そして紫煙は香る
女の左腕は小さく震えている。
右上腕部をベルトで止血している。
寒気か痛みか、震える彼女に戦闘力は皆無だった。
その彼女が艶消しの肌をした4インチ銃身の357マグナムリボルバーを片手で構えて立っている。
目に篭った殺意だけは殺されていない。
「……」
「……」
言うだけ無駄。
投降勧告は無駄。
銃口の定まらない重々しい輪胴式。撃鉄が起きている。この距離まで近付いても尚撃たなかったということは、命中させるだけの腕前が発揮できないからだ。
彼我の距離10m。
万全の彼女なら背後から、美殊を仕留めるのは容易だったろう。プロ意識を見せられた感嘆に値する場面だが、美殊に対してそれは無謀だった。
糸が切れたのか緊張が急激に解れたのか、彼女は撃鉄を親指で押さえて静かに引き金を引いた。
親指で『殺された』撃鉄はゆっくりと元の位置に戻る。
そして彼女の右手はダラリと下がり、とうとう、その掌からコルト・ピースキーパーが滑り落ちた。
唇が青い。
殺意を湛えた目は相変わらずだが、どこか霞が掛かったように暗い。仕舞いには肩を落として膝からその場に沈んだ。
こうべを項垂れる。
両手は力無く下がり、戦意の喪失を物語っていた。
深く俯いた顔ゆえに、表情から殺意の有無を悟るのは不可能だった。
彼女に興味を失ったかのように美殊は銜えっぱなしだったバスコダガマ・オロに軸長マッチで火を点けた。
深く一服。
モーゼル・パラベラムは腹のベルトに差したまま待機。
美殊は全ての敵を掃討したと判断し、踵を返した。
その刹那。
項垂れたままの女の左袖から、超小型中折れ式リボルバー……オズグッド・リボルバーがスリーブガン・ホルダーに迫り出されて、美殊の背中に狙いを定めようと銃口が素早く振られる。
銃声。
オズグッド・リボルバーの22口径ショートを掻き消すような大きな銃声。
モーゼル・パラベラムの9mmパラベラム弾の銃声だ。
オズグッド・リボルバーの銃口からは硝煙が昇っていた。
モーゼル・パラベラムも硝煙を纏っていた。
「…………」
「…………」
睨み合う2人。
「そんな考えだと思ったの」
美殊は言う。
「そんな事だと思ったの」
女は言う。
美殊はトグルジョイントが迫り上がったまま、全弾撃ち尽くした事を報せるモーゼル・パラベラムを握り、ゆっくり倒れる女を見ていた。
女の胸から溢れる血液がじわりと広がり、コンクリの地面を塗らしていく。
今夜のバスコダガマ・オロはやけに苦い味だった。
※ ※ ※
先日の深夜に廃材置き場で派手に銃撃戦を展開して事の推移を見守った。
市会議員サイドに動きが出た。
子飼いの殺し屋――矢張り『護り屋』崩れの女達――と銃撃戦をしでかしてから、その銃撃戦その物の情報を収集する同業者が群がって、情報屋のネットワークには市会議員の裏での活動が派手に売買された。
市会議員を懇意にしていたフィクサーや、運命共同体だと思っていた暴力団は揃って市会議員を見限り、市会議員との黒い噂を証拠付ける情報を自分達から開示して怒り心頭を表現していた。
手を切り、切ったと見せかけて手を結び、その実、利用していた市会議員の、地に足の付かない手法はあらゆる方面から非難囂々で、裏の世界の顔役としての地位を完全に失った。
たった一度の銃撃戦で、子飼いを失っただけで、市会議員は信用を失った。
叩けば埃が出る。
その叩く場所が銃撃戦という非日常な状況だった。
火の無い所に煙は立たない。
小さな疑惑は1ヶ月程度で火消しが不可能なほどに拡大し、関係各所に司直の手が入る結果を招く。
市会議員本人を叩かなくとも、遠い末端から綻びが出る典型的ミスだった。
市会議員は邪魔者は消せと云う古典的な思考ではなく、金で解決できる問題は金で解決すべきだった。
美殊という、少しばかり執拗な情報収集要員に付け狙われただけでボロを出してしまった。……否、糸の解れを引っ張られてしまった。
セーターの端の毛糸を引っ張ると、セーターがどんどん解けていくように……。
市会議員が美殊に対して行った抹殺命令は最適解の一つには違いないが、その後展開に関して言えば悪手の一つだった。
その証拠に、廃材置き場での銃撃戦に於ける最も有力な情報を、集めるだけ集めて本来の情報収集要員として、情報を売買した美殊は過去に無いほどに貯金の残高が潤っていた。
銃撃戦に於ける人員、時間や場所天候などの状況、使われた火器とその出所、死傷者のプロフィール、どちらがどの様に勝ったのか、負けたのかという戦術、その鉄火場へどの路を通って入ったのか、出たのか。……どれもが金になる。
空薬莢の刻印から、未知の武器密輸ルートが判明したのだからこれは嬉しいボーナスだった。
ユキを自宅に呼んで他愛も無い雑談に耽る。
熱いコーヒー。
ユキの笑顔。変わらない風景。
羽振り良くユキを何ヶ月もレンタルできる金が有るが敢えてしない。今までのペースを守る。
大金をせしめるのは簡単だがその運用が難しい。
世間は他人の金の動きに敏感だ。
美殊はずっと心に小さな蟠りとして残っていた疑問を、いつもユキに問う事が出来ないで居た。
それが、不意に暗くなったユキの表情で一変する。
彼女は大袈裟に天を仰いで残念なジェスチャーをした。
「ねえ、聞いてよ」
「? どうしたの?」
「半年くらい前の話なんだけど……いいパトロンが出来たのよー」
「それはそれは。ケチな女で悪かったわね」
「そんな事言わずご贔屓にー。でね、そのパトロンってのが変わってて、3人でしか燃えないタイプだったの。だから料金も倍。疲れも倍だけど毎週仕事用の口座にお金を振り込んでくれるの。いいカモ見付けたって喜んでいたら最近、ぱったり、呼んでくれなくて……美殊も呼んでくれない時期が有ったでしょ? だからさあ、稼ぎはしょぼいし寂しいし……」
「客は私とその2人だけじゃないんでしょ?」
「そりゃそうだけど……体も相性もぴったりなお客の方がモチベが上がるじゃん? 営業用の顔ばっかり浮かべているから顔がおかしくなりそう…………その2人。どこか美殊と似ていたなあ。顔とかじゃなくて雰囲気が。こう、何と無く、イメージ的なのが」
そこまで喋ってユキはコーヒーを口に運ぶ。
暫しの沈黙。
ダイニングのテーブルで2人の間に、やや噛み合わない空気が流れる。
話を聞きたい美殊。
話してはいけないユキ。
商売上、他人の個人情報を漏らしてはいけないユキがべらべらと入り込んだ愚痴を流す。
それも他の客の愚痴を、金蔓としか見ていなかった自分の浅ましさを披露している恥ずかしさに途中で気が付いたのだ。
美殊は金と自分に正直な人間は嫌いじゃない。金で買えないモノに碌な物は無い。
可愛い顔の下でどこか人を喰ったユキの本性が嫌いになれない。
好きだと声に出して言えない。ユキに対するスタンスを明らかに表明していない自分も、他人の心を分析するほどの立場ではない、と少し気恥ずかしくなる。
それが噛み合わない空気の正体。
互いに小さな謎を感じ取った。
疑惑ではない。魅力的な謎だ。
あの2人との馴れ初めは詳しく聞けなかったが、ユキはただのユキで、表の世界の綺麗な世界のまともな世界の風俗嬢のままだと解った。
それはわだかまりを溶かすのに充分な情報だった。
この情報に値段は付けられない。
自分1人だけに有効な情報なのだから。
コーヒーが美味しい。
専門店で一番安い豆を挽いてもらっただけのコーヒー。
この味の半分以上はユキと飲んでいるからだと思う。
女独りの寂しい生活にユキと云う彩がある。今はそれだけで良い。
刹那的だと解っていても今はそれで充分だ。
破局の時が訪れるよりも早く破滅の時が訪れるだろう。
それは美殊の情報収集要員としての失敗を意味する。
そんな先の事はいい。
今はコーヒーの美味しさに感謝。
ユキとの素朴な時間を味わう事が出来たら問題無しだ。
裏の世界で通用する情報収集要員という、隠し通せない秘密を胸に秘めていてもそれは大きな問題ではない。
『誰にでも秘密は有るものだ』
美殊がユキの素性を詳しく知らないように。
知ろうとしないように。
知ろうと努力しないように。
『誰にでも秘密は有るものだ』
《そして紫煙は香る・了》
右上腕部をベルトで止血している。
寒気か痛みか、震える彼女に戦闘力は皆無だった。
その彼女が艶消しの肌をした4インチ銃身の357マグナムリボルバーを片手で構えて立っている。
目に篭った殺意だけは殺されていない。
「……」
「……」
言うだけ無駄。
投降勧告は無駄。
銃口の定まらない重々しい輪胴式。撃鉄が起きている。この距離まで近付いても尚撃たなかったということは、命中させるだけの腕前が発揮できないからだ。
彼我の距離10m。
万全の彼女なら背後から、美殊を仕留めるのは容易だったろう。プロ意識を見せられた感嘆に値する場面だが、美殊に対してそれは無謀だった。
糸が切れたのか緊張が急激に解れたのか、彼女は撃鉄を親指で押さえて静かに引き金を引いた。
親指で『殺された』撃鉄はゆっくりと元の位置に戻る。
そして彼女の右手はダラリと下がり、とうとう、その掌からコルト・ピースキーパーが滑り落ちた。
唇が青い。
殺意を湛えた目は相変わらずだが、どこか霞が掛かったように暗い。仕舞いには肩を落として膝からその場に沈んだ。
こうべを項垂れる。
両手は力無く下がり、戦意の喪失を物語っていた。
深く俯いた顔ゆえに、表情から殺意の有無を悟るのは不可能だった。
彼女に興味を失ったかのように美殊は銜えっぱなしだったバスコダガマ・オロに軸長マッチで火を点けた。
深く一服。
モーゼル・パラベラムは腹のベルトに差したまま待機。
美殊は全ての敵を掃討したと判断し、踵を返した。
その刹那。
項垂れたままの女の左袖から、超小型中折れ式リボルバー……オズグッド・リボルバーがスリーブガン・ホルダーに迫り出されて、美殊の背中に狙いを定めようと銃口が素早く振られる。
銃声。
オズグッド・リボルバーの22口径ショートを掻き消すような大きな銃声。
モーゼル・パラベラムの9mmパラベラム弾の銃声だ。
オズグッド・リボルバーの銃口からは硝煙が昇っていた。
モーゼル・パラベラムも硝煙を纏っていた。
「…………」
「…………」
睨み合う2人。
「そんな考えだと思ったの」
美殊は言う。
「そんな事だと思ったの」
女は言う。
美殊はトグルジョイントが迫り上がったまま、全弾撃ち尽くした事を報せるモーゼル・パラベラムを握り、ゆっくり倒れる女を見ていた。
女の胸から溢れる血液がじわりと広がり、コンクリの地面を塗らしていく。
今夜のバスコダガマ・オロはやけに苦い味だった。
※ ※ ※
先日の深夜に廃材置き場で派手に銃撃戦を展開して事の推移を見守った。
市会議員サイドに動きが出た。
子飼いの殺し屋――矢張り『護り屋』崩れの女達――と銃撃戦をしでかしてから、その銃撃戦その物の情報を収集する同業者が群がって、情報屋のネットワークには市会議員の裏での活動が派手に売買された。
市会議員を懇意にしていたフィクサーや、運命共同体だと思っていた暴力団は揃って市会議員を見限り、市会議員との黒い噂を証拠付ける情報を自分達から開示して怒り心頭を表現していた。
手を切り、切ったと見せかけて手を結び、その実、利用していた市会議員の、地に足の付かない手法はあらゆる方面から非難囂々で、裏の世界の顔役としての地位を完全に失った。
たった一度の銃撃戦で、子飼いを失っただけで、市会議員は信用を失った。
叩けば埃が出る。
その叩く場所が銃撃戦という非日常な状況だった。
火の無い所に煙は立たない。
小さな疑惑は1ヶ月程度で火消しが不可能なほどに拡大し、関係各所に司直の手が入る結果を招く。
市会議員本人を叩かなくとも、遠い末端から綻びが出る典型的ミスだった。
市会議員は邪魔者は消せと云う古典的な思考ではなく、金で解決できる問題は金で解決すべきだった。
美殊という、少しばかり執拗な情報収集要員に付け狙われただけでボロを出してしまった。……否、糸の解れを引っ張られてしまった。
セーターの端の毛糸を引っ張ると、セーターがどんどん解けていくように……。
市会議員が美殊に対して行った抹殺命令は最適解の一つには違いないが、その後展開に関して言えば悪手の一つだった。
その証拠に、廃材置き場での銃撃戦に於ける最も有力な情報を、集めるだけ集めて本来の情報収集要員として、情報を売買した美殊は過去に無いほどに貯金の残高が潤っていた。
銃撃戦に於ける人員、時間や場所天候などの状況、使われた火器とその出所、死傷者のプロフィール、どちらがどの様に勝ったのか、負けたのかという戦術、その鉄火場へどの路を通って入ったのか、出たのか。……どれもが金になる。
空薬莢の刻印から、未知の武器密輸ルートが判明したのだからこれは嬉しいボーナスだった。
ユキを自宅に呼んで他愛も無い雑談に耽る。
熱いコーヒー。
ユキの笑顔。変わらない風景。
羽振り良くユキを何ヶ月もレンタルできる金が有るが敢えてしない。今までのペースを守る。
大金をせしめるのは簡単だがその運用が難しい。
世間は他人の金の動きに敏感だ。
美殊はずっと心に小さな蟠りとして残っていた疑問を、いつもユキに問う事が出来ないで居た。
それが、不意に暗くなったユキの表情で一変する。
彼女は大袈裟に天を仰いで残念なジェスチャーをした。
「ねえ、聞いてよ」
「? どうしたの?」
「半年くらい前の話なんだけど……いいパトロンが出来たのよー」
「それはそれは。ケチな女で悪かったわね」
「そんな事言わずご贔屓にー。でね、そのパトロンってのが変わってて、3人でしか燃えないタイプだったの。だから料金も倍。疲れも倍だけど毎週仕事用の口座にお金を振り込んでくれるの。いいカモ見付けたって喜んでいたら最近、ぱったり、呼んでくれなくて……美殊も呼んでくれない時期が有ったでしょ? だからさあ、稼ぎはしょぼいし寂しいし……」
「客は私とその2人だけじゃないんでしょ?」
「そりゃそうだけど……体も相性もぴったりなお客の方がモチベが上がるじゃん? 営業用の顔ばっかり浮かべているから顔がおかしくなりそう…………その2人。どこか美殊と似ていたなあ。顔とかじゃなくて雰囲気が。こう、何と無く、イメージ的なのが」
そこまで喋ってユキはコーヒーを口に運ぶ。
暫しの沈黙。
ダイニングのテーブルで2人の間に、やや噛み合わない空気が流れる。
話を聞きたい美殊。
話してはいけないユキ。
商売上、他人の個人情報を漏らしてはいけないユキがべらべらと入り込んだ愚痴を流す。
それも他の客の愚痴を、金蔓としか見ていなかった自分の浅ましさを披露している恥ずかしさに途中で気が付いたのだ。
美殊は金と自分に正直な人間は嫌いじゃない。金で買えないモノに碌な物は無い。
可愛い顔の下でどこか人を喰ったユキの本性が嫌いになれない。
好きだと声に出して言えない。ユキに対するスタンスを明らかに表明していない自分も、他人の心を分析するほどの立場ではない、と少し気恥ずかしくなる。
それが噛み合わない空気の正体。
互いに小さな謎を感じ取った。
疑惑ではない。魅力的な謎だ。
あの2人との馴れ初めは詳しく聞けなかったが、ユキはただのユキで、表の世界の綺麗な世界のまともな世界の風俗嬢のままだと解った。
それはわだかまりを溶かすのに充分な情報だった。
この情報に値段は付けられない。
自分1人だけに有効な情報なのだから。
コーヒーが美味しい。
専門店で一番安い豆を挽いてもらっただけのコーヒー。
この味の半分以上はユキと飲んでいるからだと思う。
女独りの寂しい生活にユキと云う彩がある。今はそれだけで良い。
刹那的だと解っていても今はそれで充分だ。
破局の時が訪れるよりも早く破滅の時が訪れるだろう。
それは美殊の情報収集要員としての失敗を意味する。
そんな先の事はいい。
今はコーヒーの美味しさに感謝。
ユキとの素朴な時間を味わう事が出来たら問題無しだ。
裏の世界で通用する情報収集要員という、隠し通せない秘密を胸に秘めていてもそれは大きな問題ではない。
『誰にでも秘密は有るものだ』
美殊がユキの素性を詳しく知らないように。
知ろうとしないように。
知ろうと努力しないように。
『誰にでも秘密は有るものだ』
《そして紫煙は香る・了》
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