そして紫煙は香る

 山荘での発見からユキとは会っていない。
 思うところがあるのではなく、単純に人肌が恋しくなる大きなストレスを抱えていないだけだ。
 そもそも命懸けの鉄火場をくぐる事の方が少ないのだ。
 精神的肉体的ストレスの回復にユキを求めるだけで、それ以外では街で出会っても知らぬ他人の顔をする。……尤も、街で擦れ違った事は無いが。
 自宅の仕事用の部屋に篭って煙突のようにバスコダガマ・オロを吸う。
 ゆったり味わうだけの余裕が無い証拠だ。
 冷めたコーヒーで喉を潤す。
 ノートパソコンを睨むだけの機械に変貌している。
 髪にも衣服にも葉巻の臭いが染み付いてしまい、このままではユキの前に出ることが出来ない。
 ノートパソコンには各業種の情報収集要員が集めてきた『トレンドに成り得るであろうホットワード』が羅列されている。
 美殊の追う、疑惑三昧の市会議員の項目を睨んだままだ。
 そのリンク先を見てみたが、拾える情報が既出ばかりで更新が無い。
「…………」
――――ちょっと、探りを入れてみるか……。
 その考えに到ったのはノートパソコンを開いて5時間も経過した後だった。
 部屋の置時計が狂っていなければ、夕食を食べるのも忘れて画面を睨んでいた事になる。


 小遣い稼ぎで良いからと同行させてもらう。
 情報収集の機材を運ぶ、同業者に同行する。
 今回は同業者と軋轢を生む危険性が低かった。
 狙う標的が違うのだ。
 複数の標的。美殊は市会議員を追い、同業者の男は市会議員の取り巻きの1人を追いたい。
 潜入するルートが同じなので同行させてもらっている。
 率先して彼の荷物持ちを申し出たが、彼の機材もレンタル屋から借りているのか、傷をつけたくない一心から自分で運ぶと譲ってくれなかった。
 隣町。
 後援会の事務所。
 ……の、窓口。
 寂れた商店街の路地への入り口付近で、まるで街角の煙草屋のように店舗に収まっている。
 人気は殆ど無い。
 シャッター街。アーケードの錆が落ちてきそうだ。
 色褪せたアーチ。午後8時。
 後援会の窓口の仕事は、嘆願書請求などの申し出を直接聞く気軽な相談所じみた仕事を主とする。表向きは。
 実際のところは市会議員が子飼いにしている暴力団の事務所だ。
 昨今では暴力団も物件を借りるのに一苦労する。
 そこへ市会議員が袖の下を要求しながら物件を紹介し、仲介した。
 これだけでもスキャンダルとしては成立するが、裏の世界では珍しくないので収入としては見込めない。
 それに件の市会議員は裏の世界で通用するフィクサーとの繋がりが濃厚なので、半分くらいはアンタッチャブルな立場に居た。
 下手に探ると火傷する。
 だからこそスキャンダル以上の情報が欲しい。
 そうなれば、市会議員本人を足場に、その後ろに控えるフィクサーの反対勢力が高値で情報屋から情報を買い、更なる情報を欲して大元の情報収集要員である美殊に注文の声が掛かる。
 この際は一旦、ユキの事は考えない。
 ユキは結局のところ、表の世界の住人だ。
 根本的に美殊とは棲む世界が違う。
 山荘での一件はただの偶然だと思うことにした。
 あの時に覘いたサーモグラフの世界では確かに女性2人と4時間以上も『仕事』をしていた。
 偶然だと考えれば何も怪しいところは無い。
 深夜のシャッター街。
 午後8時にこの近辺に廃車寸前のマツダ・ボンゴで乗りつけて同業者の男性は機材を、後援会事務所窓口が有る店舗の向かいに有る建物の裏口から運び込んで、1人でてきぱきと設営を始める。
 美殊も別口で借りてきたレンタル屋の機材を搬入して設営。定番のサーモグラフ付きスポッティングスコープと指向性マイク。雨も風も気にしなくて良いから本領を発揮してくれるはずだ。
 美殊が狙う標的は今夜、ここに来る。
 会合の帰りに関係暴力団の幹部がこの事務所を訪れる。
 同業者の彼が充分に情報を収集した後に敢えて、鉄火場を発生させて重要な物件を一つ潰す。
 暴力団にとっても市会議員後援会にとっても、司直の手が入るのはそれだけで大きな痛手だ。
 市会議員は表の世界では叩かれるだろうが、裏の世界での就職口では何も困らないから実際のところ大したダメージではない。どうせ、後援会の役員が勝手に暴力団と癒着して、後援会事務所窓口を暴力団の事務所として使用させていたと発言だけして後は知らぬ存ぜぬを通す。
 トカゲの尻尾切りみたいなものだ。
 隣に居る同業者の彼が追うのは、今夜訪れる暴力団幹部。
 彼は出入りを確認したら撤収し、敵対する組織に動向を報せて収入を得る。
 動向が静まって撤収する算段だが、それはいつなのか不明。
 その不明の時間を待つ。
 待つのは慣れている。
 幹部が撤収を始めたら『襲撃』する。
 文字通りに襲撃だ。
 店舗兼住宅。3階建て。1階のフロア……元は花屋だったが改装されて事務所となっている。2階以上は住宅。この住宅部分が『本体』だ。ここを刺激して『逃げ果せさせた幹部』に事のあらましを市会議員に報告させる。
 従って、幹部だけは殺してはいけないが、幹部にこの顛末を見守らせる必要がある。
 寒い。
 足の裏に靴底用使い捨てカイロを貼り付けてある。
 美殊と同業者の彼が陣取るのは車2台分ほど通れる通りを挟んで、向かいの鉛筆ビルの2階。
 その対面の窓からカーテンを引かずに、頭から黒いキャンバスを被って窓枠から頭を覘かせて監視している。マイクもサーモグラフも順調に情報を収集している。
 美殊は指向性マイクからあと10分ほどで幹部が到着するのを知る。同業者の彼は意気込んでカメラとマイクを微調整する。
 2人とも早く煙草が吸いたくて仕方が無い欲望を抑えるのに必死だった。
 10分経過。
 計ったように銀色のベンツが寂れた通りに姿を現す。
 「さあ、これからだ……」と隣の彼は舌なめずりをすると、自分の仕事の世界に埋没した。
 怪しまれないように美殊も仕事をする振りをする。本当の目的はこの事務所にカチコミ紛いの攻撃を仕掛けることだと知ったら、彼は同行を許してはくれなかっただろう。
 彼と同行する最大のメリットは、敵対する同業者を減らすことが出来る点に有る。
 少なくとも、互いを蹴落とし警戒しながら場所の取り合いをする事も無い。
 彼はベンツから降り立つ幹部をカメラで追う。
 美殊は何度も店舗兼住宅内部をサーモグラフで覘いて人数を確認する。
 事前の情報より多少の前後はあったが7人の不寝番が居る。三下が3人。準幹部が2人。誰かの情婦と思しき女の影が2人。
 幹部が建物に入って2階に移動し、今月のシノギについての話とシマの勢力に関する零れ話を雑談を交えながらダラダラと喋る。
 同業者の彼にはそれだけで大きな収穫だったろう。彼の口元が笑みを浮かべっぱなしだ。
 更に1時間経過。
 指向性マイクが今夜の訪問を終える声を拾う。
 ベンツを表に廻すべく、ベンツの中で待機している運転手に携帯電話で連絡を取る声が聞こえる。
「じゃあな。お先に」
 隣でほくほく顔の同業者はさっさと機材を纏め、撤収を始める。
「お疲れ様。『早く逃げてね』」
 挨拶のような軽い口調で放たれた台詞に、同業者の彼は表情が固まる。
 美殊は機材運搬のボストンバッグの中から砲身とストックを切り落としたM79グレネードランチャーを取り出していた。
 彼は、正に脱兎の如く逃走経路に就くべく、潜伏する建物の裏手から小さな罵声を吐きながら出て行った。
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