咲かない華

 ただ、こうして二人並んで秋の訪れを感じさせる風を感じながらアイスコーヒーを飲んでいる毎日が好きだった。
 初めて同居した時は年齢の割りに、生活力の基礎も出来ていない大雑把な女性だと思っていた。
 今では二人並んで食事を作り、洗濯物を片付け、掃除に汗を流す事もある。
 衣替えの時期などは本当に2人の共同作業だ。
 膂力のある温子と指揮をする良乃。
 その後に味わう、良乃の淹れたコーヒー。
 良乃にはたった3年で構築した心地よい空間を誰にも壊されたくなかった。自分も壊す真似をしたくなかった。
 ベンチに座った二人の間に会話は特に無い。
 単純に良乃が疲れてアイスコーヒーを飲みたがっているだけだと温子は思った。
 自分と違って良乃は体力が無い。筋力も無い。精神力も無い。
 普通の人間と足並みを揃えて歩くのに苦労した。
 初めて良乃が自分と同居すると言い出したときは面食らったものだ。 誰にも迷惑を掛けずに、誰にも気にされずに、誰にも構われずにひっそりと暮らす計画が早くも破綻したのだ。
 ハイツの大家の娘。当時は25歳。今では28歳。
 男の影は見えないが、合コンには頻繁に顔を出して失敗して帰ってくる。
 良乃曰く、酒が入るとフレンドリーになりすぎるのが敗因だそうだ。 世間的に言われる、『いい男』を見つけて早く落ち着きたいと漏らす良乃。
 年齢的にそろそろ焦っているのだろう。
 温子のような脛に瑕の有る人間といつまでも同じ屋根の下で暮らしていたのなら婚期は逃す一方だ。
 早く追い出す言葉を捜しているが、気の利いたフレーズ一つ思いつかず、平穏無事な毎日を享受している。
 気が付けば良乃がいなければ、右にも左にも行けないような困った事態に陥る場面も沢山あった。
 嘗て、二つ名を持って鳴らした温子が、婚期に焦る年下の同居相手を可愛いとすら思っているのだ。
 人の形をした猫が、実は万能の家政婦で自分の心の拠り所として居座ってしまった感じがしないでもない。
 パルタガス・セリークラブを銜えながら、左手側に座る同棲相手を見る。
 そもそも、同じ住所で棲んでいるだけの同居人だったのに、近所の人から『内縁の妻同士』として扱われている、ちょっとした理不尽に頭を悩ませる。
 温子は唇を火傷しそうなほどに短くなったパルタガス・セリークラブの吸い差しをポケット型携帯灰皿に押し込んで、それをハンドバッグに仕舞い込む。
 舌を洗う為にアイスコーヒーを啜る。
 良乃はその機会を窺っていたのか、アイスコーヒーのカップが空になると「さあ、帰ろう!」と元気良く立ち上がった。
 疲労は充分に回復したらしい。いつものように気力に溢れる若い声だ。
 少しばかり歳の離れた姉妹。傍からはそう見えるだろう。
 浮ついた噂も無く仲良く同居しているだけ。
 その実態は、互いが互いに生活を依存しあっているので同棲と言った方が相応しい。
 少し顔に陰のある美人の温子。
 元気溌剌で凋落を知らぬ笑顔の良乃。
 奇妙な動機で同居が始まり、同棲に変わるまでに大した時間が掛からなかったのは相性が良かっただけなのだろうか。



 湯浅温子。
 夜は熟年女性を揃えたキャバクラでヘルプとしてバイトしている。
 同じ店で長居するタイプではなく、複数の店を掛け持ちして、気が向いた時にだけ自分のシフトを捻じ込んでもらう。あるいは代打を務める。
 この歳にならないと働けない店があると良乃から聞いて勤め始めたが……。中々に悪くない環境だった。
 その店のトップには程遠いが偶然、指名してくれる客も居る。
 客層も様々。熟女専門のキャバクラでは断然若い年齢。
 その中途半端な年齢で申し分ない美貌を湛えた温子は、それなりに人気が有った。
 幾つかの店からはレギュラーを指名されて引き抜きの声が掛かるほどだった。
 だが、断った。
 一所に長居するのは危険だと過去の経験が報せているのだ。
 そう言った意味では、良乃との甘くも辛くも無い生活は非常に危険だと言えた。
 直ぐに引き払えるようにハイツを賃貸したのに、その生活ぶりの絶望加減から、女子力の塊のような良乃が転がり込んで、手取り足取り自炊生活の基本を叩き込まれる。
 いつかどこかで綻びが出て、崩壊する危険性を孕んだ日常生活だった。
 その日常のワンシーンがキャバクラでの稼ぎだった。
 危険なデート嬢よりは安全。
 スケジュール管理は店側に任せればいい。
 客が豹変しても、嘗ての腕っ節を披露しなくとも、黒服が片付けてくれる。
 それにこんな繁華街のクラブ通りでは酔客の不埒など当たり前だ。
 それに怖気づいていては『夜の蝶』は務まらない。
 【ランディ】……今夜の勤め先。
 何度も世話になっている馴染みの店だ。
 広くは無いが、落ち着いたシックな調子の店内で馬鹿騒ぎをする人間には絶対に場違いだった。
 【ランディ】は繁華街の真ん中に近い絶好のスポットで、客の回転も良かった。
 華やかな世界に熟女を主体にした風変わりな店だったが、その噂はその趣味を持つ人間の間に瞬く間に広がり、不動に近い地位を保っている。
 若いだけで中身の無い『華』に嫌気が差した男性が多く訪れる。……落ち着いた大人が大人の女を求めて導かれる店だ。
 この店では年齢のサバ読みは大した意味は無い。
 【ミカ】の源氏名で通っている温子。
 今夜も薄い生地だけの紺色のドレスに身を包む。ドレスは店側のスタイリストが用意してくれるから実に楽だ。
 薄い生地をミシンでやっつけ仕事で作ったようなドレス。
 少なくとも温子にはそう見えていた。
 糊口を凌ぐ為にこの世界に飛び込んでも、寸鉄一つ帯びる事が出来ない衣服というのは実に心細い。
 まだまだ自分は昔の記憶が抜けきっていないのだと自嘲する。
 ここでは湯浅温子ではない。
 【ミカ】という名のオンナだ。
 男の傍に寄り添い、話に耳を傾け、『呑ませておきながら癒しを与える』。
 そう言う世界のオンナなのだ。
 その【ミカ】を演じる温子の視界に不吉な影が入り込む。
 客の1人が懐に拳銃を呑んでいる。
 上等なスーツにシューズ。
 髪型も貫禄もこの店に相応しい何かしらの成功者。
 温子の背中に電流が走る。
 接客中の温子の心が浮き立って集中できない。
 その男は50代後半。ロマンスグレイの豊かな髪を整髪料で撫で付けて、女達と笑顔を交わしながら、社交的なマスクでタンブラーを呷っている。
――――『作った顔』
――――この街での組織者?
 目の前の中年男性を相手しながら、視界の端に居座るその男に最大の警戒心を注ぐ。
 自分と直接関係が有る人間とは限らない。
 後ろ暗い人間なら拳銃の一つや二つ、懐に呑みこんでいて当たり前。 自分も10年前までそうだった。
 拳銃を遣う人間は……特に拳銃に『命を懸ける』人間は、自分の相棒に並々ならぬ愛情を注ぐ。
 その男の手や肩に注目する。
 指の強張り方や肩の張り方でどれほどの遣い手か解る。
 護身用として拳銃を所持しているのか、仕事道具として所持しているのか。
「……」
 歳に似合わない可愛い仕草で、温子は水割りという名の紅茶割りノンアルのロングタンブラーをくいっと呷る。
 その瞬間だけは口が使えないので喋る必要が無く、自然と視線を目の前の客から外せる。
――――プロね。かなり『遣う』わね……。
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