咲かない華
始終、銃声が聞こえない。それならばそれでいい。
生死を問わずに捕獲されても本当のクライアントの名前を誰も知らないのだ。
最低限の約束は守るだろう。口を割らないと云う約束を。
一際大きな銃撃が始まる。
連中が命を盾にしているのではなく、味方が態と激しい弾幕を張って牽制を仕掛けて、退路の確保に移ったのだ。
その点で言えば、建物の2階の奥まった部屋に到達していなかった温子は有利だった。
直ぐ近くに階下に下りる階段が有り、正面玄関へのルートも自分が片付けてきたばかりだ。
温子は体が求め出したニコチンへの渇望をぐっと堪えて後退りから自分の退路に就いた。
この建物を離れて一番近くの倉庫街へ走り込み、中古の白いカローラに乗り込んで、決められたルートをグルグルと走って足跡を撹乱した後に自分の更衣室になっているトラックと合流。……簡単な話だ。
散発的な銃声を殆ど聞き流す。
建物内部で取り残された組織者連中のささやかな抵抗だ。
当てる気の無い銃弾は、明後日の方向を穿って無為に終わる。
温子は予定通りのルートで予定通りに撤収し、更衣室のトラックの中で初めて冷や汗をかいた。
自分の上着である、サファリジャケットの裾に3箇所と、袖の上腕部の端に銃弾によるものと思われる孔や擦過を見つけた。
絶対に被弾しない、絶対に怪我をしないと決めている彼女にとっては氷で背筋を撫でられたような気分だった。
負傷だけは隠せない。嘘はつけるが、具体的な負傷は嘘も言い訳も出来ない。
鉄砲玉は医療機関に転がり込むことが出来ない負傷をする可能性が非常に高い。
カタギとアングラの二束の草鞋を履いている人間が器用に生きるためには、『有り得ない怪我』をしないことだった。
銃弾による負傷は独特だ。
被弾でも擦過でも特徴的な傷で、素人でもおかしいと感じる。
日常では有り得ないからだ。
良乃がその傷を見て騒ぎ出さないはずが無い。良乃が温子を何とかして医療機関に受診させれば、医療機関の通報の義務から司直の手が入る。
そうなれば即日、温子の過去は表沙汰になり、良乃とはあっけなく破滅を迎える。
良乃が温子の過去を許しても、温子が自分を許さない。
良乃だけは必ず守ると云う約束は、過去の自分との決闘でもあった。これを乗り切れば必ず穏便で平穏で安穏な毎日が送れると信じている。だから何度も水山に念を押した。
今でも押している。
『一山働けば必ず手放してもらう』という、ささやかで大きな条件だ。
アシを洗ってからも、誰かに過去を弱みに取られるのは可能性としては充分に考えていた。
その際の尻の拭き方も考えていたのだ。
必ず最後には自由になることを前提とした交換条件。
水山は笑っていた。大したことが無い条件だと思っているのか、条件を守るつもりが無いのか。
様々な条件を提示したが、その小さな条件だけは何よりも守って欲しいのだ。
その条件を完全に飲ませるのに、必要な温子の気構えは負傷しない事だった。
サファリジャケットに開いた孔を見て、心底肝が冷えた衝撃が消えた辺りで、服に孔を開けてしまうほど動きが鈍くなったのか、と腕前の衰えを感じて、本当に苦い苦笑いが漏れる。
今夜も何とか命を拾った。
否、何とか嘘を成就できそうだ。
※ ※ ※
温子の鉄砲玉としての働きぶりは、暫く眠っていた界隈を叩き起こすのに充分だった。
経歴不詳の腕利きが彗星の如く現れて、現場を掻き乱したり浚ったりするのは日常茶飯事だが、嘗ての腕利きが再び銃を手にとって暴れ出し、更にそれがあの噂の女だったと判明すれば情報屋も繁盛する。
手配師の水山は自分が嘗ての最強の一角に数えられていた、女の鉄砲玉を飼い馴らし、手駒として多方面に派遣している噂は情報屋経由でばら撒かれ、今では更に所得を肥やす存在になっていた。
もう直ぐ冬だ。
そろそろ衣替えも終わる。
キャバクラで働いているという設定を生きる、温子は少しばかり意識的に自堕落な生活をして、生活力の鈍さを演じていた。
半分、演技ではない。
当初は本当に生活力が疎くて良乃に魚の捌き方を教えてもらったくらいだ。
味噌汁などは味噌の他に粉末のダシなどを混ぜて味を調整する方法を本当に知らなかった。
「もう。また不精してー」
良乃が頬を膨らます。
表情の端々が本当に可愛い顔をすると、今日も温子は吹き笑いを堪える。
腹の底からの幸せな笑顔を押し殺し、キッチンで洗われずに放置されている鍋や器を見ながらエプロンを纏う良乃の後姿を見る。
少し遅い昼食にインスタントラーメンを作った。豚骨ラーメン。美味しい物を美味しくいただくには一手間を惜しんではならぬという、良乃の金言を守って紅しょうが、ネギ、メンマ、味海苔、ハムをトッピングしただけでなく、付属のごま油以外にも買い置きのごま油を一滴垂らして胡椒を振った。
冷え込みそうな時期に食べる豚骨ラーメンはどうしてこんなに腹に染み渡るのだろうと思いながら食べ始めたのが1時間前。
脂に油を足してギトつく成分が胃をコーティングするから美味くなる説と、ごま油の旨味成分が豚骨ダシと調和を奏でて味に深みが増す説を仮説として、脳内で戦わせている最中に食べ終えた。
腹に収まって、満足感と満腹感が得られたので双方の仮説は一旦保留にし、インスタントコーヒーを淹れてパルタガス・セリークラブの紙箱を手にした時、良乃が帰宅して呆れ返っていたというわけだ。
悲劇はその日の晩に起きた。
これも予想された事態の一つだ。
温子はこれでも嘗ては二つ名を以って荒らしまわった鉄砲玉だ。
金を貰えばどちらの勢力にも買われる。
買われたからにはそれ以上の値段でクライアントを鞍替えするような尻軽な気概ではない。
最初に貰った金額分と、次に繋がるだけのサービスをして売って廻った。
温子は今となっては有名人だ。
その界隈で、温子の復帰を知らぬ者は居ない。この街を中心にした組織者の間でも温子を雇う値段はどんどん釣り上がる。
温子の何が魅力なのか。
それは単価が安いのだ。……少ないとはいうが、実際に上前は手配師の水山が跳ねている可能性は不明。
それを加味せずとも彼女に払われる金額は安い。
それでも確実に仕事をこなす。そして質が高い。
彼女1人で練った作戦なら、髪の毛一本の匙加減で注文通りに依頼を履行する。
安く、確実。依頼する側にとって、安くてイイモノは嬉しいセールスポイントだった。
その温子の首を討ち取って跡を継ごうとする、あるいは売名の種にする輩も大勢居る。
その輩たちが問題だった。
どんなに温子がセーフハウスを経由して自宅のハイツに戻っても、情報は漏洩する。
水山が悪いのではない。悪いのは水山の配下かもしれない。金次第で何でも調べる情報屋かもしれない。
自宅のハイツが狙われた。
事件が起きた時間を逆算すると、温子がいつも通りに出勤して……今夜は普通にカタギの店でアリバイの一片を作るために働いていたその時間に、ハイツに何者かに侵入されて就寝中の良乃がさらわれた。
弱みを握られた。物理的に。
帰宅した時には見事なまでに、足跡しか残っていなかった。
壁や柱や家具、調度品に瑕や乱れは無い。
誘拐や拉致を専門とする業者の仕業だろう。
足跡は複数。普通に見れば4人。4足分の靴底のパターンが見られる。
生死を問わずに捕獲されても本当のクライアントの名前を誰も知らないのだ。
最低限の約束は守るだろう。口を割らないと云う約束を。
一際大きな銃撃が始まる。
連中が命を盾にしているのではなく、味方が態と激しい弾幕を張って牽制を仕掛けて、退路の確保に移ったのだ。
その点で言えば、建物の2階の奥まった部屋に到達していなかった温子は有利だった。
直ぐ近くに階下に下りる階段が有り、正面玄関へのルートも自分が片付けてきたばかりだ。
温子は体が求め出したニコチンへの渇望をぐっと堪えて後退りから自分の退路に就いた。
この建物を離れて一番近くの倉庫街へ走り込み、中古の白いカローラに乗り込んで、決められたルートをグルグルと走って足跡を撹乱した後に自分の更衣室になっているトラックと合流。……簡単な話だ。
散発的な銃声を殆ど聞き流す。
建物内部で取り残された組織者連中のささやかな抵抗だ。
当てる気の無い銃弾は、明後日の方向を穿って無為に終わる。
温子は予定通りのルートで予定通りに撤収し、更衣室のトラックの中で初めて冷や汗をかいた。
自分の上着である、サファリジャケットの裾に3箇所と、袖の上腕部の端に銃弾によるものと思われる孔や擦過を見つけた。
絶対に被弾しない、絶対に怪我をしないと決めている彼女にとっては氷で背筋を撫でられたような気分だった。
負傷だけは隠せない。嘘はつけるが、具体的な負傷は嘘も言い訳も出来ない。
鉄砲玉は医療機関に転がり込むことが出来ない負傷をする可能性が非常に高い。
カタギとアングラの二束の草鞋を履いている人間が器用に生きるためには、『有り得ない怪我』をしないことだった。
銃弾による負傷は独特だ。
被弾でも擦過でも特徴的な傷で、素人でもおかしいと感じる。
日常では有り得ないからだ。
良乃がその傷を見て騒ぎ出さないはずが無い。良乃が温子を何とかして医療機関に受診させれば、医療機関の通報の義務から司直の手が入る。
そうなれば即日、温子の過去は表沙汰になり、良乃とはあっけなく破滅を迎える。
良乃が温子の過去を許しても、温子が自分を許さない。
良乃だけは必ず守ると云う約束は、過去の自分との決闘でもあった。これを乗り切れば必ず穏便で平穏で安穏な毎日が送れると信じている。だから何度も水山に念を押した。
今でも押している。
『一山働けば必ず手放してもらう』という、ささやかで大きな条件だ。
アシを洗ってからも、誰かに過去を弱みに取られるのは可能性としては充分に考えていた。
その際の尻の拭き方も考えていたのだ。
必ず最後には自由になることを前提とした交換条件。
水山は笑っていた。大したことが無い条件だと思っているのか、条件を守るつもりが無いのか。
様々な条件を提示したが、その小さな条件だけは何よりも守って欲しいのだ。
その条件を完全に飲ませるのに、必要な温子の気構えは負傷しない事だった。
サファリジャケットに開いた孔を見て、心底肝が冷えた衝撃が消えた辺りで、服に孔を開けてしまうほど動きが鈍くなったのか、と腕前の衰えを感じて、本当に苦い苦笑いが漏れる。
今夜も何とか命を拾った。
否、何とか嘘を成就できそうだ。
※ ※ ※
温子の鉄砲玉としての働きぶりは、暫く眠っていた界隈を叩き起こすのに充分だった。
経歴不詳の腕利きが彗星の如く現れて、現場を掻き乱したり浚ったりするのは日常茶飯事だが、嘗ての腕利きが再び銃を手にとって暴れ出し、更にそれがあの噂の女だったと判明すれば情報屋も繁盛する。
手配師の水山は自分が嘗ての最強の一角に数えられていた、女の鉄砲玉を飼い馴らし、手駒として多方面に派遣している噂は情報屋経由でばら撒かれ、今では更に所得を肥やす存在になっていた。
もう直ぐ冬だ。
そろそろ衣替えも終わる。
キャバクラで働いているという設定を生きる、温子は少しばかり意識的に自堕落な生活をして、生活力の鈍さを演じていた。
半分、演技ではない。
当初は本当に生活力が疎くて良乃に魚の捌き方を教えてもらったくらいだ。
味噌汁などは味噌の他に粉末のダシなどを混ぜて味を調整する方法を本当に知らなかった。
「もう。また不精してー」
良乃が頬を膨らます。
表情の端々が本当に可愛い顔をすると、今日も温子は吹き笑いを堪える。
腹の底からの幸せな笑顔を押し殺し、キッチンで洗われずに放置されている鍋や器を見ながらエプロンを纏う良乃の後姿を見る。
少し遅い昼食にインスタントラーメンを作った。豚骨ラーメン。美味しい物を美味しくいただくには一手間を惜しんではならぬという、良乃の金言を守って紅しょうが、ネギ、メンマ、味海苔、ハムをトッピングしただけでなく、付属のごま油以外にも買い置きのごま油を一滴垂らして胡椒を振った。
冷え込みそうな時期に食べる豚骨ラーメンはどうしてこんなに腹に染み渡るのだろうと思いながら食べ始めたのが1時間前。
脂に油を足してギトつく成分が胃をコーティングするから美味くなる説と、ごま油の旨味成分が豚骨ダシと調和を奏でて味に深みが増す説を仮説として、脳内で戦わせている最中に食べ終えた。
腹に収まって、満足感と満腹感が得られたので双方の仮説は一旦保留にし、インスタントコーヒーを淹れてパルタガス・セリークラブの紙箱を手にした時、良乃が帰宅して呆れ返っていたというわけだ。
悲劇はその日の晩に起きた。
これも予想された事態の一つだ。
温子はこれでも嘗ては二つ名を以って荒らしまわった鉄砲玉だ。
金を貰えばどちらの勢力にも買われる。
買われたからにはそれ以上の値段でクライアントを鞍替えするような尻軽な気概ではない。
最初に貰った金額分と、次に繋がるだけのサービスをして売って廻った。
温子は今となっては有名人だ。
その界隈で、温子の復帰を知らぬ者は居ない。この街を中心にした組織者の間でも温子を雇う値段はどんどん釣り上がる。
温子の何が魅力なのか。
それは単価が安いのだ。……少ないとはいうが、実際に上前は手配師の水山が跳ねている可能性は不明。
それを加味せずとも彼女に払われる金額は安い。
それでも確実に仕事をこなす。そして質が高い。
彼女1人で練った作戦なら、髪の毛一本の匙加減で注文通りに依頼を履行する。
安く、確実。依頼する側にとって、安くてイイモノは嬉しいセールスポイントだった。
その温子の首を討ち取って跡を継ごうとする、あるいは売名の種にする輩も大勢居る。
その輩たちが問題だった。
どんなに温子がセーフハウスを経由して自宅のハイツに戻っても、情報は漏洩する。
水山が悪いのではない。悪いのは水山の配下かもしれない。金次第で何でも調べる情報屋かもしれない。
自宅のハイツが狙われた。
事件が起きた時間を逆算すると、温子がいつも通りに出勤して……今夜は普通にカタギの店でアリバイの一片を作るために働いていたその時間に、ハイツに何者かに侵入されて就寝中の良乃がさらわれた。
弱みを握られた。物理的に。
帰宅した時には見事なまでに、足跡しか残っていなかった。
壁や柱や家具、調度品に瑕や乱れは無い。
誘拐や拉致を専門とする業者の仕業だろう。
足跡は複数。普通に見れば4人。4足分の靴底のパターンが見られる。