そして紫煙は香る

「…………」
 肩で息をする美殊。
 呼吸が荒いまま、落ちていた弾倉を拾い、マグウェルに差し込む。
「……!」
 今し方倒したばかりの男の向こう……階段付近にもう1人の警護要員の影が見えた。
 怯えて後退りするその男の影。今の美殊は余程酷い顔をしていたのだろう。
 美殊は無造作に右手を伸ばし、人差し指で男の影を指すような感覚で引き金を引く。
 約7m向こうの男は、手にした自動拳銃を発砲する前に呆気無く倒される。
 モーゼル・パラベラム……と云うよりもオリジナルのルガーP-08のグリップはフレームに対して55度の角度で伸びている。
 現代で言えば人間工学的に優れたデザインで、あたかも、指差す感覚で銃口が標的を向き、命中精度の向上に貢献している。
 その功労が無くとも、反撃の余地を与えずに警護要因を倒した美殊の腕前も然るものだ。
 硝煙が渦巻く狭い廊下を早く抜けて階下へと急ぐ。
 恐らく呼んだのであろう増援が到着する前にこの邸宅を去る必要がある。
 勝手口へ通じる廊下を走りぬけようとした際に台所が見えた。シンクの蛇口から水を浴びるように飲みたい衝動に駆られたが、余計な痕跡を残すまいと喉の渇きを意思の力で押さえ込んで勝手口を出た。
 たった10分間の密談を盗聴するのに、何時間も邸宅を彷徨った錯覚を感じる。
 軽い千鳥足で長い壁に拵えられた裏口から飛び出る。
 形振り構っていられない。
 そんな這う這うの体で夜の路地を走る。
 目的地は盗難車を停めてある空き地まで。この広いだけの造成地の彼方にあるような空き地を目指す。
 こんなに開けた造成地なのに……造成地だからこそ、目立たない空き地を探すのに苦労した。
 帰宅したら絶対に冷水を飲んで、熱燗で腹の底を温めてやると誓う。
   ※ ※ ※
 ベッドで目が覚める。
 全裸。自宅のマンション。
 その寝室のベッド。臭いで解る。
 あの夜に殴り続けられた左半身のあちらこちらに青痣が出来ている。
 湿布を貼り付けて回復に努めている。
 あの時……弾倉を落としてあの男の気を引こうとした時に顔面に握り拳を叩き込まれていたら、前歯が全部折れた上に鼻っ柱も見事に圧し折られていただろう。
 今から思い返しても寒気がする。
 帰宅するなり全裸になって、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターの2リットルのペットボトルを引っ掴んでバスルームに篭って熱いシャワーを浴びながら冷たい水を飲み、暴力的に興奮する神経を宥めた。
 3日前の荒事とは思えない、何処か遊離感に似た感覚。
 気だるい体を無理に起こす。
 体を覆っていたシーツが捲れる。
「あ……」
 思わず小さな声が出る。
 シングルのベッドで自分以外のもう1人がそこに居る。
 同じく全裸で。
 半分寝ぼけた頭を回転させて記憶の奥底を浚う。
 女。自分よりも10歳は若い。
 サラサラとしたブラウンのロングヘアが印象的。
 女自体はどこの誰であるかは直ぐに思い出した。
 何しろ、自分が呼び出した女だ。
 どういう経緯で、その女とこうしているのかが直ぐに思い出せないでいた。
 昨夜はそんなに呑んでいないと思う……呑んでいないというワードから更に記憶を引っ張り出す。
 3分ほど悩んで辺りを見回す。
 2人分の衣服と下着が寝室に散らばっている。普通なら取り乱すところだが、それを見て即座に理解した。
 女の名前はユキ。本名は知らない。
 レズ風俗の嬢だ。主にデリバリーを専門とする、美殊が贔屓にしている女だ。
 一仕事終われば、必ず予約を入れてまでユキを指名して自宅でひたすら呑む。
 店の方針として酒を呑むのは暗黙の了解らしい。
 普通は嬢の身を守るために、間違いが起き易い飲酒は控えさせて一泊の場合も割高な料金を設定している。
 その『高い女』と昨夜は軽く呑んでいたのを思い出す。
 シーツの乱れ具合から察するに2人は本当に呑んで寝ただけらしい。性的な交渉は何もしていないと断言できる。
 少なくとも昨夜は雑談と呑むのに専念していたらしい。
 大きな仕事を終えると必ずユキを指名して自宅で呑む。
 呑むか肌を合わせるかのどちらかだ。昨夜は畢竟、呑んだだけらしい。
 ベッドサイドの時計を見る。
 午前9時。
 アルコールが僅かに残る重い体を引きずってシャワーを浴びるべくバスルームへ向かう。
 途中、キッチン、リビング、ダイニングを見たが、何れも大型犬が暴れたような有様だった。
 呑み散らかしに食べ散らかし。レンジにフライパンを乗せたまま。テーブルの上ではワインのボトルが転がっていて床にもウイスキーの瓶が横たわっている。
 酒の肴であろうサラミやチーズや缶詰の食べ残しが雑に透明のゴミ袋に押し込まれている。
 これではゴミの分別をするのが面倒だ。……前言撤回。相当、呑んだようだ。
 鉄火場のような仕事を終えると、寂寞に押し殺されるような錯覚に教われ、それから逃れる為にオールでレズ風俗にデリを頼んだのが切っ掛けだった。
 最初の嬢がユキ。もう3年の付き合いになる。
 金と体だけの付き合いだと両者とも割り切っているはずだが、美殊はユキの体の温かさに依存しているのを実感する。
 後片付けにうんざりしながらバスルームに足を向け、熱いシャワーを浴びる。
 バスルームのドアの向こうで足音が聞こえたが、ユキも起きたのだろう。 
なにやらガチャガチャと音が聞こえる。足元に散乱したボトルやゴミを片付けているのだろう。
 自治体の事情を知らないはずのデリ嬢が、随分と生活臭い行動に出るものだ。……つまりそれだけ、美殊はユキを指名して一夜だけの恋愛を繰り返してきた。
 ユキとはどちらかというと、肌を重ねる回数は少ない。
 美殊は仕事が無くて1人だけの時間を埋めるためにユキを指名する事も多々有る。
 勿論、指名しても、予約を入れていなければユキとは全く会えない。性的な交渉をするよりも喋りながら食事をして呑んでいる事の方が多いかもしれない。
 突然、美殊がユキの体を貪り始めると、ユキも何かを悟ったのか体を任せるままにする。ユキは美殊の仕事を知らない。
 ユキからすれば大口の客として存在する美殊。
 そうでなければならないはずなのに、今では美殊の家の中で寛いで仕事の愚痴を零したり、時には嫌な客の悪口を言ったりと、一時的なシェルターとして利用している節がある。
 有体に言えば、ユキにとって美殊は都合のいい逃げ場所だった。
 商売女としてユキはプロ意識に欠ける部分が有ると言える。プロ意識が欠けてしまうほどに美殊の部屋は居心地が好かった。
 美殊がバスルームから出て体を拭き、髪を乾かしていると正面の鏡にユキの姿が映る。
 少し面長。
 切れ長の瞳に細く整った鼻筋。
 詳しい年齢は知らないが20代前半だろう。
 緩いアーチを描く眉に彫りが少しばかり深い眉目周辺。
 背中の中ほどまである茶色の髪が少し乱れている。
 商売の嬢らしい鮮やかな赤で小さなフリルで修飾された下着を着けている。
 身体のラインは撫でたくなるほどに美しい曲線で構成されている。
 スレンダーな体型。育つところは育っている。
 矛盾しそうな二つの要素を兼ね備えた見事なプロポーション。以前、街でスカウトの声がしつこいと聞いた事があるが、それも頷ける。
「美殊……頭痛い」
 口元を歪めてユキが鏡の中で苦笑いする。
「私もよ……昨日はいつから呑んだっけ?」
「さあ? ……覚えてない……うう。頭痛い……今日の仕事休もうかなあ」
 二日酔いに悩まされているらしい、ユキを見て思わず微笑を浮かべる美殊。
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