咲かない華

 勿論の事、良乃には内緒で暫くはバイトでキャバ嬢を営むのは休みだ。
 それどころか良乃に昔の自分が復帰したなどという……それどころか良乃に過去をバラす訳には行かない。
 何も知らない方が幸せだ。
 良乃とはプッツリと別れて違う街を拠点として活動する事も考えた。だが、何れも無駄だろう。
 良乃が完全な弱点であるという事実を掴まれた今、良乃とどんなに距離を保っていても意味は無い。
 もしかすると、水山は最初から温子を手放す意図は無く、温子を黙って見送る意図は無く、もっと扱い易いように温子が『温かい家庭』という弱点を築くのを待っていたのかもしれない。
 温子はそれに違わぬだけの仕事をした。
 それをこなせるだけの腕前を持っていた。
「セーフハウスにこの銃を運んでおいて。連絡用の携帯電話に弾薬、保存食に外科用救急パック。ベッドと冷蔵庫だけは必ず備えて」
 温子は2本目のパルタガス・セリークラブに火を点けながら静かに言う。
 動揺を悟られまいと気丈に振舞う。
 余裕を見せるために態とパルタガス・セリークラブを銜えたのだが、その先端が小さく震えている。
 平和な日常との決別に踏ん切りが付いていない証拠だ。
 表向きは水山の条件を飲み、こちらの条件を飲ませて、対等の関係で昔の縁を復活させただけだと自分に言い聞かせる。
 今まで以上に下手な怪我は負えない。
 水商売の女が接客中に銃撃戦をするなどという光景は日常ではない。
 仕方が無かった。その条件を呑むしかなかった。
 もう、あの世界とは縁が切れたと思い込んでいた温子の失策だった。
 表の世界でも世捨て人のように、植物のように静かに日陰で朽ち果てるべきだった。
 殺し合いの最中でしか自分を表現できない、殺伐とした世界に飽きたなどと、人並みの感情を抱くのではなかった。
 様々な後悔や自責が押し寄せる。
 自分だけが不利益を蒙るのなら幾らでも善後策は有る。
 それが出来なくなった理由を作ったのは自分なのだから、死んでも死に切れない。
 自分が昔の職場に復帰する事は即ち、良乃を守る事だと忸怩たる思いを噛み締めながら何度も言い聞かせる。
 何度も言い聞かせても、もう1人の自分がメタ認知として現れて、良乃を守る事を言い訳にしていないか? と、囁く。
 今はシガリロを無言で吹かす。
 車窓の外に視線を投じる。
 彼女は敗北に打ちひしがれたいた。
 今の温子は不安に駆られて耳と目が狭窄に陥った状態で少々、情緒不安定だった。
 こんな会話も交わしたのに、温子はその晩、どのようにして帰宅したのか未だに思い出せないのだ。
 そんな彼女を乗せたサーブは、彼女の家の近辺まで送り届けた。
 特に温子が申し出たわけではない。
 近くまで送ろうと水山が言い出した。
 断るか否かを判断する能力が欠如しており、生返事で頷いた。
 今から考えれば、自宅がどこにあるのかも知らせていなかったが、ちゃんと見知った近辺まで送り届けてくれた事に心を引き締めるべきだった。
 それは、ハイツへの路を知り尽くしているという水山のアピールだったからだ。
 逆算すればハイツから、用意させるセーフハウスの道順も覚えられている訳だが、これは仕方が無い。
 それでも……温子は自分がどうやってハイツに帰宅したのか覚えていなかったのだ。
 ある日訪れた日常の崩壊。
 予想はしていた。
 少しばかり意外で少しばかり早かっただけだ。
 そして、少し以上に人質に取られた人間の価値が高かった。
    ※ ※ ※
 良乃には新しい店を見つけたから試しに通ってみると告げた。
 その店では、新人で顔合わせや客の顔を覚えるのに必死だから、少し帰宅するのが遅れるかもと言った。
 良乃は疑わずに『出勤』する温子を見送った。
 これからの時間、普通は眠りに就く。
 その時間に店を見つけたとか、遅くなるとか言っても何の疑問も抱かない良乃。
 いつも新しい店を見つければ同様の台詞を言っていたからだ。
 心が重い。
 心に枷が嵌められたようだ。
 何と言い訳しよう。
 万が一、良乃に真実がばれた時の言い訳ばかりが脳内を廻る。
 それに何の真実を言う? 自分の過去か? 良乃を騙していた事か? 今の自分の状況か? 何からどのように話す? 何も言わずに消える方法も有る。
 良乃の命は保障されない。
 また昔のように人間の命をゴミクズのように処理する、外道な自分に戻るのか? 絶対に離したくない笑顔。それを守るために笑顔が曇る嘘をつく。
 嘘でも真実でも知られると、その笑顔は曇るだろう。
 軽蔑されて鼻で哂われた方がはるかに救われる。
 良乃はそんな女じゃない。
 実直な性格の、嘘を許せない真っ直ぐな性分だ……いつかは訪れる破局。
 その破局がたまたまこのような形式だっただけなのだと、自分を宥めるが、その効果は微小だった。
 新しいキャバクラに『出勤』するという手前、大立ち回りをやらかすには全く不向きな衣装。
 水色のワンピースにハイヒール。
 腕時計に目を向ける。
 女性用の小さなオメガは午後9時半を差していた。
 路を歩く。方向は出鱈目だった。これでいい。
 直ぐに彼女の後方から幌を張ったトラックが徐行で近付いてきた。
 後部のキャンバスが閃いて中から男の毛むくじゃらの手が伸びる。
 その手に飛びついて掴むと、釣り上げられたマグロのように幌で覆われた荷台の中へ吸い込まれた。
「……用意は?」
 誰と無く声を掛ける温子。
 幌の隅に有った簡易的なカーテンを廻らせて、早々と着替えを始める。
 着ている衣服は下着以外、全て脱ぐ。
 幌の内部は暖色のLEDが光量を落として照らされていた。
 互いの顔を見るにはこれで充分だ。
 カーテンの内部で全てを脱ぎ、『全て』を身につける……もう着ないと思っていた仕事の衣装が全部揃っている。
 生地の具合から新品の製品だった。
 水山が手配して揃えさせたレプリカばかりだが、それで機能性が損なわれるものは何一つ無かった。
 灰色の、ハーフコートのように裾が長いサファリジャケット。
 麻で出来た軽く丈夫な生地だ。リネンの黒いシャツ。これも動き易さと丈夫さを優先した選択だ。それにリネンの濁ったクリーム色のスラックス。
 カーテンを開ける。
 幌の中に居た、自分の手を取り、荷台に釣り上げた男からアタッシュケースを受け取る。
 ロックは掛かっていない。
 揺れる荷台の上でアタッシュケースを開けて2挺のコルト・パイソンを手に取る。
 漸く手に取る。
 サイティングは未だ完了していない。
 水山はその機会を許してくれなかった。
 優位性のイニシアティブを全て握られているので、悔しいが従うしかない。
 今夜初めて手に取る、サイティングが完了していない銃に命を懸ける事になるわけだ。
 不安。
 自分で調整したサイトでないのが非常に不安。
 工場から送り届けられた、そのままの状態でも人間の目の好い加減さでは、予め設定されたサイトは役に立たない。
 心の中で舌打ち。
 だが、この時の為に、あの実包を用意させたのだ。
「タマ。アレ、有るでしょ? 持ってきて」
 温子は横柄に言う。
 男は嫌な顔をせずに、それこそが仕事であるとでも言わんばかりに青い樹脂製の工具箱に似た箱を持ってくる。
 目の前で不意に開ける。
「…………」
 またも心の中で舌打ち。
 完璧に揃ってる。
 一つでも揃っていなかったら文句をぶつけてやろうと思っていた作戦が台無しだ。
 スネークショット。
 蛇撃ち用の実包。
 弾頭部分に6個の大粒のチルドが入った散弾だ。
 普通は仁丹くらいの大きさの粒弾がぎっしり詰まっているが、これは野犬や害獣を撃つための実包だった。
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