咲かない華

 軽薄な声が耳障りだったので、ハエを払う感覚で銃弾を浪費してしまった。
 自分が射殺した男がどこの誰で何が目的かはどうでもよかった。
 耳障りなだけだった。
 床に転落した彼の周りに三下連中が集まってくる。
 事務所から温子が出てくる。ゆらりゆらりと定まらぬ足取り。
 良乃の体は置いてきた。
 抱いても寝かせても脳漿や血液が零れ落ちる。触らずに寝かせてやるのが一番だと、良乃の顔にショールを被せて歩いて出てきた。
 事務所の出入り口で転がっていた2.5インチのコルト・パイソンを爪先が蹴る。
 それに気付き、拾い上げる。
 度こそ躊躇わず、自分のコメカミに当てて引き金を引いた。
「……」
 不発。打撃不足。
 引き金を引いた。
「……」
 不発。打撃不足。
 引き金を引いた。
「……」
 不発。打撃不足。
 引き金を引いた。
「……」
 不発。打撃不足。
 引き金を引いた。
「……」
 不発。打撃不足。
 引き金を引いた。
「……
 不発。打撃不足。
 引き金を引いた。
「……」
 不発。打撃不足。
 引き金を引いた。
 『7回』引き金を引いた。
 それでも尚、不発だった。
 薬室を開放して実包をキャットウオークから捨てる。
 その甲高い金属音を合図にしたかのように、床で転がる死体を取り巻いていた三下達は蜘蛛の子を散らすように遁走しだす。
 2秒後。遅延発火。
 階下で6発の暴発。
 捨てた実包が全て遅延発火を起こした。
 確率的には存在しても、有り得ない世界での確率の遅延発火。
 暴発の銃声が建屋内部から消え去ると、今度は幻聴のように良乃が温子を呼び止めた声を聞いた。
 温子は振り向かなかった。
 温子はコルト・パイソンを捨てて歩き出した。
 どこへ向かっているのか自分でも解らない。足の向くままに歩いているだけだ。
 壁に当たればそこで一生立ち止まっているのも悪くは無い。

 湯浅温子としての『温子』はここで終了だ。




「……以上になります」
 秘書の彼女は淡々とレポートを読み上げた。
「これが10年前に、【渡し守】と呼ばれていた湯浅温子が、姿を消していた間に起きていた事実の殆どです。やはり、あの水山が絡んでいました。生きる目標を失って死に場所を探して彷徨っているうちに、わが組織の支配地域に紛れ込んできたものだと推測されます」
 広いだけの執務室。
 揃った木目調のデスクに棚。背後には一面のガラス。眼下に広がる街並み。
 情緒を見せる何物の置き場所も無い。
その大型のデスクで60代絡みの長身の男は椅子に座ったまま、目前で黒いスーツ姿の秘書の女性――履歴書が正しければ28歳――が読み上げた内容を咀嚼するように瞑目した。
 思わず、右手が煙草の箱を求めて懐に伸びるが、自分のオフィスが禁煙だと知って引っ込める。
「で、早く対策を……と、傘下の組織が……か」
 男は重苦しそうに口を開いた。
「はい。今月に入って既に2つの組織が壊滅に近い被害を受けています。早急に手を打たなければわが組織の求心力にも……」
 秘書はそこまで喋って、自分が組織運営に介入しようとするかのような発言をしているのに気がつき、口を噤む。
「そうだな。何とかせねば、な……」
 暫しの沈黙。夕暮れ時の執務室が薄暮に掛かる。
「湯浅温子、か。【渡し守】の二つ名を改名した方がいい暴れっぷりだな……是非ともわが組織に迎えたい人材だ……連絡員を派遣する」
「承知いたしました。人選は?」
「任せる。だが……断られたら始末しろ。放っておけば必ず我々の大きな敵になるだろう。ロシアの連中に2個小隊ほど借りてこい」



 フェイドアウト。



 ここまでが彼女の前日譚。
 ここからが本当に彼女の物語。
 自暴自棄だけで、国内の3分の1を牛耳るアンダーグラウンドの元締めに挽回不能の打撃を与えるに到る。



 だがそれは少しばかり先の話。
 彼女に関する記述は一旦、ここで終了となる。

《咲かない華・了》
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