咲かない華

 足跡だけをはっきりと残すのは撹乱だ。
 実際にはもっと数は少ない。
 下調べが万端で、無抵抗なカタギをさらうのに侵入する数は1人居れば足りる。
 帰宅した温子は勿論、呆然とした。
 それも1秒で切り上げて、直ぐに思考を入れ替える。
 この平和な場所は平和ではなくなった。それは動かしようの無い事実だ。
 直ぐに水山に連絡を取り、事態を説明。
 奪還するにしても得物が居る。得物は水山が持っている。
 良乃の目が触れない安全な場所へと2挺のコルト・パイソンを纏めて預けたのは覚悟のうえだった。
 鉄火場に身を置いた人間がハジキを手放すというのは、常識外れに近い自殺行為だ。
 本当に命が危険になる自殺行為よりも、平和な日常を少しでも長く維持する方を選んだ。
 その間に『一山の大きな仕事』をこなして水山とは縁を切るつもりだったのだ。
 今度こそコルト・パイソンともお別れだと思っていた。
 水山は勿論、快諾しなかった。
 水山は温子の身を案じたのではない。
 このまま温子がまたも逃走するのかと疑った。その水山は話しの全容を咀嚼して理解すると掌を返した。
 良乃がさらわれた……この事実は水山にとっても実に『痛い事案』だったのだ。
 温子を繋ぎ止める強力な引き換え条件の良乃がさらわれて殺害でもされようものなら、水山と温子を繋ぎ止める物は何も無くなる。
 今度こそ温子は手の届かないところへと逃げるだろう。
 今度こそどんな条件も呑まない覚悟を見せるだろう。
 是非とも温子には、良乃を奪い返して欲しかった。
 手勢を使うのは危険だと水山は同時に思った。今、他の勢力やライバルの手配師連中にこちらの弱みを見せると、どんな『商売』を持ちかけられるか知れたものではない。
 そういった輩が手を引いている可能性も考えるのなら、この辺で手痛いしっぺ返しの方法の一つとして、温子の暴れっぷりを見せ付けるのも悪くは無い。
 水山はいつもの更衣室を兼ねたトラックを手配させた。
 ……トラックが到着するまでの時間が非常に長く感じられる温子だった。
 温子は仕事用に水山から与えられている携帯電話で、高額な情報料を請求する情報屋を片っ端から当たった。
 単刀直入に話を切り込まない。
 迂遠で、言外に、鎌をかけて個人経営が多い高額な情報屋と直接話をし、情報を手配した感覚だけを頼りに小さな断片を拾う。
 話す相手の呼吸や口調、会話のパターンなどを解析。
 直接あるいは、間接的に関係の有る情報屋を幾つもピックアップ。
 更に絞り込み、「ああ、そうだ。言い忘れていたけど……」といういかにもな口調で、怪しい順に疑った情報屋を更に動揺させる。
 しつこい変な女だと思われるが、恥ずかしいとは思っていない。
 一番怪しかった情報屋に更に深い探りは入れない。
 その情報屋を洗う為に、情報を集めたりばら撒いたりする便利屋という名の探偵に情報を漏らし、殺気立つ『界隈』を探れば完了だ。
 この場合の『界隈』とは、相手がどこの業界の何を生業にしている誰なのか? 組織なのか? 依頼された誰かなのか? を洗う事を意味する。
 即効性は高いが、外れの可能性も同じ確率で存在する。
 その確率が高いか低いかは博打だった。
 早々に更衣室を兼ねるトラックの幌に乗り込んで、着替えをしている温子。
 あの水山が素直に機動力と得物を揃えたのは、ほんの少し意外だった。条件の上に条件を重ねて無理な条件を呑ませるかと想像していただけに拍子抜けだ。
 トラックの荷台でいつもの男が座り込んで煙草を吹かしている。
 何も言わずに座っているだけで害の無い男だ。
 いつも黒いブルゾンにスラックス。
 ただの連絡要員らしい。名前は知らない。外見年齢が40代後半を過ぎているだろうと思わせるだけの男。
 苦みばしった顔付きで、若い頃はさぞや異性に持てたのだろう。
 鉄砲玉の仕事ではないので、全ての私物を預ける事はしなかった。
 気軽にパルタガス・セリークラブに火を点ける。
 紙巻煙草とは違うキューバシガリロ特有の濃厚な芳香が立つ。シガリロを半分ほど灰にした時に、携帯電話が着信を報せるバイブを作動する。
「…………そう。ありがとう。料金は私に廻しといて」
 温子は抑揚の無い声で低く囁くように喋り、携帯電話を切る。
「ねえ、第3埠頭の手前に有る廃棄区画まで車を廻してくれる?」
 温子は機動力として手配された荷台に座る男に鋭く言う。声が少し震えている。
 男は頷くと、携帯電話を操作して通話を始める。
 途端にトラックが走り出す。慣性で温子の体が大きく揺れる。
 運転席に座る運転担当と連絡を取ったようだ。そう言えば、運転席に座る人間の顔を見たことが無い。
 温子に着信が有った内容は至極簡素な報告だった。 
この街の外れに有る港湾部の廃棄区画に『予定に無い』車が1台、入り込んだというのだ。
 時間も詳細に教えてくれたので、それを元に逆算すると、良乃はさらわれて直ぐにその廃棄区画に連行されたらしい。
 トラックが一路、慌てる様子も無く、速度を遵守して路に就く。
 速度違反で職務質問でもされようものなら言い訳が利かない。
 今までに一度も急いだ事が無いのがこの更衣室を兼ねたトラックの長所であり短所だった。
 水山からのバックアップは余り期待しないほうがいい。温子からすれば水山は自分のことを使い捨ての駒程度としか認識していない、と思っている。
 退路を確保する旨が水山から携帯電話で伝えられるが、それも時間制限有りで非常にタイトだった。
 今までも時間制限が厳しい鉄火場というのは幾つも有った。殆どがそれだった。
 今度は純粋に『分かり易い利害』が発生しない、言うなれば、温子の暴走だった。
 その一見すると難解な……ここに来ても温子と水山がまだ腹の探り合いを放棄していない現状で良乃を救出して連れて脱出し、無事に日常を修復するというレベルの高い暴走だ。
 普通ならば、温子は既に手放されている。
 水山に縁を一方的に切られている。
 それでも水山を頼った……否、利用している。良乃の命が救えれば温子としては最低限の勝利条件を得た事になる。
 港湾部。廃棄区画。午前1時。
 深夜の隠密行動を強いられない区画。
 廃棄された倉庫や資材の山、小規模の工場跡が密集する区域で、市の整理計画に組み込まれるも予算が下りずに長年、放置同然のままだ。
 この場所に携帯電話の電波は届く。
 罠の臭いは勿論、する。
 この場所を逆に探知して良乃を追って温子が乗り込んでくるのも計算の内なのだろう。
 敵の正体はこの際、大きな問題ではない。
 心当たりが多過ぎて考えるだけ無駄だ。
 この期に及んで、敵の首魁を目前にして何かしらの問答を繰り返すような真似もしない。全ては銃弾でカタをつける。
 苛立つ神経を宥めるべく、パルタガス・セリークラブを銜えて、火を点け、眉間に皺を寄せて深く吸い込む。
 トラックの幌の中で乱暴に煙を吐き散らす。
 いつもの重量感が、いつもの場所で鎮座しているのを手探りで確認。左脇と右腰にコルト・パイソン。
 開けた状況とそうでない状況が入り混じる場所なので2挺の銃身の長さが違う拳銃は非常に心強い。
 トラックが停止して廃棄区画に向かって荷台から飛び降りる。
 水山からの携帯電話による入電では、少しばかり入り込んだ場所に有る倉庫と隣接する工場跡に人影を見たと、浮浪者の姿をした『情報屋の情報収集要員』がタレコミを入れてくれたそうだ。
 情報屋の末端はこのようにして小遣い稼ぎをするので珍しいリークではない。
 情報の精度を上げるべく、廃棄区画入組んだ路地を曲がるたびに見かけた浮浪者姿の情報屋の末端に1万円札を握らせて情報を集める。
 この廃棄区画を仕切る元締めが情報屋界隈の人間で助かったが、恐らくそれも良乃を誘い出す魂胆だろう。
 誘い出すからには、背後からの闇討ちは相手の望む決闘のスタイルでは無いだろう。
 一対一か一対多数か、必ず自分の腕が活かせる状況で得物を振るい討ち取る事に躍起になるだろう。
 そうしなければ腕前の宣伝にならない。
 他の可能性……例えば、個人的な恨みや、その代行だったとすれば、首を討ったという証拠を掴む為に執拗に温子を狙うだろう。
 水山のライバルによる評判の凋落も考えられる。
 それにしても温子の首が必要。
 必ず仕留めるという自信が有る距離まで温子を誘い出すだろう。
 どの可能性を鑑みても、良乃の誘拐はエサだ。それに態と喰い付いて離れない魚を演じないといけない。
 その為なら、恐らく敵戦力の殲滅も視野に入れる。
 『ここに良乃が居なかった場合』には、温子もどのような非常手段を用いるか自分で想像が付かなかった。
 再び焦りと苛立ちに襲われて、パルタガス・セリークラブを銜える。今度は仕事じゃない。勝手に吸わせてもらう……こんなに立て続けに吸ったら口が臭いと良乃に叱られるかな? と微笑の欠片を唇に浮かべながら。
 幾人かの浮浪者姿の情報屋に万札を握らせたところで、有力な情報を掴む。
 廃棄区画の中心近くの廃工場に、急に電気とガスが通ったという。
 先ほど入手した情報と照らし合わせると一致する。
 踵を擦り付けて真っ直ぐ走る。
 サファリジャケットの裏側が汗で蒸れるのを感じる。ジャケットのハンドウォームから焦げ茶色のショールを取り出し、顔の下半分を緩く巻く。
 脚の運び方を自然と『なんば歩き』に切り替え、右手を右腰に当てる。
 現場の直ぐ近く。
 目の前の角を曲がれば『そこが今夜の鉄火場だ』。
「!」
 何も感じなかった。直感だった。
 自分ならこうするという頼りない直感だった。
 その直感に従って右手が閃く。
 ジャケットを跳ねて2.5インチのコルト・パイソンを抜き、片手のダブルアクションで、左半身気味からの発砲を行った。
 狭い路地に耳を劈く銃声。
 角の遮蔽から泥の詰まった麻袋が倒れるような音がした。
「…………!」
――――『やっぱり、居たか』。
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