そして紫煙は香る

 玄関でユキを見送るときにユキはふと顔を上げて美殊の顔をじっと見た。
「? ……何?」
「気をつけてね」
「? 何が?」
「階段から落ちたんでしょ。痣だらけだったじゃないの!」
「……あ、ああ。うん。気をつける。ありがと」
 一瞬背筋が凍る。
 左上半身に集中する痣を治す為に貼った数箇所の湿布。
 勿論それは数日前にキックボクサー崩れの男に殴打された痕だった。酒で酔う前の自分はどうやら階段から落ちたと言い訳をしたらしい。
 その文言が一切記憶に無かったので背筋が冷たくなったのだ。ユキには自分の本当の仕事を知られてはいけない。
 ユキには自宅で先物取引で小銭を稼いでいると嘘を吐いている。
 情報を左右する案件と云う意味では強ち嘘ではない。美殊の情報でとある勢力図が一変する直前まで衝撃を与えたことがあるのだ。
「もう……呑んでいる時は足元に気をつけなさいね!」
 そう言ってユキは玄関を出た。
「…………」
 途端に広がる静かな空間。
 玄関が閉まる音だけがいつまでも室内に反響しているようだ。
 この寂しさが酷く耐えられない時が有る。
 それを紛らわせる為にユキを指名して呼び出すのだ。
 再びコーヒーを淹れる。朝食の時と同じドリップコーヒー。
 同じ風味なのにマグカップを温めないだけで全く違う味に変化する。 マグカップを持って仕事部屋に行く。4LDKの物件で実際に使っているのは一部屋とLDK。
 もう一部屋はユキの私物を置いた部屋。あとの2部屋は仕事用の空間として使っているとユキには言い聞かせている。
 ユキが近寄らないように『本来』の仕事用の部屋でいつも葉巻を吸う。
 香り高いプレミアムシガーではなく、1本330円のドライシガーだ。シガーカッターもヒュミドールも必要無い。セロファンを剥いて火を点けるだけの安物の葉巻。
 仕事用の部屋でノートパソコンに電源を入れながらマグカップを口に運ぶ。
 ノートパソコンが完全に起動するまでに葉巻の紙箱を部屋の壁に吊っていたMA-1フライトジャケットから放り出す。
 ドイツ製の安葉巻でバスコダガマ・オロ。100%南米の葉巻葉を用いたデイリーシガーの定番だ。
 葉巻の臭いが染み付いたこの部屋にはユキは近寄らない。
 アルミの蓋付き灰皿を取り出したときには既にノートパソコンの起動は終えていた。直径17mm全長150mmの葉巻のセロファンを剥いて口に銜える。
 口に銜えたままのバスダガマ・オロに火を点けずにノートパソコンに向かう。
 情報収集要員だけで構成される情報交換用のコミュニティを覘いてみる。
 勿論、ここで掲載される情報は情報収集要員の界隈では古い情報だ。
 売買先の情報屋界隈では最新の情報かもしれないが、その情報屋に情報を提供する最先端を生きる人間たちには鮮度が落ちたネタの吹き溜まりだ。
 然し覘くだけの価値は無い訳ではない。このサイトから次の情報の宛てを推理して自分から貪欲に収集活動に勤しむ。
 情報収集要員の間にもトレンドは存在する。細かいところではどこの八百屋がいつ、何を値下げするかと云うスケールの小さい物から一国の元首の辞職が掛かる大問題まで玉石混交だ。
 ……それを自力で取捨選択して飛び込む。
 通常のマッチと比べて倍の長さがある軸長マッチの火でバスコダガマ・オロのフットを炙る。
 バスコダガマ・オロにはセロファンを剥くとシダーと呼ばれる杉の薄皮で作られた防虫効果を狙ったカバーで包まれているが、防虫以外にもこのシダーを薄く裂いてオイルライターといった臭いが特徴的で葉巻に不向きな火を移して間接的に葉巻に着火する道具にもなる。
 尤も、防虫効果も間接的着火もドライシガーのバスコダガマ・オロの前では形骸化した存在でしかない。……ただの飾りだ。
 深く一服。
 ホンジュラスの泥臭さを含んだ甘味の有る煙が口中に広がる。
 ネットで掲載される情報収集のネタを掻き集めても、即座に飯の種に繋がらないの承知だ。
 焦ってはいけない。
 競合相手がばら撒いたフェイクという可能性も大きい。
 室内に紫煙が漂う。部屋の中空に煙の層が形成される。思い出したように部屋の窓を15cmほど開けて換気する。
 室内に置いてある空気清浄機が全開で作動するが、空気清浄機には一酸化炭素を清浄な空気に変質させる機能は付いていない。
 幾ら葉巻を愛飲しているといっても、酸素が無ければ思考力の低下だけでなく頭痛や吐き気、ニコチン酔いと呼ばれる症状が現れる。
 尚、ニコチン酔いは現代の医学を以ってしても有効な治療法が無い。精々、屋外で深呼吸を繰り返して冷水を飲み、横たわったままで腎臓が血液中のニコチンを濾過するのを待つだけだ。
 有意義な情報が全く集まらない。
 それくらいで苛立たない。
 父親は薄利多売を行えるほどに情報を集めていたがその手段は今も不明だ。
 顧客の多さが父親の優秀さを物語っていたが、その父親独自のノウハウは伝授されなかった。
 焦ってはいけない。情報の流れを読む。
 厳密には情報の流れの元となる流行の兆しを見つけることだ。箸にも棒にも掛からない屑のような情報が株価を変動させるトレンドとして成長する事も有るし、そのように情勢を左右させる能力が秘められているのが、情報収集要員の職掌だ。
 世間一般では情報屋こそが時代の担い手のように持て囃されているが、情報屋の足元を掬う事も可能な職業が情報収集だ。
 ひいて言うなら、情報収集要員という職業は裏の世界でも公認黙認で存在しない職業だ。
 誰でも情報収集要員として活躍できるのが大きな理由だ。
 表の世界で例えていうのなら、赤提灯の店主が酔客の愚痴を聞いているうちに、どこの企業のどんな役職の誰がどこでどんな事をした、という事情に詳しくなるように、散髪屋が町内の事情に関して矢鱈と詳しくなっていくように、どんな小さな情報でも集めて、集まって、集まるように仕組み、売買の対象になる。
 情報の選別だけで殆どのタスクが割かれる、割に合わない仕事でもある。
 故に、父親の存在が大きく偉大に尊敬に値する存在に思えるのだ。
 独自の情報網を持っていたとは考えられない。
 譲り受けたフィーチャーホンのアドレスを解析したが、纏まった団体や取り立ててマークするような有力者は登録されていない。
 少しは名の通った情報屋とその組合や互助会のアドレスがフォルダ分けされていた程度だ。
 アドレスに登録された7割の個人や団体と接触したが皆好意的だった。
 幾つも仕事を廻してくれた。
 だが、雀の涙。
 誰も彼もが二口目には「お前の父親はどんな情報でも『いい値段』で売ってくれたぞ」という。
 ……父親の薄利多売は嘘ではなかったのだ。
 恐らく父親の性格からして、自分で築いた商法は墓場まで持っていくだろう。娘を試しているのではないかと疑ったりもしたが、あの父親がそんな父親らしいコミュニケーションで娘と家族愛を深めるとは思えない。
 溜息が混じった吐息。
 溜息を吐く心算は無いが、思わず溜息に似た吐息が漏れてしまうのだ。
 口中に広がるバスコダガマ・オロの香りが苦く感じられたので洗い流すように冷めかけたコーヒーを一口飲む。冷めてもコーヒーだ。タバコとの相性は抜群だった。
 そのコーヒーを以ってしても、喉の奥に引っ掛かったような納得のいかない『何か』は洗い流せなかった。
   ※ ※ ※
 相変わらずの鉄火場。問題は鉄火場を形成してしまった二つの勢力のど真ん中に放り出された事だった。
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