そして紫煙は香る
ポンチョにしとしとと雨が降り注ぐ。
体温が奪われる。双眼鏡を持つ手が寒さに震える。
背中と腰に貼った使い捨てカイロが無ければ凍死しそうだ。今日の気温は氷点下ではないが、体感気温ではマイナスだ。
午前9時。
山間の山荘地。
大小様々なコテージやロッジが軒を連ねる。
東欧の山間部を意識したリゾート地として市が工費を投入した『箱物』だった。
実際には交通の便が悪く、バス停から離れており、度々土砂崩れが発生するので、安全面からこの山荘で成るリゾート地を利用する客は少ない。
公務員の保養地としても提案されたが、近隣に商業的店舗が皆無で孤立した別荘地帯だと揶揄された。業績的に不振に終わった地域。どこの自治体でも抱えている問題だ。
天候不順。低い気温。軽い血行不良。空腹を伴う眠気。
これで雪でも降ってきたら帰宅する前に凍死する気がした。
朝の4時から張り込んでいる。
もう5時間も座りっぱなし。
尻から寒気が昇ってこないように、新聞紙とウレタンを重ねてビニールで包んだ、即席の使い捨て座布団が無ければ心が折れている。
排泄はビニール袋で済ませる。
エネルギーを摂取して熱量を起こすために、ビーフジャーキーやチーズを齧る。
火や湯気が立つためにマウンテンストーブは持ってこない。
頭上に迷彩柄のシェルタータープが掛けられているが、風で雨が吹き込むために雨を僅かに凌ぐ役目しか果たしていない。
精々、辺りに置いた荷物が目立たなくなる程度だ。
干し肉を齧りながら、命綱に等しい白湯を啜る。
この痺れる様に寒い状況下で、唯一体内から温めてくれる飲み物は魔法瓶に入った白湯のみだ。
前方450m。
目標の2階建ての山荘。
こじんまりした造りで他の物件と比べてシックな色合いで、山小屋を意識したデザインだった。
不動産関係のサイトで軽く調べたが、寝室が6室有り、サウナを備えた浴室も有るという。薪ストーブの煙突から煙が薄っすらと昇る。朝から煙が昇っているが、火力が強くなる気配は無い。
「……?」
山荘に近付く1台の大型ワゴン。
どこにでもある、若者受けしそうな頭の悪い黒のワゴンだ。
新しい変化が起きたと心が逸る。
この山荘にはお忍びで、汚職の疑いが掛けられている市議会議員が療養の名目で『引き篭もっている』。その汚職関連に金の臭いを感じたので情報のネタとして売り込めないかと張り込んでいるのだ。
双眼鏡を黒いワゴンに振る。
じっと集中する。
ワゴンから降車したのは……。
「!」
自分の目が信じられなかった。
確率や可能性の問題ならばそれも存在していただろう。だが、その事実を受け入れるには時間が短すぎた。
「ユキ……」
震える唇から彼女の名前が零れ落ちる。
ワゴンから降車したユキ。仕事用のファッション。
確かに彼女はレズ風俗とはいえ、デリバリーを主な仕事とする女性だ。
山奥に招待されたからといって何の不思議も無い。
客の指名があれば、タクシー代さえ都合してくれれば、どこへでも行く。
その彼女が約450m先のワゴン車から降りたのだ。
今直ぐに腰を上げてユキに駆け寄りたい。
ここはユキが来る場所じゃない! そう叫びたい。
彼女の腕を掴んで引き剥がしたい。
彼女が何の関係も無く、ただ、仕事としてこの場に呼ばれた事を祈るのみ。
ワゴン車から3人の男が降りる。一人は運転手。全員、若い。30代にも満たない顔付きだ。衣服に統一性は無く、ジャンパーやコートなどの防寒着を着ている。
ユキも水色のダウンジャケットにピンクのニット帽という格好だ。
化粧の仕方から視て、この場には仕事で来ている可能性が高いと思いたい。
よくよく考えれば、恋愛料が絡まないユキの姿を見た事が無い。
ワゴン車から降りたユキを連れた一行は、監視している山荘に入っていく。
焦る心。逸る心。焦燥に焼かれる心。
今こそ情報収集要員としての本領を発揮する時だと自分に言い聞かせて目を細める。
彼女が心配なら彼女の情報を集めればいい。
今ここで彼女が何をするのか、何をしでかすのか、何のつもりなのかを調べてデータ化して、心に牢記すればいい。
美殊の心が冷たくなっていく。
唇を引き絞って早い心臓を宥める。
彼女が唯の仕事ならそれでいいじゃないか。
彼女が何者であるかは、自分独りだけが知っていればいいじゃないか。
全ての情報を開示して売買の対称にする必要は無い。
この情報は美殊自身にしか価値が無いのだ。
双眼鏡で山荘を舐めるように見る。
正面玄関からユキが入って行った後、その姿を捉える事が出来ない。舌打ちするには早い。サーモグラフを搭載したスポッターに持ち換える。
暗くなっても監視できるように、障害が多くても問題ないように、あらかじめレンタル屋から借りてきた機材だ。
同時に指向性マイクも起動させる。雨が掛からないようにいずれの機材もビニールで守られている。
サーモグラフの世界では、人間の形をした熱源が室内を歩いているのが監視できる。
指向性マイクは感度と方向を絞ってみたが雨の音が邪魔で足音くらいしか拾えなかった。
今日は雨だから使うのを中止していた指向性マイクだ。最初から大した期待はしていない。
熱源のみを頼りにサーモグラフが、内蔵されたスポッティングスコープを調整する。感度を上げすぎてもヒーター類が邪魔をするので調整が難しい。
「…………」
意識に無かった。
無意識。
気が付けば、口にバスコダガマ・オロを銜えていた。
更に手間が掛かる軸長マッチでフット炙り、深く一服していた。
今まで慎重に姿を眩まして監視していたというのに、これでは台無しだ。
連中の動きに不審な点が見られないのが幸いだった。
難儀な話しに、バスコダガマ・オロを銜えて半分ほど吸ったところで『自分は今、葉巻を吸っている』ということを認識したのだ。
魔法瓶の白湯で口の中を洗う。
熱い白湯が胃腸を温める。背中と腰の使い捨てカイロと併せて温かみが倍増した気がした。
こんな事ならもう少し料金を叩いて、レンタル屋からドローンを借りてくるべきだった。
ドローンは人気商品で殆どの場合、品切れだ。使用するのに予約が必要だ。……ハイテク産業に尻を叩かれる思いを味わう。
畢竟、この日に収穫は無かった。
サーモグラフが映し出した世界では、ユキと思しき女性の姿以外にユキと同じ身長の女性と思われる女性の姿を2人分確認した。
その2人とユキはまぐわった。
それ以外の部屋では男と思われる姿が6人ほど確認できた。
窓ガラス越しに覘く世界とは違った監視方法。
違和感が大きい。……有用な情報が得られなかった。
今日、ユキがこの山荘で何を話していたのか、今度会った時に訊いてみようとはチラリとも思わなかった。
それはルール違反というよりモラルの問題だった。
風俗産業に従事する人間に、顧客の情報を横流しにしろと言うのと同じだからだ。
モヤモヤとする1週間。
あの山荘で4日間張り込んだ。
ユキは当日、無事に山荘から出てワゴン車に乗り、下山するルートに就いた。
本来の標的である疑惑の市会議員の情報は幾つか拾えたが、情報屋に売りつけるにはパンチ不足だ。
もっと有益な情報が欲しい。
市会議員が大物の仕切り屋……所謂、フィクサーと呼ばれる人間と繋がりがある噂を決定付ける証拠が手に入れば値段をつけて販売するのに。
体温が奪われる。双眼鏡を持つ手が寒さに震える。
背中と腰に貼った使い捨てカイロが無ければ凍死しそうだ。今日の気温は氷点下ではないが、体感気温ではマイナスだ。
午前9時。
山間の山荘地。
大小様々なコテージやロッジが軒を連ねる。
東欧の山間部を意識したリゾート地として市が工費を投入した『箱物』だった。
実際には交通の便が悪く、バス停から離れており、度々土砂崩れが発生するので、安全面からこの山荘で成るリゾート地を利用する客は少ない。
公務員の保養地としても提案されたが、近隣に商業的店舗が皆無で孤立した別荘地帯だと揶揄された。業績的に不振に終わった地域。どこの自治体でも抱えている問題だ。
天候不順。低い気温。軽い血行不良。空腹を伴う眠気。
これで雪でも降ってきたら帰宅する前に凍死する気がした。
朝の4時から張り込んでいる。
もう5時間も座りっぱなし。
尻から寒気が昇ってこないように、新聞紙とウレタンを重ねてビニールで包んだ、即席の使い捨て座布団が無ければ心が折れている。
排泄はビニール袋で済ませる。
エネルギーを摂取して熱量を起こすために、ビーフジャーキーやチーズを齧る。
火や湯気が立つためにマウンテンストーブは持ってこない。
頭上に迷彩柄のシェルタータープが掛けられているが、風で雨が吹き込むために雨を僅かに凌ぐ役目しか果たしていない。
精々、辺りに置いた荷物が目立たなくなる程度だ。
干し肉を齧りながら、命綱に等しい白湯を啜る。
この痺れる様に寒い状況下で、唯一体内から温めてくれる飲み物は魔法瓶に入った白湯のみだ。
前方450m。
目標の2階建ての山荘。
こじんまりした造りで他の物件と比べてシックな色合いで、山小屋を意識したデザインだった。
不動産関係のサイトで軽く調べたが、寝室が6室有り、サウナを備えた浴室も有るという。薪ストーブの煙突から煙が薄っすらと昇る。朝から煙が昇っているが、火力が強くなる気配は無い。
「……?」
山荘に近付く1台の大型ワゴン。
どこにでもある、若者受けしそうな頭の悪い黒のワゴンだ。
新しい変化が起きたと心が逸る。
この山荘にはお忍びで、汚職の疑いが掛けられている市議会議員が療養の名目で『引き篭もっている』。その汚職関連に金の臭いを感じたので情報のネタとして売り込めないかと張り込んでいるのだ。
双眼鏡を黒いワゴンに振る。
じっと集中する。
ワゴンから降車したのは……。
「!」
自分の目が信じられなかった。
確率や可能性の問題ならばそれも存在していただろう。だが、その事実を受け入れるには時間が短すぎた。
「ユキ……」
震える唇から彼女の名前が零れ落ちる。
ワゴンから降車したユキ。仕事用のファッション。
確かに彼女はレズ風俗とはいえ、デリバリーを主な仕事とする女性だ。
山奥に招待されたからといって何の不思議も無い。
客の指名があれば、タクシー代さえ都合してくれれば、どこへでも行く。
その彼女が約450m先のワゴン車から降りたのだ。
今直ぐに腰を上げてユキに駆け寄りたい。
ここはユキが来る場所じゃない! そう叫びたい。
彼女の腕を掴んで引き剥がしたい。
彼女が何の関係も無く、ただ、仕事としてこの場に呼ばれた事を祈るのみ。
ワゴン車から3人の男が降りる。一人は運転手。全員、若い。30代にも満たない顔付きだ。衣服に統一性は無く、ジャンパーやコートなどの防寒着を着ている。
ユキも水色のダウンジャケットにピンクのニット帽という格好だ。
化粧の仕方から視て、この場には仕事で来ている可能性が高いと思いたい。
よくよく考えれば、恋愛料が絡まないユキの姿を見た事が無い。
ワゴン車から降りたユキを連れた一行は、監視している山荘に入っていく。
焦る心。逸る心。焦燥に焼かれる心。
今こそ情報収集要員としての本領を発揮する時だと自分に言い聞かせて目を細める。
彼女が心配なら彼女の情報を集めればいい。
今ここで彼女が何をするのか、何をしでかすのか、何のつもりなのかを調べてデータ化して、心に牢記すればいい。
美殊の心が冷たくなっていく。
唇を引き絞って早い心臓を宥める。
彼女が唯の仕事ならそれでいいじゃないか。
彼女が何者であるかは、自分独りだけが知っていればいいじゃないか。
全ての情報を開示して売買の対称にする必要は無い。
この情報は美殊自身にしか価値が無いのだ。
双眼鏡で山荘を舐めるように見る。
正面玄関からユキが入って行った後、その姿を捉える事が出来ない。舌打ちするには早い。サーモグラフを搭載したスポッターに持ち換える。
暗くなっても監視できるように、障害が多くても問題ないように、あらかじめレンタル屋から借りてきた機材だ。
同時に指向性マイクも起動させる。雨が掛からないようにいずれの機材もビニールで守られている。
サーモグラフの世界では、人間の形をした熱源が室内を歩いているのが監視できる。
指向性マイクは感度と方向を絞ってみたが雨の音が邪魔で足音くらいしか拾えなかった。
今日は雨だから使うのを中止していた指向性マイクだ。最初から大した期待はしていない。
熱源のみを頼りにサーモグラフが、内蔵されたスポッティングスコープを調整する。感度を上げすぎてもヒーター類が邪魔をするので調整が難しい。
「…………」
意識に無かった。
無意識。
気が付けば、口にバスコダガマ・オロを銜えていた。
更に手間が掛かる軸長マッチでフット炙り、深く一服していた。
今まで慎重に姿を眩まして監視していたというのに、これでは台無しだ。
連中の動きに不審な点が見られないのが幸いだった。
難儀な話しに、バスコダガマ・オロを銜えて半分ほど吸ったところで『自分は今、葉巻を吸っている』ということを認識したのだ。
魔法瓶の白湯で口の中を洗う。
熱い白湯が胃腸を温める。背中と腰の使い捨てカイロと併せて温かみが倍増した気がした。
こんな事ならもう少し料金を叩いて、レンタル屋からドローンを借りてくるべきだった。
ドローンは人気商品で殆どの場合、品切れだ。使用するのに予約が必要だ。……ハイテク産業に尻を叩かれる思いを味わう。
畢竟、この日に収穫は無かった。
サーモグラフが映し出した世界では、ユキと思しき女性の姿以外にユキと同じ身長の女性と思われる女性の姿を2人分確認した。
その2人とユキはまぐわった。
それ以外の部屋では男と思われる姿が6人ほど確認できた。
窓ガラス越しに覘く世界とは違った監視方法。
違和感が大きい。……有用な情報が得られなかった。
今日、ユキがこの山荘で何を話していたのか、今度会った時に訊いてみようとはチラリとも思わなかった。
それはルール違反というよりモラルの問題だった。
風俗産業に従事する人間に、顧客の情報を横流しにしろと言うのと同じだからだ。
モヤモヤとする1週間。
あの山荘で4日間張り込んだ。
ユキは当日、無事に山荘から出てワゴン車に乗り、下山するルートに就いた。
本来の標的である疑惑の市会議員の情報は幾つか拾えたが、情報屋に売りつけるにはパンチ不足だ。
もっと有益な情報が欲しい。
市会議員が大物の仕切り屋……所謂、フィクサーと呼ばれる人間と繋がりがある噂を決定付ける証拠が手に入れば値段をつけて販売するのに。