だ。
 この場に居た二つの勢力は敵対する組織同士の内通者同士の会合でも会った。
 引き連れている警護要員もその事情を知っているであろう、それぞれの派閥だ。
 つまり、勢力の根幹を揺るがす大きな事件が始まろうとしていた現場に密着して撮影と盗聴を行っている。
 大きな現場。少し欲をかいた。
 何人かの人影を背中に感じながら取引現場に深く近付きすぎたのだ。 隠密行動を旨とする出歯亀行為。
 誰かが誰かを撃った。
 切っ掛けはそれだけだった。美殊が発端ではない。
 恐らく同業者と思われる人間が、周辺を警戒していた警護要員に見つかり背後から撃たれたのか、自衛のために撃ったのか。
 兎に角、たった1発の銃声で、この廃棄区画の中央部は途端に鉄火場と化す。
 逃げ惑うのは連中だけではない。
 自分を含めた同業者も右往左往。
 何人の同業者がこの鉄火場に残されたのかは知らない。
 自分が生き残るだけで精一杯だ。携帯電話の電波が通じない区画。頼みのポケットwi-fiも圏外を報せる。
 現場仕事用のスマートフォンのマイク機能を起動させたまま、それをフライトジャケットのポケットに突っ込んで、やけくそな舌打ちをしてモーゼル・パラベラムを乱暴に引き抜く。
 荒く尺取虫のコッキングピースを引く。
 矢鱈と軽快に作動するトグルアクション。滑らかに実包が薬室に送り込まれたのを手の感触が理解する。
 耳を聾する銃声が四方八方で展開される。
 人ではなく、『銃撃戦の鉄火場』に囲まれている。
 乱戦。
 辺りでは各所で銃撃戦が始まっている。
 誰が誰と銃撃を展開しているのは不明だ。
 薄暮の時間帯。午後5時。
 日が完全に暮れると逃走に有利になる。それまで潜んでいるのは果たして賢明か?
 銃撃を展開している場所も数も把握していない。激しい銃撃が、あたかも自分を取り囲むように行われている。
 美殊はドラム缶を背にして何とか遮蔽を得ている。
 この場には遮蔽だらけ。何処の角や陰に誰が潜んでいるか解らない。同業者だから味方とは限ら無い。どさくさ紛れに商売敵を殺そうとするライバルも居るかもしれない。
 本来の目的の二つの勢力もどうやら銃撃を始めているらしい。
 双方とも10人近い手勢を連れていた。合計20人以上。
 情報収集要員としてこの場に居ると思われる人間の数は少なくとも5人。……自分を含めて。
 たった1発の偶発的な銃声が撒いた油に火を点ける行為を齎した。
 視界が利かなくなりつつある状況。辺りはブリキや木製の小さな規模の廃工場が乱立している。
 錆びたまま放置された様々な商用車や作業車、資材が無造作に転がっている。その豊富な遮蔽こそが銃撃を行い易くしているといえた。
 自分が隠れられる場所。
 そこから狙い撃つ。
 撃てば他方向、多方向から銃弾が飛び込んでくる。
 そして応戦。排撃。
 遁走しようにも誰もが膠着している。
 自分が居る場所を捨てて飛び出したとしても別の銃撃戦のフィールドに不用意に飛び込んでしまう危険性。混乱を極める状況に際して誰も冷静になろうとしない。
 なれるわけが無い。
 完全に本来の目的は破綻した。
 今回の仕事は『負け』だ。危険に見合う収入が得られそうに無い。
 モーゼル・パラベラムを握る右手が小さく震える。
 日が暮れる時間帯。気温も下がり始める。
 左手に予備弾倉を抜いて持つ。
 モーゼル・パラベラムのマニュアルセフティをカットしてグリップを心持ち強く握る。
 誰からもノーマークのままで居る美殊。離脱するのなら今の内だが、その経路が見当たらない。
 逃げ易いと思われる場所では、間違いなく銃撃戦が行われている。
 拳銃ばかりの銃声。逃げ易い場所に誰もが殺到するのは当たり前だった。
 様々な口径の拳銃がBGMのように寂れた区画を騒がしくする。
 吹き付ける風が硝煙を一気に掻き消す。
 空薬莢が転がる軽い金属音が連なって聞こえる。
 どこかの銃撃戦のフィールドが美殊の居る場所に近付いているらしい。
 銃撃戦自体が生き物のように蠢いている。
 銃撃戦同士が合流して更に大きな更に混乱した銃撃戦を生み出す地獄。
 このまま耳を塞いで引き篭もっていたいという現実逃避に襲われる。
「!」
 目前に立てかけられた、朽ちかけの合板が派手な音を立てて跳ねる。 着弾の衝撃で撓んで派手に倒れたのだ。自分を狙う……否、自分の方向に銃撃の渦が近付いている! 急激に背中が冷える。
 隘路を縫いながら、おおよそ遁走には不向きな廃工場同士の僅かな隙間を走る。
 足元が暗い。何度か転びそうになる。
 ポケットにはタクティカルライトをいつも忍ばせているが、使うのは躊躇われる。
 自分から居場所を宣伝する必要は無い。
 銃声が美殊の背後を襲う。
 銃弾が右手側のひび割れた窓ガラスを叩き割る。
 美殊を敵だと認識した誰かが追撃を開始したらしい。振り向き様に引き金を2度引く。
 牽制。これで追い払えるとは思っていない。
 隙を作って頑丈な遮蔽に飛び込まねば。
 背後で派手に一斗缶を蹴って転ぶ音が聞こえる。
 耳障りな金属音と罵声。追跡する者……推察するに同業者では無いらしい。
 同業者なら逃走に全力を尽くす。
 取引現場に居た警護要員だろう。
 そこまで考えが及んで、振り向いて落ち着いて警護要員を見る。
「…………」
 警護要員がこの路を選んだ。
 露払い。
 後続する影が複数。
 居場所がばれるのも構わずにライトを用いている。
――――こっちが本隊ね!
 美殊が選んだルートに『仕事の標的』であるはずの幹部級の人間……取引現場で居合わせた最高幹部の1人を守りながら逃げようとする動きがある。
 路を譲って、大人しく逃がしてくれるとは思えなかった。
 この混乱の坩堝を生み出した邪魔者として認識されているのなら、口封じも兼ねて美殊は姿を確認され次第、殺される。
 そこまで思考が及ぶ。美殊は左手に折れる廃工場の裏手口に体を滑りこませて直ぐに地面に伏せた。
 冷たいコンクリの地面から冷気が這い上がって体を冷やす。
 体を這わせながら、遮蔽の角から上半身を不自然に折って飛び出させる。
 連中からすれば路地の壁の影で美殊の姿は視認し難いはず。
 目論見通りに警護要員の先頭が姿を現す。その背後にもう1人。
 引き金を引く。
 目前13m辺りで先頭を走る警護要員の左肩に命中する。
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