咲かない華

 温子は言葉を吐き散らすと大きくシガリロを吸い込む。
 みるみるうちに先端が灰燼に帰して、ポロリと車内の床に零れ落ちるが知らぬ顔だ。
 その無粋な灰落としの反撃は想定の範囲内なのか、水山の顔に変化は無い。
 アルコールが入ったので少し頬が上気しているくらいだ。
 勿論、温子は無駄な抵抗に終わると想像している。
 言葉くらいで追い返せる相手ではない。
 良乃が手中に落ちたのは確かだ。今直ぐ誘拐されなくとも水山の命令一つで良乃の片手や片足は狙撃で吹き飛ばされるだろう。
 決して死なない程度に痛めつけられる。
 良乃は重要な交渉材料だ。殺してはダメだ。良乃の安全を確保する条件を引き換えに水山は温子に暗い世界に還ってこいと命令している。
 懇願ではない。
 命令だ。
 水山自身が目の前に現れた時からそれは決まっていた。
 絶対に抗えない。良乃という癒される存在が今では最大の泣き所となって重く温子の肩に圧し掛かる。
 返事を聞くまでも無い。
 返事を言い返すまでも無い。
 元から温子に選択肢は無かった。
 良乃という存在に依存しなければこんな事にならなかったと嘆いても仕方が無い。
 良乃が居なければ生活臭からボロが出て、いずれは辺りの人間に怪しまれて転居を繰り返す生活だっただろう。
 言うなれば穏便な方法で表世界で生きる方法を教えてくれたのが、良乃だ。
 その尊い存在を無かった事や、作らなかった事にするのは、自分自身が許せない。
 良乃を危険に晒している自分の過去以上に許せない。
 あの可愛らしい女性を無碍に扱う全てが許せない。
 ここで駄々を捏ねるのは時間の無駄だと温子は心の中で折れた。
 ポケット型携帯灰皿に吸殻を押し込んでハンドバッグに仕舞う。
 少し間を置く。
 水山は完全に勝利した顔で美酒をスキットルで味わっている。
 最後に温子が言い放てる、最後の抵抗が有るとすればたった一つ。
「仕事道具……私はあれが無いと感覚が狂ってまともに仕事が出来ないの」
 言外に、自分の嘗ての仕事道具を今直ぐ目の前に揃えてみろ、と温子は鼻を鳴らした。
 どうあってもあの仕事道具を揃えるのは無理だ。
 処分されるのをこの目で見た。
 溶鉱炉に放り込んだのは温子自身だ。
 レプリカではダメ。同じロットの量産品でも無い限り……。
「同じロットの量産品でも無い限り仕事を引き受けないのは重々承知だ。『だから探して取り寄せた』」
「!」
 絶句する温子。
 水山の口から信じられない言葉が飛び出た。
「これでも『一応』使える遣い手の得物は下調べを積んで道具をいつでも手配できるようにしてある。この業界には道具が無いと仕事が出来ないと駄々を捏ねる連中も多いのでね……おい」
 水山は助手席に座る男にミラー越しに命令する。
 助手席の男は足元からアタッシェケースを取り出し、体を大きく捻って温子に手渡す。
「!」
 開けなくても解る。
 このバランス感。この重量感。
 思わず手に取りたくなる衝動。
「ロックは掛かっていない。好きにすればいい」
 水山の言葉に浮かされたように、自然と指先がアタッシェケースのロックを外し、おずおずと蓋を開ける。
「…………」
 そこに確かに、確実に、疑いようも無く存在していた。
 嘗て捨てた、嘗ての相棒が『揃っている』。
「……」
 息を呑む温子。
 その温子の横顔を満足そうに、微笑を浮かべながらスキットルを呷る水山。
 コルト・パイソン。
 それが2挺。
 8インチ銃身と2.5インチ銃身。
 青みを帯びたスチールの美しい肌。
 初期モデル。グリップはウォールナット。
 視る者を吸い付ける魔性の輝き。
 扱う者に絶対の安心感を与える絶対の破壊力。
 絶対の暴力。
 ほう、と息をつく。感想が出てこない。
 もう二度と手にする事はおろか、視る事も出来ぬであろうと思われていた逸品がここに有る。
 10年前に自分が使っていたモデルと同じだ。
 ベンチレーテッドリブが特徴的。
 その特徴を視覚的に最大限に引き出すのは銃身下部のバランサー。
 スタイル抜群。プラチナ色のメダリオンが希少なコインのように輝いている。
 薄っすらと油が引かれた跡が見えるシリンダーとサムピース。
 8インチ銃身モデルは何と言っても、その長大な銃身が特徴。
 銃身の長さにモノを言わせて無茶な狙撃を何度も敢行し成功させた。
 2.5インチ銃身モデルは、咄嗟に引き抜くのに有利で何度も命を助けられた。
 鉄砲玉だろうが殺しだろうが、確実に死を提供できる相棒が……その同じロットがここに有る。
 膝の上に置いたアタッシュケースがカタカタと震える。
 寒気がする。
 今直ぐに手に取り、スイングアウトさせて実包を押し込みたい。
 弾薬の箱は見えない。このケースには封入されていない。
「気に入ってくれて何より。それで仕事の話だが……」
 残念ながら、今の温子に水山の声は届いていない。
 コルト・パイソンの魅惑に取り付かれて頭が蕩けている。
 熱で茹でられたように瞳に霞が掛かる。
 あれほど忌避していた世界がこんなにも……文字通り手に取れる近さに有ると、嫌悪や因縁が遠くに追いやられる。
 唯の一言も無い。
 心の中では懐かしさ以上に美しさに感動する自分が居る。
 捨てたはずの過去の事も忘れ、純粋にコルト・パイソンの流麗なスタイルに酔い痴れる。
 温子が裏社会と縁が無くとも、この2挺を目にすれば同じリアクションをしただろう。
 この銃は、自分から美しさと獰猛性を誇示している。
 これを否定するのはこの世界の全ての芸術的モチーフを否定するに違いないとさえ錯覚する。
 心の中がすうっと無心になる。
 いつまでも凶銃コルト・パイソンを眺めていたい。
「!」
 顔面の近くで指をパチンと鳴らす音が聞こえた。瞬間に反射的にアタッシェケースの蓋を閉めて背筋を伸ばしてしまう。
 完全に2挺の輪胴式に心を奪われていた。
 麻薬で酔わされたような酩酊感が一気に覚めた気分だった。
「大丈夫かね?」
「え、ええ……」
 水山はニヤニヤしながら温子の横顔を見る。
 温子は動悸が治まらず、鼻で荒い息をしている。
「早速で悪いが、仕事の話をしよう……」
 水山から聞かされた依頼内容は覚えている。
 交換した幾つかの条件も覚えている。
 ただ、どうやって自宅のハイツに戻ったのか覚えていない。
   ※ ※ ※
 ヘルプの仕事が少し多く入った。
 距離が遠い店。
 街から離れる事もあるかも。絶対にメールするから。沢山稼いでどこかに旅行しよう。
 そんな有り触れた嘘を平気で並べた。
 平気で嘘を並べられる自分を唾棄し卑下した。
 水山と交わした約束……良乃の絶対安全。
 盗聴や盗撮といった張り付きも監視も許さない。
 それが第一。
 次にセーフハウスの用意。
 仕事に関する事柄は全てセーフハウスで行う事。そして、拠点はこの街。
 絶対にこの街から出ない。
 水山がどうやって温子の居所を調べたのかは知らないが、想像はつく。大方、子飼いの情報屋から情報を買ったのだろう。
 即ち、良乃を心配させたくないからこの街を動きたくないのだ。
 仕事として『出る』のは仕方が無い。
 だが、拠点はこの街だ。
 この街の暴力組織の勢力図は安定している。
 互いが鎬を削るよりも、手打ちをして、和平交渉を穏便に進めた結果だ。
 目的は警察の介入を防ぐのが目的だといわれている。
 更に、必要なルートの確保は全て水山の支払いで行う事。これは重要だ。
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