そして紫煙は香る

 情報屋が自分の身を守るためにアシの付きにくいアナログな手段で情報を伝達して現金を受け取るのだ。
 ……だがそれは情報屋以上の、情報屋以降の仕事であって美殊の仕事ではない。
 スマートフォンを手に持って潜入し、記録し、引き返す。
 二昔前のテレビの取材班のような、泥と汗の臭いが立ち込める状況と似ていた。
 一戸建て。豪奢な洋風の館。開けた造成地。
 その中でも一番乗りで区画を買って建築したとしか思えない豪邸。
 辺りには本当に何も無い。昼間なら山間部を切り開いて造成作業が進んでいる風景しか見えない。
 白い壁の大きな家。中2階。200坪の広大な庭。家自体の建て延べ面積も自ずと計れよう。くわえて長い高い壁。
 見晴らしがいい立地条件。その物件に美殊は潜んでいた。
 仕事での潜入だ。
 綿密な調査を行うのに情報屋から情報を買う。
 その情報代以上の仕事をしなければ赤字。
 スマートフォン以外の機材はポケットwi-fiのみ。
 機材以外の『仕事道具』は左脇で大人しくしている。
 レプリカのMA-1フライトジャケットにジーパン。黒い運動靴。
 身長170cm。一般的な日本人女性と比較すれば少々大きな体躯。赤茶色のセミロングは美容室に通う暇を惜しんで大雑把にポニーテールに纏めている。前髪はヘアピンで留める。
 整った美貌が見事なほどに活かされていない。
 無駄に美人。必要以上に地味。
 唇に薄いルージュを引き、目立たない程度に付け睫。それで目元を修飾。
 筋の端整な眉目を中心に小さな顎先、切れ長の涼しい瞳、可憐な唇にすうっと引いたような眉も全てがダイヤの原石のままで埋もれている。 彼女は自分の可能性を知らないのではない。
 自分の可能性を隠したいのだ。
 雑踏で目立っていては、人の目に認識されて記憶される。
 どこにでも居る冴えない風貌の女をアピールするのに努力しているのだ。それに、今までに一度も女の武器に代表される色気や涙が仕事の手段として役に立った事が無い。
 役に立ちそうな場面に出会ったことが無い。
 女を捨てた……のではなく、女を捨てた女を演じていると表現した方が正しいのかもしれない。
 この邸宅の敷地に潜入するのは割りと簡単だった。
 番犬しか居ないのだ。
 大型犬を30分以内で眠らせる睡眠薬を混入させたドッグフードをばら撒くと簡単に飛びついて美味そうに頬張った。
 何一つ吼えないので邸内からは誰も出てこない。番犬の数も把握済み。
 邸内の見取り図も、今夜邸内に居るであろう人員の数も把握している。
 裏口のドアを開けるのにも大した労力は使わなかった。
 最近はピッキング対策で難解な鍵が用いられているが、『鍵が有れば問題は無い』。
 この家を攻略するのに一番金を投じたのはこの裏口の鍵だろう。
 情報屋経由で送ってもらったデータを3Dプリンターで出力し、それを型にステンレス片を加工してもらって合鍵を作った。
 正直なところ、鍵の値段は安かったが、この鍵を扱っている業者が自衛と保身の為に大層な金額を吹っかけてきたのだ。
 今頃はあの加工業者と、鍵の情報の提供者に連絡しても電話は繋がらないだろう。他人の個人情報で糊口を凌ぐ商売なら、それくらい臆病な方が安心できる。
 冷たい風が吹きすさぶ広大な庭を横切った直後なので、邸宅内部は暖かく感じられた。
 台所へ続く廊下へ上がる。蛍光灯は点いていない。
 エアコンが効いているわけでもないが、矢張り、体感気温で暖かく感じられるのは家屋自体が最新の断熱材をふんだんに用いているからだろう。
 ドローンとラジコンの法的整備が曖昧な国内に於いて、玩具のドローンを運用してあらゆる窓から望遠レンズで室内を覗くのは簡単だった。
 お陰で頭の中に次々と見取り図が浮かび上がり、事前に入手して覚えていた見取り図の図面とも照合し易い。
 そもそもこの邸宅は侵入者やテロリスト相手に対策を練られていない。
 武装勢力に簡単に占拠されたら困るテレビ局のように、難解な構造をしていないのだ。ただの一般家屋だ。たとえ注文住宅でも屋根の俯瞰図を見るだけで大方の予想はつく。
 ドローンの性能に感謝して室内を歩く。
 足音を勿論、消す。
 だが、歩幅は小さくしない。
 会敵予想は2階へ上がった時からだ。
 その為に左脇に『仕事道具』も呑みこんでいる。
 左手に現場用のスマートフォンを握り締めてカメラを起動したままで保持。ライトは点けない。
 瞬時に動画撮影に切り替えられるように指先の神経を尖らせる。
 今夜の仕事は密談の内容を盗聴するだけだ。
 無線による盗聴や指向性マイクを妨害する電波がこの邸宅から発せられているのか、出入りする車にそれらの盗聴器や発信機を仕掛けたがことごく失敗した。
 一定距離……妨害電波の圏外に出た途端、機材が正常に作動するのだから、自分から物理的に乗り込むしかない。
 賄賂を渡して関係者を誑かす方法は危険だった。三次、四次の伝を辿って関係者に接触する方法も危険だ。
 固いガードは存在しないのだ。
 こちらが接触した事実は、たちどころに敵味方第三者に広がり、その事実もまた情報源として売買される結果になる。
 だからこそ、最小の挙動で最大の効果が得られるように接触出来る人物は少なくした。
 今回だけではない。毎回、そのつもりで仕事に臨んでいる。
 今夜の仕事は久し振りに大物に売りつけられるネタだった。
 まだ誰もすっぱ抜いていないと断定できる。
 情報屋界隈に散らばる情報を集めて『狙い目のネタ』を嗅ぎ分ける能力が情報収集要員に求められる。特に特定の個人と契約していないフリーの情報屋に情報を売るとなると、『誰もが喜ぶ』情報を選りすぐって集めなければ。
 右手でポケットwi-fiを取り出し、バッテリーと電波の受信状況を確認する。
 スマートフォンが健在でもトラフィックに万が一が発生した折に活躍するポケットwi-fiも使えない状況では死んでも成仏できない。
「……」
 心の中で矢張り、と呟く美殊。
 室内に妨害電波は飛び交っていない。
 スマートフォンの電波も良好。
 携帯電波の周波数だけを往来させる仕組みが有るのだろう。
 無数に近い電波帯を解析して一般的なスマートフォンの電波だけを外部に送信させる手法は勿論、違法だ。
 そのような難物は製造と使用が国内では禁止されている。
 今までに試みた無線による送受信は携帯電話の周波数以外だ。
 だからと言って、携帯電話を直接家の中に投げ込むわけにはいかない。だからこその物理的な侵入でのアナログな盗聴だ。
 足音を殺す。
 耳鳴りがしそうなほどに静まり返る廊下。
 パイプと思われる煙草の甘ったるい臭いが2階へ通じる階段から静かに漂う。
 甘ったるいが嫌味を感じさせない上品な香り。美殊も内ポケットに忍ばせた紙箱から葉巻を抜きたくなる。
 ポケットwi-fiをジーパンのポケットに捻じ込み、スマートフォンの録音機能も念のために起動させる。
 カメラが破損した場合の保険だ。
「……」
 息を呑む。
 階段の前でヴァージニア主体と思われるパイプのフレークが燃える匂いを大きく吸い込む。
 深呼吸の心算だが、一層、ニコチンを欲してしまう。
 スマートフォンを口に横銜えにして右手を左脇にゆっくりと伸ばす。腕時計を確認するような仕草で取り出した自動拳銃。
 古式ゆかしいフォルム。
 名前は知らなくとも映画でお馴染みの軍用拳銃……ルガーP-08だ。尤も、オリジナルではない。
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