咲かない華
勝負する気すらない。
良乃が無事に奪還できればそれで満足だ。
追い立てるような銃撃。対して、散発的に2.5インチのコルト・パイソンで探りを入れる。
「…………」
――――匂う……。
――――この建屋は……2階建て……。
――――2階という優位な場所に誰も陣取っていない。
頭上の壁面を這うキャットウォークを眼で追いながら、温子は2.5インチのコルト・パイソンを再装填する。
「……」
――――!
――――『気付いたか』。
キャットウォークの果てには、眼下を見下ろせる事務所らしき部屋が簡素なベニヤ板で拵えられていた。
擦りガラスの向こうの電灯が消えている。
直感した。良乃はそこに居る。
そこに到るまでに、敵の首魁が待ち構えている。
怨恨か売名かは知らない。
自分の手で仕留めないと気が済まないような悪意を強く感じる。
迷わず、キャットウォークを駆け上る。
足裏の鉄板に銃弾が集中する。それに対しては反撃も何もしない。
エサに飛び掛る獣を演じる。三下連中に温子を殺す命令が出ていたとしても、『あの女はあんな連中では仕留められない』という、傲慢な用兵思想が見えるからだ。
正にその通りで、相手にするつもりは無い。
右手の8インチのコルト・パイソンで目前3mに見える、簡素な合板のドアのノブを破壊する。
ドアノブは根元から折れて弾け飛ぶ。
「……」
ドアノブを破壊する銃声と供に、自分を狙う足裏からの銃撃は止んだ。
罠の本命に温子は飛び込んだらしい。
そして罠だから、必ずしも一撃必殺、一発必中、一打入魂とは限らない。
この場合、『温子を仕留める、その覚悟を腹に呑んだ人間が最後の罠』だという可能性が高いのだ。
待ち構える本人が最後の罠。
余程の自信家。
あるいは、その登場に全てを捨てた人間。
切った張ったの世界では珍しくない。
ドアノブが破壊された合板のドアの衝撃でたわんで、軋む音を立てて開く。
その開いた陰に、するりと低い姿勢から入り込んだ瞬間に前転。
外観から分かる通りに部屋は真っ暗。
2挺のコルト・パイソンを構えて部屋の隅々に視線を走らせる。
ぬるりとした嫌な空気。
湿った空気。黴臭い臭い。鉄錆びよりも異質な臭い。
長く居たく無い空気。
「……」
ドアの近くにこの部屋の蛍光灯を点けるスイッチが有る。
点けるのは簡単だ。だが……スイッチをオンにするのを非常に躊躇う自分が居る。
嫌な雰囲気だ。
爆弾が仕掛けられている以上に嫌な雰囲気だ。
意を決し、薄暗がりの中に見える蛍光灯のスイッチをオンにする。
古ぼけた瞬きを見せる蛍光灯。
蛍光灯なのに光量がやや足りない世界が広がる。
そして嗅覚や直感だけが拾っていた情報を視覚が、眼球が、脳味噌が全ての情報を一瞬で汲み取り、一瞬で麻痺した。
「…………」
その場に温子は膝から落ちた。
力無く、両手のコルト・パイソンを手放す。
……否、掌からコルト・パイソンが逃げ出した。
温子の視点は、たった一箇所に注がれる。6畳間ほどの狭い空間。
その隅に生ゴミを捨てるように『頭頂部から後ろを撒き散らした良乃』が転がっていた。
生気の無い瞳は恐怖に引き攣ったまま固定されて天井を見上げている。
右目が眼窩からはみ出している。
額に射入孔。
射入孔の周辺が銃火で焦げている。
死んでいる。
良乃が。
唯のたんぱく質の塊と成り果てて転がっている。
「…………」
全てが停止する。
自分の心臓の鼓動だけが全ての音。
心拍数が跳ね上がる。
なのに血の気が下がる音が聞こえてきそうだ。
時間が、空間が、世界が、全てが遠くに置き去りにされる遊離感。
現実主義者である自分を忘れて、現実から目を逸らせようとする自分。
現実の直視を放棄しようとする自分。
そんな一切合財を奪われ、喪い、失くした非現実的すぎる喪失感に心の全てを支配された。
人間とは、絶望すると叫ばない。
映画やドラマのように、主人公は大きな声で慟哭しない。
絶叫しない。
絶句する。
フィクションでは演出のために叫ぶ。
実際には、想像を絶する脱力に憑りつかれて本当に力無く、その場で崩れる。
意思や理性ではどうにもなら無い。
生き甲斐というものが有るのなら、その生き甲斐たる根底を奪われてしまうのと同義だった。
縋る気力も、縋るモノを探す気も、縋る宛てを頼る気概も思考の全域から消失する。
今引き金を引くとしたら、それは自分のコメカミに向かってだろう。 寧ろ、『絶望の余り自決するだけの気力があればまだ軽症だ』。
良乃が倒れている背後の壁一面に、良乃の脳漿の破片と血液が大きな花を描いている。
至近距離から1発。
銃口を額に押し当てられて1発。
温子は気が触れたようにブツブツと唇を動かしながら、重傷者が四つん這いで歩くように這って良乃に近付いた。
良乃の冷たい頬に手を当てる抱きかかえようと、震える手を首の後ろに廻す。……破壊された頭蓋から、良乃の脳漿の残滓がべちゃべちゃと零れ落ちた。
冷たい体。
体のどこにも温かさは残っていない。
体を揺すれば、それだけ砕けた脳漿の欠片が血と供に床に落ちる……座り込む。
物言わぬ、良乃の悲愴が貼りついた頭部だけがアンバランスに軽い。
座り込み、良乃を強く抱く。
コルト・パイソンを手放したのは失策だった。
今直ぐに欲しい。
今直ぐに自分の頭を吹き飛ばしたい。
もうこの世で日陰を伝いながら生きる意味を失くした。
願わくば、誰か殺してくれ。
温子は表情を失い、涙を落とさなかった。
落とす涙が枯れるほどの辛い目に遭ったからこの世界から逃げた。
10年前に逃げた。
それがまたもこうして涙が欲しい事態に陥る。
もう彼女の心は限界だった。
何も無い事務所然とした部屋の出入り口に背中を向けたまま、涙の出ない、悲しさすら喪った温子に無情にも声を掛ける底抜けに明るい声が降り掛かった。
雑音でしかないその声の主が誰なのかは知らない。
そんな分析は放棄した。
「どうよ? 中々ヤル気の出る演出だろ? ん? どう? これでも優しい俺は充分に悲しむ時間を与えてやったんだぜ。ほら、何とか言えよ。それともコイツが無ければ何も喋れないのか? ん?」
背後の男は声からして20代後半だろうか。声に重さが無い。
売名か怨恨かの判断ですれば、売名の可能性が濃い。そんな彼が爪先で重い金属の塊を軽く蹴った。
良乃を抱く温子の右手側に8インチのコルト・パイソンがくるくると回転しながら床を滑りくる。
「早く拾えよ。早くヤろうや」
そこで不意に彼の声は銃声に掻き消された。
彼の顔面が消失する。
彼の首が不自然な方向に折れ曲がり、一瞬で生命活動が停止する。
彼の体が床に沈むモーションをゆらりと見せる。
紫電の速さで拾ったコルト・パイソン。
その体に4発の銃弾が叩き込まれる。
頭部を失い、既に息絶えている体は銃弾が叩き込まれる度に激しく震え、背後の手摺の隙間から1階の硬く冷たい床へと真っ直ぐ落ちる。
右手に4インチのコルト・ローマンを握り、腹のベルトにも同じ銃身長のコルト・ローマンを差した彼。頭の中身を派手に床に撒き散らしていた。
だらりと右手にコルト・ローマンを提げて背後から登場したのに、獲物を前に舌なめずりする時間を愉しんだ為に一瞬で温子に殺害された。 温子自身はコルト・パイソンを空撃ちするまで発砲した事を悔やんだ。
再装填が面倒臭い。
自分の頭を吹き飛ばす為に1発、残しておくべきだったと後悔している。
弾薬なら懐に幾らでもあるのに、再装填が兎に角、億劫だった。
良乃が無事に奪還できればそれで満足だ。
追い立てるような銃撃。対して、散発的に2.5インチのコルト・パイソンで探りを入れる。
「…………」
――――匂う……。
――――この建屋は……2階建て……。
――――2階という優位な場所に誰も陣取っていない。
頭上の壁面を這うキャットウォークを眼で追いながら、温子は2.5インチのコルト・パイソンを再装填する。
「……」
――――!
――――『気付いたか』。
キャットウォークの果てには、眼下を見下ろせる事務所らしき部屋が簡素なベニヤ板で拵えられていた。
擦りガラスの向こうの電灯が消えている。
直感した。良乃はそこに居る。
そこに到るまでに、敵の首魁が待ち構えている。
怨恨か売名かは知らない。
自分の手で仕留めないと気が済まないような悪意を強く感じる。
迷わず、キャットウォークを駆け上る。
足裏の鉄板に銃弾が集中する。それに対しては反撃も何もしない。
エサに飛び掛る獣を演じる。三下連中に温子を殺す命令が出ていたとしても、『あの女はあんな連中では仕留められない』という、傲慢な用兵思想が見えるからだ。
正にその通りで、相手にするつもりは無い。
右手の8インチのコルト・パイソンで目前3mに見える、簡素な合板のドアのノブを破壊する。
ドアノブは根元から折れて弾け飛ぶ。
「……」
ドアノブを破壊する銃声と供に、自分を狙う足裏からの銃撃は止んだ。
罠の本命に温子は飛び込んだらしい。
そして罠だから、必ずしも一撃必殺、一発必中、一打入魂とは限らない。
この場合、『温子を仕留める、その覚悟を腹に呑んだ人間が最後の罠』だという可能性が高いのだ。
待ち構える本人が最後の罠。
余程の自信家。
あるいは、その登場に全てを捨てた人間。
切った張ったの世界では珍しくない。
ドアノブが破壊された合板のドアの衝撃でたわんで、軋む音を立てて開く。
その開いた陰に、するりと低い姿勢から入り込んだ瞬間に前転。
外観から分かる通りに部屋は真っ暗。
2挺のコルト・パイソンを構えて部屋の隅々に視線を走らせる。
ぬるりとした嫌な空気。
湿った空気。黴臭い臭い。鉄錆びよりも異質な臭い。
長く居たく無い空気。
「……」
ドアの近くにこの部屋の蛍光灯を点けるスイッチが有る。
点けるのは簡単だ。だが……スイッチをオンにするのを非常に躊躇う自分が居る。
嫌な雰囲気だ。
爆弾が仕掛けられている以上に嫌な雰囲気だ。
意を決し、薄暗がりの中に見える蛍光灯のスイッチをオンにする。
古ぼけた瞬きを見せる蛍光灯。
蛍光灯なのに光量がやや足りない世界が広がる。
そして嗅覚や直感だけが拾っていた情報を視覚が、眼球が、脳味噌が全ての情報を一瞬で汲み取り、一瞬で麻痺した。
「…………」
その場に温子は膝から落ちた。
力無く、両手のコルト・パイソンを手放す。
……否、掌からコルト・パイソンが逃げ出した。
温子の視点は、たった一箇所に注がれる。6畳間ほどの狭い空間。
その隅に生ゴミを捨てるように『頭頂部から後ろを撒き散らした良乃』が転がっていた。
生気の無い瞳は恐怖に引き攣ったまま固定されて天井を見上げている。
右目が眼窩からはみ出している。
額に射入孔。
射入孔の周辺が銃火で焦げている。
死んでいる。
良乃が。
唯のたんぱく質の塊と成り果てて転がっている。
「…………」
全てが停止する。
自分の心臓の鼓動だけが全ての音。
心拍数が跳ね上がる。
なのに血の気が下がる音が聞こえてきそうだ。
時間が、空間が、世界が、全てが遠くに置き去りにされる遊離感。
現実主義者である自分を忘れて、現実から目を逸らせようとする自分。
現実の直視を放棄しようとする自分。
そんな一切合財を奪われ、喪い、失くした非現実的すぎる喪失感に心の全てを支配された。
人間とは、絶望すると叫ばない。
映画やドラマのように、主人公は大きな声で慟哭しない。
絶叫しない。
絶句する。
フィクションでは演出のために叫ぶ。
実際には、想像を絶する脱力に憑りつかれて本当に力無く、その場で崩れる。
意思や理性ではどうにもなら無い。
生き甲斐というものが有るのなら、その生き甲斐たる根底を奪われてしまうのと同義だった。
縋る気力も、縋るモノを探す気も、縋る宛てを頼る気概も思考の全域から消失する。
今引き金を引くとしたら、それは自分のコメカミに向かってだろう。 寧ろ、『絶望の余り自決するだけの気力があればまだ軽症だ』。
良乃が倒れている背後の壁一面に、良乃の脳漿の破片と血液が大きな花を描いている。
至近距離から1発。
銃口を額に押し当てられて1発。
温子は気が触れたようにブツブツと唇を動かしながら、重傷者が四つん這いで歩くように這って良乃に近付いた。
良乃の冷たい頬に手を当てる抱きかかえようと、震える手を首の後ろに廻す。……破壊された頭蓋から、良乃の脳漿の残滓がべちゃべちゃと零れ落ちた。
冷たい体。
体のどこにも温かさは残っていない。
体を揺すれば、それだけ砕けた脳漿の欠片が血と供に床に落ちる……座り込む。
物言わぬ、良乃の悲愴が貼りついた頭部だけがアンバランスに軽い。
座り込み、良乃を強く抱く。
コルト・パイソンを手放したのは失策だった。
今直ぐに欲しい。
今直ぐに自分の頭を吹き飛ばしたい。
もうこの世で日陰を伝いながら生きる意味を失くした。
願わくば、誰か殺してくれ。
温子は表情を失い、涙を落とさなかった。
落とす涙が枯れるほどの辛い目に遭ったからこの世界から逃げた。
10年前に逃げた。
それがまたもこうして涙が欲しい事態に陥る。
もう彼女の心は限界だった。
何も無い事務所然とした部屋の出入り口に背中を向けたまま、涙の出ない、悲しさすら喪った温子に無情にも声を掛ける底抜けに明るい声が降り掛かった。
雑音でしかないその声の主が誰なのかは知らない。
そんな分析は放棄した。
「どうよ? 中々ヤル気の出る演出だろ? ん? どう? これでも優しい俺は充分に悲しむ時間を与えてやったんだぜ。ほら、何とか言えよ。それともコイツが無ければ何も喋れないのか? ん?」
背後の男は声からして20代後半だろうか。声に重さが無い。
売名か怨恨かの判断ですれば、売名の可能性が濃い。そんな彼が爪先で重い金属の塊を軽く蹴った。
良乃を抱く温子の右手側に8インチのコルト・パイソンがくるくると回転しながら床を滑りくる。
「早く拾えよ。早くヤろうや」
そこで不意に彼の声は銃声に掻き消された。
彼の顔面が消失する。
彼の首が不自然な方向に折れ曲がり、一瞬で生命活動が停止する。
彼の体が床に沈むモーションをゆらりと見せる。
紫電の速さで拾ったコルト・パイソン。
その体に4発の銃弾が叩き込まれる。
頭部を失い、既に息絶えている体は銃弾が叩き込まれる度に激しく震え、背後の手摺の隙間から1階の硬く冷たい床へと真っ直ぐ落ちる。
右手に4インチのコルト・ローマンを握り、腹のベルトにも同じ銃身長のコルト・ローマンを差した彼。頭の中身を派手に床に撒き散らしていた。
だらりと右手にコルト・ローマンを提げて背後から登場したのに、獲物を前に舌なめずりする時間を愉しんだ為に一瞬で温子に殺害された。 温子自身はコルト・パイソンを空撃ちするまで発砲した事を悔やんだ。
再装填が面倒臭い。
自分の頭を吹き飛ばす為に1発、残しておくべきだったと後悔している。
弾薬なら懐に幾らでもあるのに、再装填が兎に角、億劫だった。