そして紫煙は香る
コメカミを押しながら、下着姿でゴミ袋を引っ張るユキ。
今日も一日が始まる。
2人とも身支度を整えて、キッチンに立つ。
それなりに販売価格が高い、床面積の広いマンション。2人の人間が立ったくらいで狭く感じるキッチンではない。
ユキがドリップコーヒーを淹れている間に、注ぐ為のマグカップに熱湯を満たして温める。
それが終わると朝食用の皿やボウルを2つのトレイに並べる。美殊は直径の広いフライパンでプレーンオムレツとベーコンを同時に焼く。
片手間の作業のように空いた左手で器用にレタスを剥いて人差し指と中指、薬指と小指がくっつく体質を活かして指先で剥いたレタスを更に細かく千切る。
1人当たり2個の卵を使ったプレーンオムレツと2枚ずつの厚切りベーコンを皿に乗せ、その横のボウルにレタスだけのサラダを盛り付けてから、彩りに胡瓜と人参のベジタブルスティックをスライサーで細く削って振り掛ける。
2人の調理と作業が終わろうとしていたときに、トースターが軽やかにチンと音を立てて4枚切りのトーストが2枚、焼けたことを報せる。2人は時折笑顔を交わしながら、トーストを自分のパン皿に乗せてトレイと供にテーブルに就く。
トースターには既にトーストをセットした。
追加の1枚は美殊の分だ。
無言。しかし、朝食を前に手を合わせてこうべを軽く垂れる。
シンプルな朝食。
トマトかヨーグルトが有ればもっと華やかになったと少し後悔。
美容に気を使うのも商売の内だと言うユキは、テーブルの傍らにマルチビタミンのサプリメントの携行ケースを置く。
無言。しかし、2人とも唇の端に笑顔を浮かべて黙々と食べる。
プレーンオムレツは塩胡椒で味を調えただけ。
焼き加減も中身はまだ白身の部分がドロリとしたままのふわふわ。
卵を割って掻き混ぜる時に大きく空気を取り入れるように優しく掻き混ぜれば、この様な状態で焼くことが可能だ。勿論、絶妙な火加減も外せない。
フライパンに引く油をサラダオイルやオリーブオイルではなく、無塩バターに置き換えるのも小さな工夫だ。
ふっくらとした焼き上がりのプレーンオムレツは、厳密に言えばスクランブルエッグとは違う。オムレツの形状を保つだけで食感が劇的に変化するだけではなく、卵本来の味も一瞬で閉じ込めてしまうので口の中でいつまでも余韻を引く。
美殊はプレーンオムレツには何も掛けない。
隣で鎮座しているベーコンを齧って塩分を含んでからプレーンオムレツを一口食べてマーガリンを塗ったトーストを食べる。
卵、塩、胡椒、豚肉のたんぱく質、マーガリンの風味、パンの心地よい食感などが渾然一体としていながら目まぐるしく口の中で変化する様相は正に味覚と食感の迷路だった。
口の中の慌しくも愉しい後味を軽くリセットする為に、和風ドレッシングを掛けたレタスのサラダを食べる。
レタスだけのサラダをハネムーンサラダとして定義する派閥が有り、それにはドレッシングも何も掛けないという教義が有るらしいが、美味しい物を美味しく食べる為に手段を選ばない美殊には関係の無い話だ。
レタスの新鮮な歯ざわり。
噛み締めるたびに植物繊維を咀嚼していると云う満足感が得られる。瑞々しく水分が弾ける。仄かに青い味が心地よく口の中を洗う。
塩分と脂質とたんぱく質を補給する為だけのベーコンは、よく表現されるようなカリカリに焼いた物ではない。
程よく表面に焼き色がつき、脂が染み出し始めた頃合の物だ。
カリカリに焼いたのでは硬いという食感しか記憶できず、焦げを噛んでいる寂寥感に溢れてしまう。
基本的に味付けはしていない。ベーコン本来の塩分を愉しむためだ。これもまたカリカリに焼いてしまうと脂分と供に塩分が抜けてしまうので注意が必要だ。
折角の豊富な塩分と脂質も熱によって全て溢れ出てしまえば味わう余地が極端に少なくなる。とある統計ではカリカリに焼いたベーコンを好む人間はソースや塩胡椒などの調味料をベーコンに直接掛けて食べる確率が高い。それでは食材本来の味を堪能するのには程遠い。
炭水化物という成分のおかげで、味あわなくとも純粋に美味いトースト。
普通にトースターで焼いただけの4枚切りの食パン。
サクッとした食感とマーガリンでふやけた食感の両方が愉しい定番だ。
トースターで焼く前にトースター自体を暖気して焼く二度手間。この手間を惜しんでいたら美味いモノにありつけない。美殊はこの4枚切りをいつも2枚食べる。
よく咀嚼して熱いコーヒーで無理なく押し込む。
唯のドリップコーヒーだ。銘柄は特にこだわりは無い。豆を挽いてくれる専門店の店頭でその日で一番安いコーヒーを買い、自宅でドリップして飲む。
マグカップはユキがあらかじめ温めてくれていたのでいつまでも熱いままのコーヒーだ。苦味と酸味と香ばしさが絶妙のコーヒー。
コーヒーが名物の喫茶店で飲むのもいいが、自宅の落ち着いた空間で飲むコーヒーは矢張り美味い。
鼻腔をコーヒーの香りが擽る。
トレイに乗る全てを食べ終えた後に飲んでこそ、コーヒーは本領を発揮する。余韻を長く味わうのに、そして語らうのにコーヒーは外せない。
思わず右手で左内ポケットを探る仕草をしてしまう。
いつものフライトジャケットなら、この位置に葉巻の紙箱が押し込んである。
けれど、今は部屋着のスエットだ。その仕草を見てユキの顔が少し曇る。
ユキは煙草に関しては差別せずに全てが嫌いだ。自宅で葉巻を吸っていてもユキを招くときは消臭剤をフル活用して臭いの隠蔽に躍起になる。
彼女と話をする時でさえ口臭に気を使う。
初めてユキを指名したときは、葉巻臭さに辟易されたものだ。
その時の顔がいつまでも心に残ってしまい、ユキの前では葉巻を吸わない事にしている……それでも今のように少しでも気を抜くと手が勝手に葉巻を求めているのだから始末に困る。
嫌煙家は煙草の箱を見ただけで精神的アレルギーを起こす人間が多い。ユキもその1人だ。
自宅での喫煙の自由が縛られてしまう苦行を美殊は甘んじて受ける。『たったそれだけのことでユキが笑顔を絶やしてくれないのなら』喜んで何でもする。
朝食が終わり、美殊が食器と台所の後片付けを始める。
ユキは仕事用の声で勤めるレズ風俗の店に電話を掛けて報告を始めている。
嬢の安否を把握する為に店が連絡を徹底させているのだ。
特に泊りがけで稼ぎに行く嬢ともなると神経質になる。
万が一、事件に巻き込まれれば店に司直の手が入り、痛くも無い腹を探られる恐れがあるからだ。
この後、ユキは別れるように部屋を出る。その際に恋愛料を支払って終わりとなるのだが、この恋愛料の支払いも抵抗が無くなった。
金を支払う段になって最初はあの甘い時間は夢だったのかと一瞬で目が覚めたものだが、今では事務的に行っているだけだ。
数え切れないほどユキを指名するので、今では自宅の空き室にはユキの『部屋着と下着』が置いてある。
洗面台にはユキの歯ブラシが置いてあるし、ユキ専用のマグカップが台所の食器棚に置いてある。いつの間にかそうなっていた。今となっては一夜の恋愛としての料金を払うと云うより、タクシー代を払うだけの感覚になっている。
それでも尚、美殊はユキの本名も住所も本当の電話番号も知らない。
今日も一日が始まる。
2人とも身支度を整えて、キッチンに立つ。
それなりに販売価格が高い、床面積の広いマンション。2人の人間が立ったくらいで狭く感じるキッチンではない。
ユキがドリップコーヒーを淹れている間に、注ぐ為のマグカップに熱湯を満たして温める。
それが終わると朝食用の皿やボウルを2つのトレイに並べる。美殊は直径の広いフライパンでプレーンオムレツとベーコンを同時に焼く。
片手間の作業のように空いた左手で器用にレタスを剥いて人差し指と中指、薬指と小指がくっつく体質を活かして指先で剥いたレタスを更に細かく千切る。
1人当たり2個の卵を使ったプレーンオムレツと2枚ずつの厚切りベーコンを皿に乗せ、その横のボウルにレタスだけのサラダを盛り付けてから、彩りに胡瓜と人参のベジタブルスティックをスライサーで細く削って振り掛ける。
2人の調理と作業が終わろうとしていたときに、トースターが軽やかにチンと音を立てて4枚切りのトーストが2枚、焼けたことを報せる。2人は時折笑顔を交わしながら、トーストを自分のパン皿に乗せてトレイと供にテーブルに就く。
トースターには既にトーストをセットした。
追加の1枚は美殊の分だ。
無言。しかし、朝食を前に手を合わせてこうべを軽く垂れる。
シンプルな朝食。
トマトかヨーグルトが有ればもっと華やかになったと少し後悔。
美容に気を使うのも商売の内だと言うユキは、テーブルの傍らにマルチビタミンのサプリメントの携行ケースを置く。
無言。しかし、2人とも唇の端に笑顔を浮かべて黙々と食べる。
プレーンオムレツは塩胡椒で味を調えただけ。
焼き加減も中身はまだ白身の部分がドロリとしたままのふわふわ。
卵を割って掻き混ぜる時に大きく空気を取り入れるように優しく掻き混ぜれば、この様な状態で焼くことが可能だ。勿論、絶妙な火加減も外せない。
フライパンに引く油をサラダオイルやオリーブオイルではなく、無塩バターに置き換えるのも小さな工夫だ。
ふっくらとした焼き上がりのプレーンオムレツは、厳密に言えばスクランブルエッグとは違う。オムレツの形状を保つだけで食感が劇的に変化するだけではなく、卵本来の味も一瞬で閉じ込めてしまうので口の中でいつまでも余韻を引く。
美殊はプレーンオムレツには何も掛けない。
隣で鎮座しているベーコンを齧って塩分を含んでからプレーンオムレツを一口食べてマーガリンを塗ったトーストを食べる。
卵、塩、胡椒、豚肉のたんぱく質、マーガリンの風味、パンの心地よい食感などが渾然一体としていながら目まぐるしく口の中で変化する様相は正に味覚と食感の迷路だった。
口の中の慌しくも愉しい後味を軽くリセットする為に、和風ドレッシングを掛けたレタスのサラダを食べる。
レタスだけのサラダをハネムーンサラダとして定義する派閥が有り、それにはドレッシングも何も掛けないという教義が有るらしいが、美味しい物を美味しく食べる為に手段を選ばない美殊には関係の無い話だ。
レタスの新鮮な歯ざわり。
噛み締めるたびに植物繊維を咀嚼していると云う満足感が得られる。瑞々しく水分が弾ける。仄かに青い味が心地よく口の中を洗う。
塩分と脂質とたんぱく質を補給する為だけのベーコンは、よく表現されるようなカリカリに焼いた物ではない。
程よく表面に焼き色がつき、脂が染み出し始めた頃合の物だ。
カリカリに焼いたのでは硬いという食感しか記憶できず、焦げを噛んでいる寂寥感に溢れてしまう。
基本的に味付けはしていない。ベーコン本来の塩分を愉しむためだ。これもまたカリカリに焼いてしまうと脂分と供に塩分が抜けてしまうので注意が必要だ。
折角の豊富な塩分と脂質も熱によって全て溢れ出てしまえば味わう余地が極端に少なくなる。とある統計ではカリカリに焼いたベーコンを好む人間はソースや塩胡椒などの調味料をベーコンに直接掛けて食べる確率が高い。それでは食材本来の味を堪能するのには程遠い。
炭水化物という成分のおかげで、味あわなくとも純粋に美味いトースト。
普通にトースターで焼いただけの4枚切りの食パン。
サクッとした食感とマーガリンでふやけた食感の両方が愉しい定番だ。
トースターで焼く前にトースター自体を暖気して焼く二度手間。この手間を惜しんでいたら美味いモノにありつけない。美殊はこの4枚切りをいつも2枚食べる。
よく咀嚼して熱いコーヒーで無理なく押し込む。
唯のドリップコーヒーだ。銘柄は特にこだわりは無い。豆を挽いてくれる専門店の店頭でその日で一番安いコーヒーを買い、自宅でドリップして飲む。
マグカップはユキがあらかじめ温めてくれていたのでいつまでも熱いままのコーヒーだ。苦味と酸味と香ばしさが絶妙のコーヒー。
コーヒーが名物の喫茶店で飲むのもいいが、自宅の落ち着いた空間で飲むコーヒーは矢張り美味い。
鼻腔をコーヒーの香りが擽る。
トレイに乗る全てを食べ終えた後に飲んでこそ、コーヒーは本領を発揮する。余韻を長く味わうのに、そして語らうのにコーヒーは外せない。
思わず右手で左内ポケットを探る仕草をしてしまう。
いつものフライトジャケットなら、この位置に葉巻の紙箱が押し込んである。
けれど、今は部屋着のスエットだ。その仕草を見てユキの顔が少し曇る。
ユキは煙草に関しては差別せずに全てが嫌いだ。自宅で葉巻を吸っていてもユキを招くときは消臭剤をフル活用して臭いの隠蔽に躍起になる。
彼女と話をする時でさえ口臭に気を使う。
初めてユキを指名したときは、葉巻臭さに辟易されたものだ。
その時の顔がいつまでも心に残ってしまい、ユキの前では葉巻を吸わない事にしている……それでも今のように少しでも気を抜くと手が勝手に葉巻を求めているのだから始末に困る。
嫌煙家は煙草の箱を見ただけで精神的アレルギーを起こす人間が多い。ユキもその1人だ。
自宅での喫煙の自由が縛られてしまう苦行を美殊は甘んじて受ける。『たったそれだけのことでユキが笑顔を絶やしてくれないのなら』喜んで何でもする。
朝食が終わり、美殊が食器と台所の後片付けを始める。
ユキは仕事用の声で勤めるレズ風俗の店に電話を掛けて報告を始めている。
嬢の安否を把握する為に店が連絡を徹底させているのだ。
特に泊りがけで稼ぎに行く嬢ともなると神経質になる。
万が一、事件に巻き込まれれば店に司直の手が入り、痛くも無い腹を探られる恐れがあるからだ。
この後、ユキは別れるように部屋を出る。その際に恋愛料を支払って終わりとなるのだが、この恋愛料の支払いも抵抗が無くなった。
金を支払う段になって最初はあの甘い時間は夢だったのかと一瞬で目が覚めたものだが、今では事務的に行っているだけだ。
数え切れないほどユキを指名するので、今では自宅の空き室にはユキの『部屋着と下着』が置いてある。
洗面台にはユキの歯ブラシが置いてあるし、ユキ専用のマグカップが台所の食器棚に置いてある。いつの間にかそうなっていた。今となっては一夜の恋愛としての料金を払うと云うより、タクシー代を払うだけの感覚になっている。
それでも尚、美殊はユキの本名も住所も本当の電話番号も知らない。