咲かない華

 その男の容貌や風貌から様々な憶測を立てるが、その思考に到る自分自身がまだまだ過去に囚われたままの情けない足抜けなのだと諌めて、男から視線を外す。
 今は目前の客に集中する。
 あの男が今ここで銃を抜いて乱射したとしても、今の温子には何の手立ても無い。
 慄き怯えて頭を伏せる演技が精一杯だ。
 願わくば、温子自身の露出する腕や肩から嘗ての面影を捉えられ、且つ過去を知る人間で無いことを願うばかりだった。
 深夜3時に温子の就業は終わる。
 午後10時に入店して3時に終わると同時に明細を貰う。
 現金ではない。振込み明細だ。
 勿論、これは本日分ではない。前日分の明細を渡されたのだ。 
明細を貰わねば銀行に給料が振り込まれないという決まりは無い。店側が従業員に、確かにこれだけの金額を振り込みました、という表明でしかない。
 その封筒をハンドバッグに捻じ込んで店の裏口から出る。
「……!」
 店の裏口。
 普通ならここで人影を見るとすれば、黒服や出入り業者と相場決まっているのだが、背中を刺されるような視線を感じて立ち止まる。
 目前の暗がりには誰も居ない。
 気配は背後。殺気は無い。
 圧倒せんばかりの、覆いつくさんばかりの気配。
 この空間を支配しているかのような重圧すら感じる。
 過去の自分なら、相手が誰であろうと振り向き様に問答無用でズドンとぶっ放していたに違いない。
 今はベージュのワンピースにピンヒールという商売女の姿だ。
 下手に反撃の意思を見せるよりも、鈍感な市井を演じ、気付かぬ振りをしてこのまま歩みを進めるのが賢いだろう。
 だが、温子は思わず立ち止まってしまったのだ。
「…………」
 背筋に奇妙な脂汗が湧き出る。
 足の裏や掌にも汗が滲み出すのが感じられる。
 既に2秒経過した。演技をするには機を逃した。
 肩から力を抜いて観念したかのように脱力する。
 無言で抵抗の意思が無い事を背中で語りながら、ゆっくりと振り向く。
「……水山」
 抑揚の無い声で温子は思わず呟いた。水山(みずやま)と呼ばれた男。2時間ほど前にやってきた、懐に拳銃を呑んだ男は、恐らくこの男の差し金だろう。
 通称が水山。
 本名は誰も知らない。
 年齢は50代後半。
 額から禿げ上がった頭。口ひげが印象的だが、清潔感に欠ける。
 小太りで背が低い。160cmほど。
 灰色のスーツに縄のように草臥れた青いネクタイ。靴も使い古しで、年季が入っている。
 ……身分を隠すには充分な出で立ち。
 平凡な姿形。平凡な日本人顔。
 故に、その眼光の奥に有る得体の知れない『何か』が一層不気味だ。歳相応に老いた顔。眼光だけが差す様に鋭い。
 その男と向かい合う。
 数秒間の睨み合い。
 自分の過去を知るものが現れた。
 温子は焦りを隠せない。
 いつか必ず暴露されるとは覚悟していたが、こんなに早く、自身の過去が『水山に知られてしまうとは』。
 水山。手配師。
 闇社会では鉄砲玉や殺し屋の手配を主とする業務を生業にする男で、何度もこの男の手配する仕事に駆りだされて糊口の糧とした。
 手配師としては優秀で広いコネクションを掌握し、必要な仕事に必要な人材を送り込んで、適正価格で報酬を受け取っていた。
 報酬のピン跳ねなどしない、誠実な男だ……と評価されているが、実際は解らない。
 裏の世界では何が原因で自分の足元が掬われるか解らない。
 水山もそれを存じた男で、不正を閉め出し、仕事をこなす職業人だった。
 その男が……よりによって、自分の過去の殆ど全てに亘る職歴を知る水山が目の前に居る。
 水山は何も喋らず、顎をしゃくってこっちに来いと命じた。
 断ると自分に危害が及ぶ可能性よりも真っ先に良乃の笑顔が浮かんだ。
 何よりも守りたい笑顔が消えてしまう。
 この男の言葉を損ねると、自分よりも良乃が危ないと悟った。
 水山以外に気配が無いのがその証拠だ。
 完全に温子の泣き所である良乃が射程に収められた。良乃が射程外だったり調査外だったのなら、この辺りに実力行使に出るための手勢が控えているはずだ。
 その気配も無い。
 誰も……警護も戦闘要員も従えずに登場したのが最大のアピールだった。
 温子はその抜かりのない水山の老獪に舌を巻いた。
 昔と違い、寸鉄を帯びない中年女を目前にしてもたじろく理由は何も無い。
 水山は踵を返して歩き出す。
 路地裏の夜陰に紛れて先を行く。
 温子はぐっと唾を飲み込んで水山の後を付いていく。
 今夜は……否、今朝は少し帰宅が遅れそうだ。
 水山のあとを歩いて幾つかの角を曲がる。
 繁華街の中心で路地裏といえども、表の通りの喧騒が聞こえて業者や黒服が頻繁に往来する。
 その中で草臥れたスーツの中年と朝帰り組のキャバ嬢が少しの距離を置いて歩いていても誰も気にしない。寧ろ、ここでは当たり前の光景だ。
「…………」
 路地の切れ目で、黒いサーブのセダンが後部座席を開けて待っていた。その座席に水山が先に乗り込む。
 ここで躊躇を見せると、抵抗の意思と捉えられかねないので素直に後部座席に乗り込む。
 助手席から降りた紺色のスーツの青年が後部座席のドアを閉める。
「……流石だな」
 水山のしゃがれた声。煙草と酒で焼けた声。久し振りに聞く声。
 懐かしさがこみ上げる。
 それと同じくらいに嫌悪感がこみ上げる。
 この声が届かない世界に逃げたと云うのに。
 10年かけて平穏無事な生活を築いたというのに、それが瓦解する音に聞こえる声。
 現役ならまだしも、中途退役した裏稼業の人間の前に名うての手配師が現れる時は、面倒事が舞い込んだのと同義語だった。
 退役して10年だから記念品でも持ってきてくれるはずが無い。
 あの世界で12年も勤めたから、それの皆勤賞を持って祝いに来てくれたわけでもあるまい。
 不意にハンドバッグに手を差し込む。
 運転席の男も助手席の青年も顔色が変わるが、水山は宥める表情で2人を見た。
 温子はハンドバッグからいつもの黒い紙箱を取り出してその中から1本のシガリロを抜く。
 それを見た運転席と助手席の男は漸く『懐から手を離した』。
 パルタガス・セリークラブを銜えて坪田パールのガスライターで先端を炙る。
 ゆらりと炎が揺れて芳醇なキューバの香りが車内に漂う。車内のオプション装備の埋め込み式空気清浄機が静かに作動する。
 温子は水山などに興味を持っていないという顔でスモーク処理されたウインドウから歩道を見る。酔客が幾人も通り過ぎる。
「やるか?」
 水山は8オンスのピュータースのスキットルを温子に差し出して、勧める。
 温子は無言で首を横に振る。
 温子の顔は早く用件を言えと叫んでいた。
 苦笑いすると水山はスキットルを呷り、とつとつと静かに喋り出した。
 時折、スキットルを呷る。
 温子は時折、水山の指先を見るが震えている様子は無い。
 中毒というより依存症なのかもしれない。
「『昔に戻れ』……お前で無いとこなせない仕事が幾つか舞い込んでいる。報酬は弾む」
 温子は「はっ」と大きく鼻で哂う。乱暴にパルタガス・セリークラブの煙を吐き出して強い語気で言う。
「私はね、10年前に全部のタマをウイスキーと一緒に腹の底に押し込んだのよ。もう人は殺さない。もう暗い世界で呼吸したくないってね。それを承知であんな大仕事を引き受けたんじゃない。あの大仕事を華に引退する事をあんたも承知してくれたでしょ! もう私の事は追いかけない、私は死んだって。なのに、また、都合のいい使い捨て? もうウンザリ」
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