咲かない華

 パルタガス・セリークラブの灰や吸い差しはベランダに置いてある掌サイズのブリキで出来た灰皿に捨てる。
 吸い終わると必ずマウスウォッシュで口中を洗浄する。
 屋内では、こうでもしないと良乃が機嫌を損ねるのだ。
 先日の夜。復帰記念の仕事を終えた後、ハイツに戻る前にセーフハウスで体を石鹸で入念に洗った。
 特に指先。硝煙の香りは素人には想像以上に異質に感じる。
 良乃が硝煙を知らなくとも異臭として認識するのを防ぐ為だ。
 閉め切ったセーフハウスで態とパルタガス・セリークラブを吸って、衣服にキューバンシガリロの独特の芳香を染み込ませた。
 念入りに硝煙の香りを消す為も有るが、それ以上に石鹸の匂いを誤魔化すためだ。
 女が明け方に石鹸の香りをさせて帰宅するとなれば、普通は男との浮いた噂を想像するだろう。
 『温子はわざと、その勘違いを良乃に抱かせたい』のだ。
 これから増えるであろう深夜の汚い仕事。
 それを韜晦するために温子は、良乃が未だ見ぬ男と長い時間を過ごしているのだと勘違いした方が言い訳も通り易い。
 そうなれば、人情として深入りするのを遠慮してしまう。
 口に出さずに、仕草や雰囲気だけで自分を包み隠す……昔の自分を取り戻しつつあると寒気を覚えてしまう温子。
 嘘を嘘で固める。
 必ず最後は破滅が待っている。
 今までに何度もそれで道を誤った例を見た。
 だからと言って馬鹿正直になる人間はもっと早くに『消えてしまう』。
 遅かれ早かれ破滅しか待っていない世界で生きていたのだ。
 それも含めて嫌気が差してアシを洗ったのに、舞い戻る事を選ばされてしまう。
 矢張り……あの世界から完全に遁走するのは不可能だった。
 嘘の安心を与える為に水山がいつも使っているレンタルオフィスに専用回線を1本引いてもらった。
 その電話回線には良乃の発信しかかかってこない。
 新しく温子が働き始めたという設定の店の電話番号がその回線だ。
 そこに電話が掛けられる事が有れば、それは良乃だけだし、応対に出る水山が傘下に手配させた、深夜バイトの青年がビジネス用の声で応対する。
 勿論、「ただいま湯浅温子は席を外しております」という文言で電話を切り、折り返しの電話をする事は無い。
 良乃から電話が有った旨はメールで報される。そして良乃に白々しい嘘を吐く。
 これだけ嘘を嘘で固めても、必ず崩壊する事を知っているだけに終末が恐ろしい。
 日常で普通の笑顔を浮かべられなくなったのが寂寞の限りだ。
 悪知恵が廻れば廻るほど、笑顔に翳が差すような感覚。
 良乃に悟られてはいけないと演技をすれば、その笑顔や素振りは作り物で中身が伴わない虚しい物として拍車が掛かる。
 何の為に嘘を吐く? 今の生活を守るためか? 良乃の身柄を守るためか? 自分の過去を暴露させないためか? それ全てか? あるいはもっと違う場所に有る本質かもしれない何かのためか? ……自分の表情が動脈硬化を起こしたようにじわじわと死んでいく。
 そして必ず死に到る。
 それも、ある日突然。思わぬ時に思わぬ形で。
 あの世界からアシを洗っても独りだったら死んでいた。
 なのに、今では独りでなければ苦しくて死にそうだ。
 自分という人間の勝手な思考に嫌気が差す。
 良乃を守るためという大義名分。
 昔はどんな小さな大義名分でも死ぬ気で戦えた。
 死ぬ気で戦って死んだ奴らと一緒に戦っていた。
 ただの鉄砲玉稼業。
 その世界では名前の通った遣い手になるまでに成長した。今でも情報屋界隈の端末の中では、温子の情報はそれなりの値段で売買されている。
 水山はその情報を元に温子を割り出したのだろう。
 足跡も匂いも消し去った。痕腐れなく、廃業の張り紙を出して、なけなしの金で高額な情報屋を雇い、その旨を報せる『本物の廃業の報せ』とリストからの抹消を図った。
 デジタルタトゥーが常識のネットの世界で、完全に消えうせるのは不可能だった。
 それでも足取りを有耶無耶にする事は可能だった。
 逃走を専門に請け負う『逃がし屋』を利用して、国内を放浪した。
 足跡を曖昧にさせるために国外へ逃げた事もあった。
 ハジキで撃った、撃たれたという生活に馴染んだ体は、寸鉄帯びずに突っ立っているだけで恐怖に震えて足がすくんで動けなくなった事も有る。
 そんな恐怖や苦しみや反射行動を克服するのに数年の時間を要した。
 溶鉱炉に2挺のコルト・パイソンを放り込んだ夢は今でも見る。
 2挺のコルト・パイソンが悲鳴を挙げて泣き叫んでいる。
 助けを請うて喚き散らしている。
 悲痛な思い。
 そして夢から逃げて飛び起きると、傍には良乃が何も知らずにスヤスヤと寝息を立てている……若しかしたら、この安堵感を守るために嘘を吐くという卑怯な武器を手に取ったのかもしれない。
    ※ ※ ※
 『出勤』の体でハイツを出る。
 毎回、鉄砲玉を請け負っているのではない。
 本当にキャバ嬢として働いて『アリバイ』を作る事も有る。
 ただ、今夜は『アリバイ』を作る為の『出勤』じゃなかった。
 いつもの都合のいい鉄砲玉の案件だった。
 組事務所の襲撃。いつも通りだ。
 今回は他にも3人の鉄砲玉が居る事が大きな違いだった。
 1人では時間が掛かると踏んだ依頼人が4人の戦力を注文したのだ。 内容はカチコミ。それに違いは無い。
 出来るだけの被害。これにも違いは無い。
 問題は、命を預けるに足る人選であるか否かを決めさせてくれなかった事だ。
 そろそろ、復帰して幾らか勘を取り戻してきた。
 無茶なアドリブをここらで試してみようという、水山の意地の悪さが垣間見れた。
 どのような条件でのカチコミも確実にやり遂げる日雇いの鉄砲玉。
 それが嘗ての温子だった。
 どんな鉄壁の組事務所にも殴り込みを掛けて、依頼人が満足する暴力を撒き散らして生きて帰ってくる鉄砲玉。
 飛び出し、そのまま生きて還らない事が言葉の由来のはずの鉄砲玉なのに、彼女は確実に生きて還ってきた。
 自宅からタクシーを乗り継ぎ、隣街の繁華街中央に徒歩で入り込み、路地裏を伝いながら繁華街を抜けて寂れた路地で待機している、幌付きのトラックに乗り込む。
 このトラックに乗り込む時に手を伸ばす男はいつも同じ男だった。
 名前は知らない。熊髭にボサボサの髪。太り気味の締まりの無い体躯。
 腕力だけは自身が有るのか、いつも片腕で温子を釣り上げる。
 平凡な顔。温子はその男に対してどちらかというと好意的な印象を持っていた。
 どんな仕事でも、自分の職掌にプロに徹する姿勢が大好きだった。カーテンの向こうで着替えているときも妙な動きは見せない。寧ろ、安心して着替えが出来るように男は銜えている煙草が短くなっても床に吐き捨てる気配すら感じさせない。
 石の置物のように荷台の隅っこに座り込んで、腕を組んで瞑目している。
 カーテンを開ける。着替えは終了。
 懐に2挺のコルト・パイソンを呑み込んだ。
 いつも通りに実包にも抜かりは無い。
 指定したメーカーの指定した弾頭。
 微調整が利くアジャスタブルサイトは毎回の仕事で得た勘と経験から、前回、現場に持ち込んだ工具で調整して鉄火場の最中で完了させた。
 命懸けのサイティングだった。
 気になる。3人の腕前が未知数だ。
 名前を聞いても心当たりが無い。
 寧ろ、心当たりが有ると過去を詮索されかねないので、それはそれで面倒だ。
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