咲かない華

 湯浅温子(ゆあさ あつこ)はそろそろ中年の煩わしさを感じる体を、体重が任せるままに座る。
 簡素なデザインだがしっかりとした造りのベンチが軽く軋む。
 明るいブラウンに染めたロングヘアが風に揺れる。
 秋の風。
 殺人的にまで暑かった季節も終わりを告げ始める。
 クリーム色のワンピースに両手側には買い物袋。この公園のベンチを漸く探し当てて腰を下ろしたところだ。
 もう42歳だ。落ち着きを見せてもいい年頃だと自覚する。
 いつまでも昔のように丁々発止と暴れていられる年齢でもない。
 退く汐を早めに見つけてリタイヤしただけに過ぎない。
 男ならまだまだ現役で活躍できるだろうが、嘗て在籍した世界では女には厳しい。
 10年前に早々に足を洗った。
 簡単に足を洗えるほど生易しい世界ではなかった。足を洗う為に更に手を汚すジレンマ。
 この世界から抜け出す事に呪いを掛けられた気分だ。
 その過去はいつまでも温子の翳となって付き纏うだろう。
 今はそれを頭から無理矢理追い出している。
 禁煙区域で無い公園である事を確認すると、手元のハンドバッグから黒い四角い紙箱を取り出す。
 パルタガス・セリークラブ。キューバ製のドライシガー。
 所謂、シガリロに分類されるドライシガー。少しの間だけハバナの幻想を追いかけたい愛好家に人気が高い製品で、大きな煙草屋なら割と簡単に手に入る。
 その紙箱から1本取り出し、口に銜える。
 坪田パールのガスライターで先端を炙る。
 ガスライターをバッグに仕舞いながら、ポケット型携帯灰皿を取り出す。
 最近は頓に喫煙家に厳しい環境となった。喫煙可能区域で煙草を吸っていても白い目で見られる有様だ。
 過去を忘れる事に執着しても、シガリロを忘れる事には一切執着しなかった自分をふと、思い出して苦笑い。
 快晴よりやや曇り空の午後。
 帽子を被るほどでもない。
 サングラスを先ほどまで掛けていた。
 風が秋の香りを含む。頬が心地よい風に撫でられてそのまま瞑目。広い公園では無い。
 日が高いとはいえ、子供が遊ぶ時間帯でもない。
 この空間を独り占めしている優越感。……その錯覚も直ぐに覚める。パルタガス・セリークラブがもたらすニコチンの効果がふんわりと脳味噌を刺激しただけの幻影だ。
 その静かな刹那が直ぐに破られる。
「温子―!」
 温子を呼ぶ明るい声。
 公園の敷地外から小走りにやってくる20代後半くらいのセミロングの女性。
 活発明朗な雰囲気で十代後半でも通用する瑞々しい若さを保っている容貌。
 猫科の動物を思わせる愛らしい双眸が印象的なその女は、野木良乃(のぎ よしの)。
 付き合って3年になる同棲相手だ。
 温子も良乃も異性愛者だが、利害の一致という冷めた理由で同棲している。
 一も二も無く早く宿が欲しかった温子。
 ハイツの大家の娘として、早く部屋を埋めたかった良乃。
 世話を焼いているうちに良乃は温子が生活力の低いダメな女性だと知って同居する事になった。
 ……そう。当初は面倒を見るために仕方なくの同居だった。今では同棲と変わらぬ扱いだ。
 温子は42歳。良乃は28歳。
 少し歳の離れた姉妹として通用する年齢差。
 良乃は温子の過去を知らない。良乃は堅気の人間だ。温子の過去が何であっても良乃に知られてはいけない。
 もう昔とは違う自分だ。
 あの頃の自分はもう死んだのだ……。そう思うことで自分の存在を維持している。
 銃声と硝煙と血煙の世界。あんな世界に良乃を触れさせてはいけない。
 少しばかり早いリタイヤ。
 今はそれで満足だ。煙草代に困らない程度に生活できる。
 今現在は無職同然。
 キャバクラでヘルプで入る程度の夜の女として生活している。
 良乃はその生活に異を唱えない。
 良乃は自宅であるハイツの近所のスーパーでパートとして働いている。いつも元気で笑顔を忘れない人気者だ。
 コソコソと良乃の働く姿を覘き視ていてもそれは解る。
 彼女に話しかける人間もまた笑顔なのだ。表情を消した世界で生きてきた温子とは明らかに棲む世界が違う。
 困惑した。
 血生臭い狼の懐に、いつの間にか子猫が転がり込んで寝息を立てているようなものだ。
 自分の過去を隠蔽する道具として扱うように考え方を切り替えて現在に到る。
 公園の敷地に入ってきた良乃は、両手にコーヒーチェーン店のカップを持っていた。
 温子はパルタガスクラブ・セリークラブを銜えたまま右手を振ってその笑顔に応える。
 休憩する場所が無かったので、この公園に先に温子が買い物の山を持ってベンチを確保し、その間に良乃がアイスコーヒーを買ってきたのだ。
 良乃の弾ける笑顔。
 この笑顔の根源は何だろう? いつも表情豊かなのに気のせいか、笑顔の比率の方が多い。
 堅気の人間はみんなこんな表情なのかと疑ったが、そうでもなかった。
 良乃自身が暗い翳りを何も背負っていないから、いつも目が眩む笑顔を作り出せるのだ。……同棲しなければ解らなかった事実だ。
 温子と良乃。
 互いに恋愛感情は無い。
 友情は少しばかり持ち合わせている。
 呑みながら良乃の合コンで失敗した話を聞くのが何故か好きだ。
 どちらが家事を受け持つかも決めていない。気が付いた方が率先して家事を片付ける。
 温子は家事が少し、苦手だ。特に軋轢や摩擦は感じない。
 同棲して3年。奇妙な生活だった。恐らくこれはカタギの中でも特異なケースだろう。
 どちらからも独立を表明しない。何と無く。ただ何と無く、生活している。
 お互いの気に入る部分の方が大きく、気に入らない部分が小さいので別居するに足る理由とはならない。
「ああ。有難う」
 温子はアイスコーヒーのカップを良乃から受け取り、大きくパルタガス・セリークラブを吸い込んで2cmほどに成長した灰をポケット型携帯灰皿に落として、右手側に置く。
 買い物の荷物も左手側から右手側に置き換える。
 良乃は何故か温子の左手側に座りたがる。
 その理由は知らない。右利きや左利きに類する唯の癖なのだろう。
 暑さのおさまる日差しの下、2人はアイスコーヒーをストローで啜る。
 本日の買い物は日用品と食材。それに下着。
 一抱えもある荷物を軽々と両手に幾つも提げる温子を見るたびに、良乃は頼もしいと感じる。
 どこか儚げで、ふらっと消えていなくなりそうな寂寞をいつも纏った美人。
 色白で化粧を少し施しただけで見違えるように、余所行きの顔に変貌してしまう便利な顔の造りは同性から見ても妬ましいところ。
 身長は自分よりも10cm以上は高い。本人は173cmを超えていると言っている。
 引き締まった筋骨で中年期から見せる肌の弛みやシミやソバカスは欠片も無い。
 入浴や着替えの際に何度も全裸を見ているが、しなやかな四肢は強靭さと柔らかさが同居するバネを蓄えていて、背筋と連動する腹筋は見事なまで。
 思わず指で突付きたくなる。
 胸は標準より少しばかり大きいと思われる。
 本人が良乃にリークした情報によるとDカップらしいが、その豊な実り具合が腹筋や上腕筋が発達しているので引き締まって見える……なんだか、少し硬そう。
 良乃は温子の太腿や尻を見るたびに、高校時分の美術室に有った彫像を思い出してしまう。
 素晴らしい造形。
 良乃の興味は温子の過去にあったが、温子の過去を詮索する真似は絶対にしなかった。
 それをしてしまえば、この何の変哲も無い平和な毎日が消えてしまうような気がしたからだ。
 それはきっと温子が原因で、良乃が原因のどうしようもない破滅だと思っている。
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