証明不可のⅩ=1

 それにしても。
 と、詩織はあの日の夜を思い返す。
 そこには確かに詩織が望むスリルが有った。
 銃を向ければ従う弱者だと思っていた。
 いつも通りの作業だと思っていた。
 もう消え去ったスリルを求める探求心だと思っていた。
 不意に反撃されて、危うく命を落としそうになった。
 帰宅してから玄関で靴を脱いで顔を隠すマスクや伊達眼鏡を剥ぎ取り、自室へ転がり込む前に、廊下で自慰に耽り出した。
 いつものオナニーとは違う深い快楽。
 満足感。達成感。多幸感。全てが混在して胎の疼きが止められなかった。
 明け方に軽い脱水症状を起こすまで、蒸し暑い玄関で自分を慰め続けた。
 執拗にクリトリスを刺激し続けて今でも少し痛い。
 捻り上げすぎて乳首も少し過敏になっている。
 膣に捻じ込むモノが無かったので、使い捨てライターを浅く差し込んで何度も往復させた。
 膣口はそれで満足だが、肝心のポイントまで到達しないので不満が燻り、その日の夜に、ゆかりに情報屋に手配させた後にバスルームに駆け込んで、厚手のコンドームを3枚重ねた胡瓜を差し込んだ。……無理矢理、不満な分を補った。
 近隣に声が聞こえないように歯を食い縛って大量の飛沫を上げて果てるのに、何時間も掛かったような錯覚がした。
 あの夜のスリルは極上のスリルだった。
 新たな勢力がこの街に上陸したとなると……。淫らに小さな舌先で乾いた唇をペロリと舐めて湿り気を与えてしまう。
 もしかしたら、新しい混沌を望んでいたのかもしれない。
 望んでいるのかもしれない。
 どこの誰が売人か解らない。
 暗がりで声を掛けた人間がカタギかスジ者か……それだけで射幸心を煽られる。
 またも下腹から股間にかけて秘めやかな部分がじっとりと疼き出す。換気扇の下でドライシガーを銜えたまま瞑目して、そっと右手を短パンに差し込んだ。
   ※ ※ ※
「情報屋の仲間内じゃ、この街にやってきた『良く解らないアレ』で頻繁に『取引』されてるよ」
 ゆかりがまたも勝手に上がり込んで、冷蔵庫を漁りながら他人事のように言う。
 コンビニで買ってきたエクレアと牛乳を取り出して遠慮なく胃袋に送り込んでいる。
 ゆかりの万が一を想定して、エクレアは2個買ってある。彼女の冷蔵庫に対する傍若無人は目を瞑らなければ利害と言う意味で損を蒙る。
「仲間内じゃ、自分の所に調査依頼が来て大金を掴むチャンスじゃないかって」
 ゆかりが牛乳をコップに注ぎながら言う。
 調査依頼……。それは謎の勢力や、その勢力を敵視する勢力の両方からの書き入れ時のような感覚だろう。
 この街が平定に近い様相を見せて久しい。
 『新しい混乱が無ければ儲からない』職業も存在する。
 ゆかりの話によると、情報屋界隈では大手の組織だけでなく、その組織に取り入る為に手柄を上げるべく、フリーランスや売れていない半端者も情報を無理して高い金を払って買い取っているので、ちょっとした景気で沸いているようだ。
 ゆかりも今日は朝方まで依頼のメールを選別し、情報専門の手配師に送信する作業で忙しかったらしい。
 勿論、引き受けて情報屋同士で売買するのにも忙しいとの事。
 情報屋の世界では、情報はわらしべ長者と同じ理屈だと言う。小さな情報を少し大きな価値の有る情報と交換するのだが、その際の駆け引きがゆかりは愉しいらしい。
 大きく『育った』情報で使えるモノは片っ端から値段を付ける。
 気が長そうな話に聞こえるが、これはほんの数秒間の話だ。
 数秒間で買った買わないが即決する。
 直感が勝負の面も有る。
 情報屋なのだから情報の鮮度が命だ。
 早く仕入れて早く売り捌かないと価値が無い。
 いつまでも金庫に仕舞っておける情報は割と少ない。
 仮にどこかの組織を転覆させる大きな情報を1人で握っていたとしても、その組織で大規模な人事が行われただけで価値を無くす事も多い。
 全てを牛耳る無敵の情報屋など存在しない。
 どこの業界にも勝者と敗者が別れる要点は存在する。
 一度信頼が失墜した情報屋は二度と挽回できないと言う。
 偽情報を掴まされて、踊らされるだけが失墜の原因ではない。ソースが古過ぎたり、Wスパイじみた行為がバレたり、情報交換でハズレの悪手ばかり打っても情報屋は簡単に廃業になる。
「ねえ、組織Ⅹの情報はどれくらいで買う?」
「有るの?」
「欲しかったら優先的に廻すけど、ちょっとお高いよ。今は組織Ⅹの情報は売れ株だからね」
 組織Ⅹ……言わずもがな、この街に侵蝕しているであろう密売人を操る組織だ。
 先ずは密売。その次は大手のシマのシノギを掠め取って財政難を誘発。
 満遍なく弱体化したところを大攻勢で仕掛けてくる……はず。
 セオリーならその通りだ。
 『今まで』と少し違うのは、カタギにも平気で売人行為をさせている点だろう。
 カタギを真っ黒に染める行為は警察に目を付けられ易い上に、暗黙の掟を破っている。
 どこもかしこも、自分達を守るために、自分が進んで火の粉である警察を遠ざける為にカタギには手出ししていない。
 そのカタギを黒く染めて手先に使うのは、少々悪辣だと詩織は思っている。
 奇麗事を言う気は無いが、これも自分を守るための気苦労だ。
 カタギに手を出さないうちは警察も目を瞑っている場合が多い。屑同士で殺しあっているうちはまだ黙っている。
 それをどこの誰とも解らない奴らに、横紙破りにされたのでは均衡や暗黙の掟が土台から崩壊する。平穏な闇社会が荒らされてしまう。
 とは言え、今の詩織にできる事など何も無い。
 謎の組織をもぐら叩きのように潰す依頼が有れば引き受けるまでだ。 正義感や義侠心からの意思ではない。
 利害が一致しただけだ。
 依頼者は組織Ⅹが邪魔。
 組織Ⅹを潰す仕事は割りと報酬が良い。
 今は注意喚起を促しながら横の連携を強めるしかない。
 折角この街は一つの組織に統一されようとしているのだ。反対派や敵意を持つ負け犬組織と手を組まれたら厄介だ。
 ここに来て、尚も組織Ⅹの姿形が見えないのが不気味だった。
「ゆかり……『面白そうな』仕事が有れば廻して……って、どうせ何か持ってるのでしょ?」
 リビングで足を伸ばしてレディース衣料の雑誌を読んでいた詩織がぶっきらぼうに言う。
「当たり。一つ有る……この街のどこの組織でもない密売人と三国人との取引現場を荒らす仕事なら有るわよ。強盗と違って好きなだけ人を撃っても良いから」
「殺人が趣味と言うわけじゃないわ。で、他に知っている情報屋は?」
「多数ね。早い者勝ち。クライアントはこの街の支配者様よ。使い捨ての『腕の立つ三下』を集めて放りこみたいらしいわ。自分んちの戦力は削ぎたく無いと言う、実にホワイトなお考えで」
 そこまで喋るとゆかりはエクレアを頬張り始めた。
 詩織も雑誌を置いて、ブリキの灰皿と使い捨てライターといつものクリーム色の紙箱を持って台所の換気扇の真下に来た。
 ハンデルスゴールド・バニラのセロファンを剥きながら思考を巡らせる顔で天井を見る。
 ハンデルスゴールド・バニラを口に銜えて、やおら使い捨てライターの火で先端を炙る。エクレアのバニラの匂いに負けないバニラ風味の紫煙が立ち昇る。
「募集人数は?」
「5人」
「それでコトが足りるの?」
「取引現場は市外の港湾部で、取引の双方足して10人程度。生け捕りが好ましいけど……まあ、無理でしょうね」
「生け捕りに成功したら?」
「ボーナスが出るわ」
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