そして紫煙は香る

 個性の無い黒いスーツに身を包んだ男達は、兎に角弾幕を張るために発砲していただけなので、床に転がる仲間の死体のその向こうで伏せている美殊の姿に視線が集中しない。
 即ち、銃火が集中しない。
 連中からすれば、仲間の死体だけが床に転がっているとしか見えないのだ。
 それを遮蔽にした美殊の姿を誰も捉えない。
 美殊は呼吸を止めて引き金を冷静に引いた。
 放たれた9mmパラベラムのジャケッテットホローポイントは1発ずつ確実に男達の腹部や胸部に吸い込まれるように命中する。
 9mmパラベラム程度では『簡単に』死なない。無力化させて逃げる時間が稼げればそれでいい。
 3人の男は、真正面に居ながら床に伏せて重体の男の陰に隠れていた美殊を視界に捉える事が出来なかった為に、案山子のように撃ち倒される。
 連中が倒れた後には、連中が好き勝手に乱射した拳銃の硝煙が激しく立ち込めて視界が薄っすらと濁る。
 空気の流れが無い室内での銃撃戦はしばしばこの様な視界不良に悩まされる。
 映画のように静かにスタイリッシュに銃撃戦を展開する状況は意外と少ない。
 もっと人数が多ければ同士撃ちすら発生する。
 鼻腔を刺激臭のする硝煙が擽る。くしゃみが出そうだ。
 美殊は4発の銃弾を消費したモーゼル・パラベラムの弾倉を引き抜き、新しい弾倉と交換する。
 もう鉄火場は形成されてしまった。
 いつどこでどの様な展開に巻き込まれるか解らない。遁走を果たすまではモーゼル・パラベラムの弾倉は常に満タンにしておきたい。
 今し方、弾倉を引き抜いたが、その弾倉には残弾が3発。
 それだけでは心許ない。新しい弾倉を差し込み薬室分の実包と合計すると9発の9mmパラベラム。
 たった1発、いつもより多くの実包を呑みこんでいるという事実は大きな精神的余裕を生み出す。
 3人の男が倒れるのを確認すると直ぐ様立ち上がり、前進する。
 警護要員は残り2人。
 2人を丁寧に片付ける必要は無い。
 願わくば、会敵せずに逃走経路に就きたい。
 密室の2人の有力者はこの場では戦力外だ。
 密室の中で、慌しい足音やソファをひっくり返すような音も聞こえる。
 増援を要請する内容の怒鳴るような声も聞こえる。外部に連絡が取れるのは美殊だけではない。
 寧ろ、連中こそが、外部と連絡が取れるように手配しているのだ。
 外部との連絡網を断ってまで、美殊を仕留めるよりも、警護要員は2人の有力者の安否を気遣うだろう。
 前進。
 とはいえ、階段を駆け降りて裏の勝手口から逃げるだけ。
 その階下へ通じる路は7m先の、警護要員の控え室と思われる部屋を過ぎなければならない。
 残り2人。
 その2人の警護要員が全く気配を示さない。
 臆病風に吹かれたかと早計に考えるのは止める。
 どこかの遮蔽に潜んで反撃の機会を窺っていると視る。
 足元の重体の男を跨ぐ。
 血の池を踏まないように気を付ける。足跡を残したくは無い。
 美殊は殺し屋でも鉄砲玉でもない。ただの情報収集要員だ。誰に頼まれたわけでもない鉄火場で身を置く必要は無いのだ。
 左手側に体を寄せながら廊下を小走り。
 左手側の階下への階段へ到達する。
 右手側では3人の男が呻き声を挙げながら悶えている。
 反撃するだけの気力は無さそうだ。3人とも床に張り付いて転がっているだけで拳銃を放り出している。セフティが特徴的なタウルス社のベレッタM92FSのコピーだ。
 階段を降りるべく、左手側へ曲がろうと体の向きを変えた時に不意に死角から握り拳が飛んでくる。
「!」
 警護要員の1人。
 相変わらずの黒いスーツに身を包んだ男。
 人相は平凡だが、体躯は隆々として頑強そうだ。
 拳銃を抜かずキックボクシングのムエタイスタイルで構えている。
 1m以下の距離。
 この距離なら、拳銃を抜くのは逆に危険。
 逆も然りで、既に拳銃を抜いて発砲する事に意識を割いていた美殊は不利だった。
 発砲するには距離を稼がなければならない。
 その距離を稼がせてくれない。
 バックステップを踏んで、ジグザグに後退を始める美殊を追う様にムエタイスタイルの構えをした男は距離を遠慮なく詰める。
 距離を詰めながら剛拳が風を切る。
 避けるので精一杯だった。
 拳だけではない。蹴りも鋭い。
 硬そうな革靴の爪先が鳩尾に決まるだけで美殊はノックダウンさせられるだろう。
 左右から激しく拳と蹴りを繰り出す男。フットワークも軽く呼吸のリズムも狂わない。スーツの裾が捲れて左脇に吊るしたシステムショルダーホルスターがチラチラと見える。
 美殊の背中に脂汗が浮かぶ。
 右手のモーゼル・パラベラムが錘のように感じる。
 実際に左右に激しく振られてしまい、右手のモーゼル・パラベラムの重量で体幹が狂い、疲労が蓄積し始める。
 銃口を定める機会を与えてくれない。
「!」
 発砲した。だが、そのモーゼル・パラベラムを握る手首を右手側の外側へと拳で『押しやられる』。
 拳で右手首を潰すよりも、『押す』ようにインパクトの瞬簡に肘を伸ばすのだ。
 そうすれば相手の拳銃を放り出させるよりも大きく銃口を逸らせて胸や腹部といった大きな打撃ポイントを開かせて、次々と攻撃を叩き込みやすくなる。
 徒手格闘に不慣れ以前に、体格差で押される一方の美殊。
 皮肉にも最大の攻撃力を誇るモーゼル・パラベラムを握る手に振り回されて、左手での防御や躱すだけで致命的な打撃を防いでいる。
 美殊の額から珠の汗が飛び散る。
 1m。たったの1m。
 この距離での防戦。
 押されるがまま。為す術も無い。
 防御の上からでも体力が削られるのを実感する。
――――反射神経が良すぎる!
――――早く何とかしないと!
――――増援が来る!
 頭の中でネガティブな感情が沸き起こる。
 焦る心がそれを加速させる。
 掠れつつある頭の中の見取り図。その見取り図では背後は突き当たりで左右に分かれる。その先は部屋のドア。
 部屋に篭城するのは賢い選択では無い。
 この廊下でカタをつけなければ、増援が押し寄せたときに遁走する為の経路に就く事が不可能になる。
 反射神経。
 ふと閃く物がある。
 目前のガタイの良い男は、異常な反射神経の高さを誇っているのは百も承知だった。
 恐らく視界の中に入る挙動する全ての物体をたちどころに捕捉し、脊髄反射に似た反射神経で打撃を繰り出しているのだろう。
 反射神経。
 奥歯を噛み縛る。
 顔面に一発叩き込まれる覚悟を完了した。
 その後に……右手の親指を握り込ませてモーゼル・パラベラムのマガジンキャッチを押し込んで銃口を下に勢いよく振る。
 勿論、男の体とは関係の無い方向を銃口が向く。だが、キャッチから離れた重い弾倉は自重で振り出されて男の左爪先に当たる。
「!」
 男は顔を変えずに、肩を跳ねさせるようにして50cmほど飛び退いた。
 反射神経。
 視界の死角からの思わぬ感触。
 体が異常に反応し、男は類稀な反射神経で距離を保ってしまった。
 死角から足元を攻撃されたと錯覚されたのだろう。
「!」
 次の瞬間、男の顔が凍りつく。
 銃声。
 モーゼル・パラベラムが発砲。
 漸くの発砲。
 マガジンセフティが無い大昔の拳銃のリバイバルなので、弾倉を差していなくとも発砲できる。
 彼らが使う最新型の拳銃とは安全に対する概念が違う。
 9mmパラベラムのジャケッテッドホローポイントは、男の左胸部に命中し、その場に崩れ落ちる。
 射入孔付近が銃火で燻ったが、溢れる血液で鎮火する。
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