そして紫煙は香る

 モーゼル社が1970年代以降からリバイバルさせているモーゼル・パラベラムと呼ばれるモデルだ。
 オリジナルと比べて大きな改良は無い。
 グリップセフティが追加された程度だ。
 グリップセフティの追加は安全性の向上を狙っただけで、命中精度や堅牢性には一切影響していない。
 対外輸出するに従い、諸外国では2つ以上の安全機構が無い自動銃火器は輸入できないという法律や州法が有る国の対策だ。
 オリジナルのルガーP-08はセフティを掛けても、引き金をロックするだけで撃芯まではロックしない。
 従って少々の衝撃で暴発する危険性が有った。それをグリップセフティの追加で全ての機構をロックしたのだ。
 このグリップに取り付けられたセフティをしっかり握り込まなくては引き金もロックされて発砲できない仕組みだ。
 それ以外は忠実に再現した、唯のルガーP-08だ。
 抜き出したモーゼル・パラベラム。
 左手のスマートフォンをカメラとマイクを作動させたままMA-1のポケットに押し込み、おもむろに右手親指でマニュアルセフティをカット。空いた左手で尺取虫機構をそろそろと引き絞って薬室に実包を送り込む。
 ルガーP-08の最大の特徴である尺取虫機構。
 トグルアクションという名で広く世間に宣伝されている。
 その名の通りに、尺取虫を連想させるコッキングピースの作動。
 全弾発砲すれば尺取虫は起き上がったまま、射手に残弾ゼロを視認させる働きを持つ。
 新しい弾倉と差し換えて数ミリほど尺取虫機構を引いてやれば、再び尺取虫は前進して薬室に実包を送り込み撃発可能となる。
 それでも基本的に通常、薬室は空の状態が普通だった時代の拳銃だ。常に薬室に実包を送り込んだまま携行するのは精神衛生上宜しくない。
 9mmパラベラムの実包が確実に薬室に送り込まれる。
 それを作動音と手から伝わる感触で確認する。
 映画のようにシャキンと派手な音は立てない。
 室内での隠密行動だ。できるだけ音は立てたくない。音を立てる事が有るとすればこのモーゼル・パラベラムの引き金を引くときだろう。
「……」
 口の渇きを少しでも癒す為に唾を飲み込む。
 軽い息苦しさを感じるが、いつもの事だ。
 緊張のピーク付近に自分が居る事を実感させられる。
 銃口は前方。腰の辺りでモーゼル・パラベラムを右手で構えて左手に再びスマートフォンを保持する。
 美殊がモーゼル・パラベラムを抜いた理由……このフロアに排除しなければならない人間が居るのではなく、護身の為の防衛行動だ。
 どう考えても美殊は歓迎されない人物だ。
 突撃取材よろしく住居不法侵入を働いてまで情報を収集しようとする人物だ。
 この邸宅の中に居る人間は全て、彼女を排除すべき存在だと即座に認識するだろう。
 人の気配。足音。廊下を歩く。歩幅からして男。
 角の向こうに男が居る。
 ここで即座に発砲する真似はしない。
 こちらが先制を掛けられるのならそのイニシアティブを回避優先で行動した方が得策だ。
 今来た廊下を後退りしながら、廊下から階下へと退く。
 階下へ通じる階段や廊下には蛍光灯は点っていないので薄暗い。
 その薄暗がりに紛れたと同時に黒いスーツを着た男が何も気が付いていない表情で廊下を真っ直ぐ歩き、その向こうにある何れかの部屋のドアを開けて入室する。
 その隙に素早く階段を駆けて廊下を大きな歩幅で速く歩き、目的の部屋に辿り着く。
 密談の最中。
 どの程度の話をいつから始めていたのかは不明。
 スマートフォンの時計は午前1時を指す。
 ドアにそっとスマートフォンを近づけて室内の会話を一言も漏らすまいと録音を始める。
 ここで今交わされている会話は全て、それなりの値打ちが有る。
 今この時に、ここでこれらの人物が密談を行っているというだけで値打ちが有る。
 2人の有力者が膝を向け合って会話しているだけで、それ以外の勢力には脅威となる。
 そんな危険な会話だった。
 会話の内容は全部拾えなくとも、ここに居る人物の関連を情報屋に売り捌けば情報屋は当事者や関係者に紐を付ける為に様々な動向を見せ始める。
 新しい防御壁に新しい弱点が見つかったような満足感。
 その孔に針の穴程度の傷を付けるだけでいい。
 後は倍々ゲームならぬ、売買ゲームが始まって勝手に商売のタネが増える。
 一種の事実的背景の有るマッチポンプだと言えた。
 ここに金が埋まっているぞ、と叫んで仲間を呼んで大騒ぎさせて自分もその騒ぎに乗っかり儲けを得る。
 そんな姑息な仕組みがここには有る。
 体感時間でどれくらいが経過したのか計り知れない。
 実際には10分ほどの滞在だった。
 その間にこの廊下は無防備だった。
 この邸宅内部にはドアの向こうの人物達を含めて8人の人間が居る。1人はこの屋敷の主。1人は訪問者。残りの6人は警護要員兼運転手だ。
 家の主の警護は4人。
 訪問者の警護兼運転手は2人。
 このまま何も起きないことを願うばかり。
 心臓が半鐘のように五月蝿い。時間の流れが遅い。喉が渇く。
 廊下を漂うパイプ煙草の煙はこのドアの隙間から漂う。その紫煙を吸っているものだから美殊もニコチンが欲しくなる。
 10分経過。
 木製のドア越しでも話し声は充分に聞こえる。
 警護要員も部屋から払っているのか2人以上の気配を感じない。
 10分。もう充分だ。引き際だ。
 2人の有力者が会話していた事実だけでも金になる。
 会話の内容を解析して小分けにすれば暫くは糊口が凌げる。
 スマートフォンのカメラとマイクを起動させたままMA―1のポケットに捻じ込む。万が一に備えたポケットwi-fiの出番は無くなった。
「!」
 殺気。背筋が凍る。全身の鳥肌が立つ。
 首筋に鋭利な刃物を押し当てられたように冷や汗が吹き出る。
 それと同時の脊髄反射的な行動だった。
 銃声。静かな廊下に9mmパラベラムの銃声が轟く。
「……」
「……」
 刹那の沈黙。
 背後に居た男に、振り向き様にモーゼル・パラベラムの引き金を引いた。その場に居た……背後1mの距離に居た男も同時に引き金を引いた。大型軍用拳銃。同じ銃声。9mmパラベラム。
 2人は同時に発砲したのだ。
「……」
 美殊の体が左に傾いて左膝から床に転がった。
 床に広がるどす黒い血液の池。
 美殊はすぐに右手を天井に向けて発砲した。
 廊下の蛍光灯が破壊されて薄暗さが増す。
 それを合図にしたかのように、硝煙が絡む大型軍用拳銃を右手に構えていた男は膝から崩れた。
 男の左胸から溢れる血は更に大きな血の池を為す。
 美殊が撃たれたのではない。美殊は一瞬だけ体を捻り気味にモーゼル・パラベラムを発砲して土壇場で銃弾に当たらないように回避行動を取った。
 勿論、その行動は銃弾よりも遅い。だが、男の銃口の前から僅かに身を躱す効果は抜群だった。
 だからこそ、男のバイタルゾーンに銃弾を叩き込んで、床に伏せる余裕が出来た。
 ……否、撃っても撃たれても、意思の力だけで同じ行動を取っただろう。
 鉄火場の形成。
 警護要員が控えている部屋のドアが開く。
 目前7mの部屋。マホガニーのドアが勢いよく開いて3人の男がドアを遮蔽にして発砲しながら飛び出す。
 闇雲な乱射。ベレッタM92FSかそれのコピーである大型軍用自動拳銃。
 全員、誰かから与えられた拳銃だろうか。真新しいスライドが鈍く光る。
3/17ページ
スキ