証明不可のⅩ=1

 その背後からFN M1910を突き出し、手を挙げろと常套句を並べて財布を奪ったのだが、ポケットの端からパケが転がり落ちた。
 そのパケには青いマジックインキで、大きくバツのマークが描かれていた。
 その瞬間に地雷を踏んだのだ。
 青いバツマーク。
 密売人が持ち歩くサンプルだ。
 そのパケには興味が無いと弁解の為に口を開くより早く、少年達はスナブノーズを抜き放ち、詩織に向かって突然発砲した。
 少年達は即座にシマ荒らしだと思ったのだろう。
 一切が問答無用だった。
 反撃されると言う心の準備が整っていない詩織は、不意を衝かれて反応が遅れて咄嗟に身を捩って苦し紛れに発砲するしかなかった。
 少年2人の上層組織はどこの息が掛かっているのかは分からないが、この街の中の組織だ。
 知らない組織ではない。
 問題は、末端の密売人が強盗に遭って密売のサンプルを『外部の人間』に知られたと言う事実が少年達の寿命を短くしているのだ。
 だから少年達は必死で証拠を揉み消そうと、詩織に反撃して追いかける。
 少年達は詩織を知らない。
 そんな事は少年達にはどうでもいい事だ。自分達が年少の密売人である事がばれたのが問題だった。
 この場を切り抜けて、少年達の上層組織と話をつければ簡単に解決するはず。
 多少の手打金は払うだろうが、この街で生きていくための必要経費だ。
 この街ではどんな姿をした誰が麻薬や武器を密売しているか解らない。外見だけでは詩織でも判別できない。
 顔写真を見て覚えても、直ぐに入れ換えがあるので覚えるだけ無駄なのだ。
 それだけ巧妙に販売ルートが隠匿されている。
 その隠匿された一部を偶然にも少年達から知る事になった詩織は、その場で殺されるに足る充分な理由を作ってしまった。
 詩織にとって何が心細いか……。それは充分な弾薬を携行していないのが心細いのだ。
 路地裏を伝いながら繁華街から離れる。
 時々、エアコンの室外機からの熱風に顔を撫でられて不快な思いをする。
 左手で衣服のポケットをぽんぽんと叩く。手探りの感触で、予備弾倉は1本しかない。バラ弾が10発ほどポケットに押し込まれている。
 即ち、予備の弾は合計で16発前後しかない。
 FN M1910の弾倉には残弾4発。
 ……実包を装填して持ち歩く癖の無い詩織のFN M1910は少年達を襲撃する直前にスライドを引き、薬室に実包を送り込んだのだ。
 『ただの路上強盗を働くのならこれで充分だった。』
 発砲しない事も有るのだ。
 それにコストの面から言っても発砲するのは賢くない。
 1万円奪うのに3万円の拳銃を持ち出すのはバカバカしいのと同じ理屈だ。
 規模は小さいながらも鉄火場に変化した状況。
 敵は2人。
 否、追撃者は2人。
 無駄な発砲は控える。
 光源が乏しく、気温も湿度も高い空間。
 早くも喉が渇く。路地の切れ目に見える自動販売機が神々しく見える。
 今は自動販売機で冷静にミネラルウォーターやスポーツドリンクを買っている暇は無い。
 少年達の歩幅は大きい。直ぐそこまで近付いている。
 少年達は連携が取れており、無為な発砲はしなかった。
 薬室の実包の切れ目に反撃を試みるべく、耳を済ませながら走ったが、1人が発砲している間にもう1人が補弾している。
 互いをカバーしあう練度を持っている。ヤクザの事務所に乗り込むのとは違った度胸が必要だった。
 一方的で先制的な暴力が大前提の鉄砲玉とは違う。軽い感覚で弱者から金を強奪するのとでは心構えが根本から違う。
 自分を高めて、氷のように頭を凍らせて、深呼吸でタイミングを計って、ヤクザの事務所に殴り込みをかけるのとでは次元が違う。
 ちょっかいを出した標的が獰猛な肉食獣だった……そんな驚愕だ。
 さしもの詩織も、判断力が低下してしまい、イニシアティブを奪われっぱなしだ。
 たったコップ一杯の冷たい水で全てが解決するような錯覚に囚われる。弾薬よりも冷水が欲しい。
 一番面倒なのは、自分が殺されても、相手を殺してはいけない事だろう。
 連中の『上位組織』がどこなのか判然としない。
 なので、死なない程度に負傷させて手当てをして詫びを入れる余地を作らなければならない。却って、連中は詩織を殺してもお咎め無しだろう。
 フリーの強盗を1人撃ち殺した。売人だとばれたので口封じに殺したと言えば、上司や『上位組織』は納得する。
 連中には殺す動機が有り、詩織には殺してはいけない理由が有る。
 この場を上手く纏めるには無力化させるのが一番だ。
 違う意味で正攻法なのは、この場からの遁走を成功させる事だ。
 後日にゆかりを頼って少年達の上位を洗ってもらい、落とし前を付ければ良い。
 落とし前を付けずに有耶無耶にする方法も有る。それは少年達が詩織の姿形や特徴を全て忘れている事だが、それは不可能だ。
 今更、奪った財布を返却しても何も好転しない。
 こうしている間にも銃弾が左右の壁面を削り、寿命を縮めている。パーカーの裾が38口径の弾頭に弾かれてファスナーの一部が破損する。
 牽制の1発。
 振り向き様に引き金を引く。
 無に等しいサイト。
 走りながらの定まらないサイティング。
 願うような1発。
 銃声。
 9mmショート。
 威力は少年達のスナブノーズの38口径と同程度だが、FN M1910の発砲音は鋭く突き抜ける印象を受ける。
 その弾頭は背の高いほうの少年の太腿に命中する。背の低い方の少年はパートナーが突然落伍したのを見て足を止める。6m以上の距離が開く。
「…………」
 負傷した少年を見ながらおろおろと頭を抱える。
 大丈夫だ。死にはしない。止血さえ適切ならば充分に助かる。その腰のベルトを効果的に使え……詩織は心の中でそう唱えながら路地を抜けて遁走に成功した。


 翌日、襲撃した少年2人の身元の洗い出しと、背後の組織関係を洗ってもらう。
 意外な事に背後が無いシマ荒らしだと判明する。
 更に二日後には、この街に侵蝕しつつある新しい組織の背後関係の足跡が見え隠れし出した。
 その事実を知っているのは、この街で一体どれだけ居るだろう? 他所の組織か外国の勢力か。
 どちらにしても放置できない。
 ゆかりに情報屋のネットワークを用いて注意喚起を促してもらう。
 レスポンスとして幾つか似通った情報が見つかった。
 この街は明らかに狙われている。
 組織の規模は不明。正体も不明。売り物が麻薬だけなのかそれ以外もなのか、それともこの街を陥落させるための橋頭堡を確保する工作なのかも不明。
 得体の知れない組織は、密売人として堅気の人間を多用している事が特徴で厄介だった。
 事が大きくなりすぎると司直の手が入り、今後の活動が大きく制限される。
 警察関係者の鼻の下に嗅がせる薬の金額も大きくなる。今までは社会のゴミ屑同士が殺しあっていただけだが、社会不安を煽るような事態を招く恐れがある。
 この街を仕切る組織の一部の部署では、既に情報屋を用いて情報収集に躍起になっているとの事だが、『解り易い足跡』が見つからない為に食いつきようが無いのが実情だ。
 それを思えば、あの夜に遁走を計るのではなく、少年を2人とも負傷させて口を割らせるべきだった。
 あの少年2人からも何か情報が得られたかもしれない。
 今更、過ぎた事を悔やんでも仕方が無い。
 詩織は自宅の台所で換気扇の下に立つとブリキの灰皿を開けて、愛飲しているドライシガーを口に銜えた。
 街がどうなるか解らない時でも、いつものドライシガーはいつものバニラの香りを漂わせていつものように換気扇に吸い込まれていく。
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