証明不可のⅩ=1

 詩織がどんな手段を用いても、この『男』には絶対に勝てない。
 顔も姿も見ていない。振り向けば終わりだと思った。
 だから振り向かなかったのではない。恐怖に震えたのではない。
 今はただ、いつもの安心するドライシガーを吸っていたかった。
 ベレッタの少女に対して憐憫は無い。
 勝利した達成感も無い。寧ろ、ここまでして勝負に出る必要が有ったのか、何故彼女は真正面から勝負を挑んできたのか、そして少女はどこの何者で何という名前なのか。
 ……謎しか山積しない現実から逃げる為に、ニコチンの心地よさに体を任せた。
 一瞬だけ、疲労を感じ、背後に居る男――口調と声の雰囲気から30代半ばと推測――が、自身を「俺が【河川砲艦】だ」と名乗り、そう自称する男が止めを刺してくれないかと願った。
「……あの娘は決して弱くはない。これからの人生で誇りにすればいい。生まれてこの方、殺す事しか知らないあの娘が初めて自分の意思で勝負を挑んだ。君は胸を張れ。それが彼女の為だ……『お願いだ。胸を張ってくれ』」
 姿を確認していない、背後に立つ男はそう言うと、靴の踵をコンクリに擦り付けて体の向きを変えた。
 わざと靴の音を立てて歩き去るような動作で去っていく。
 靴底の抑揚の無い音だけが耳の奥にいつまでも残る。
――――胸を張れ……ねえ。
 詩織はコンクリの地面に、短くなったハンデルスゴールド・バニラを押し付けて揉み消す。FN M1910を無造作に手に取り、ベルトの位置でも直すような仕草でホルスターに仕舞い込み、立ち上がった。
 依頼通りに2kgの麻薬は無事に奪還した。
 それ以外の金品は何一つ、ポケットには落としていない。
 当たり前だ……それがプロだから。
    ※ ※ ※
 この街から野川詩織という素人女優が消えて久しい。
 その存在は最早ネットの海で漂流する動画の中でしか確認できない。
 ……尤も、もう随分と大人びただろう。
 あどけなさも充分に抜けて女の顔になっているだろう。衣服のセンスも変わったに違いない。
 ゆかりは、ある日突然、姿を消した友人を探すべく自分の情報網を駆使してプロにあるまじき、私用で、個人的理由で極秘の回線も伝も開いた。
 だが、ハイツに家具も全て置いたまま、預金通帳も何もかも置いたまま、詩織は消えた。
 辿る情報は無数に有るはずなのに、どこの街にも界隈にも詩織を探し出すことは出来なかった。

 とある地方の砂浜に、投げ込まれたと思われるFN M1910が見つかったが、それが詩織の所有していた物かどうかは、関連が不明だ。



 数年後。
 嘗て詩織が居座っていた街の勢力図は大きく変わり、組織Ⅹとして得体の知れない強敵として扱われていたロシアンマフィアが橋頭堡をこの街に築いて、各地で抗争事件が頻発していた。


 それと同じく、組織Ⅹの飼い犬と思われる【河川砲艦】は事実上の戦力となり、この街のどこかに潜んでいた。
 その【河川砲艦】の傍にはベレッタM1934を使う20代半ばの伊達眼鏡の女性が常に付き従っていた。
 鉄火場ではキャスケットに伊達眼鏡と立体マスク。
 黒髪のセミロング。豊満な胸を晒しで巻いて折角の性的アピールを抑え込んでいた。

 その姿をゆかりが視れば、一発で野川詩織その人だと看破できだろう。

 だが、少し前に何者かに背中から撃たれて絶命し、この世には水島ゆかりという女性は存命しない。
 水島ゆかりという情報屋は居ない。
 情報屋を殺す不逞な輩を探す動向も直ぐに鳴りを潜め、いつもの抗争で慌しい街に戻った。


 この街に、野川詩織を深く知り、理解できる人間は居ない。
 唯一の理解者である水島ゆかりも居ないのだ。


 水島ゆかりは、過去を消す為に野川詩織に消されたと憶測する者も居たが、それは推測の域を出なかった。

《証明不可のx=1・了》
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