遠い海の下

 広いキッチン。10畳ほどの広さが有る。
 デザインと機能を融和させたシステムキッチンで、大型の冷蔵庫が2つ有る。
 よく見れば電子レンジや湯沸しポットも2個ずつ有る。
 標的の家族構成は5人。その内、この邸宅で住んでいるのは3人。
 この規模の台所で生活臭が有り、常に清掃が行き届いている事を鑑みるに、この家には多数の人間が出入りする機会が多いというのが分かる。
 標的はこの家の家長である茂田雄二(しげた ゆうじ)。62歳。
 表の世界と裏の世界を繋ぐ窓口として成功しているのか、金の流れが潤沢で羨ましくなる。
 裏の世界の人間が、表の世界に手を出すのは何もルール違反ではない。
 表の世界に対して、裏へ引き摺り込む為のルートや糸口を配置するのも、裏の世界では常套なのだ。
 新規参入には甘い。故に、甘い味を覚えさせる役目は重要だ。
 如何に裏の世界……麻薬や非合法賭博が魅惑的で旨みが大きいか、堅気に侵食させるのは一定の腕前が必要だ。
 魚釣りよろしく、釣り針を垂れて待っているだけでは大物は掛からない。積極的にアピールする必要が有る。
 そして堅気の人間が気が付いたときには、引き返せないほどの泥沼に浸かっている。……その手口を主にした窓口の総帥といったところだ。
 裏の世界への入り口はどこにでもある。
 特殊な世界ではない。日常と隣りあわせではない。日常と地続きなのだ。
 その出入り口を一手に引き受けているとなると、実入りも莫大な物になる。
 台所を素早く抜ける。
 左右に広い……然し、国内の家屋の設計基準を遵守した広さ。
 左右に広い廊下が続く。
 右や左にドアや階段が幾つも見える。
 脳内に見取り図を叩き込んであるので迷う事はない。
 そもそも、自宅の内部を侵入者を想定して、迷路状に拵える人間の方が特殊だ。
 逆に、そのような特殊な設計の方が印象に強く残り、見取り図を覚えるのが簡単だ。
「!」
 廊下の角。
 鉢合わせする、二十代後半の男。
 家族の写真には無い顔。
 空かさず左手でその男の口を押さえる。
 一瞬だけ声が出なければいい。右手に構えたスチェッキンがサプレッサーを装着しているので、全長が長くなっている。
 右肘をやや引き気味にして、引き金を引く。……銃口を男の鳩尾に押し当てたまま。
 男は目玉が飛び出んばかりに剥いて、口と鼻から呼吸を吐き出してその場に蹲るように倒れて体を折ったまま動かなくなった。
 スチェッキンの銃身は固定式なので、相手の体に銃口を密着させたまま発砲しても問題なく作動する。
 この場合の狙いは、銃声を更に小さくする為に密着させたのだ。
 スチェッキンのサプレッサーの先端に血液が付着し、その水分が硝煙に混じって熱で蒸発する。
 空薬莢が無機質な音を立てて転がる。サプレッサー付きのスチェッキンでも屋内での発砲は尚早だった。
 見た事の無い、情報に無い男の顔。
 情報には無いが、想定に有る存在。
 恐らく警護要員……それも警備専門の『護り屋』と呼ばれる職業の人間だろう。
 今しがた撃ち倒した男は絶命していない。虫の息だが充分に助かる可能性がある。彼は放置する。構わない。構っていられない。
 その男の懐から1911を抜き出し、左手だけで分解して各部のパーツを近くのゴミ箱に静かに落とし込む。
 レーザーサイトの照射ポイントと視線を合わせる。前進する。
 今の銃声で屋内に動きが有った。
 茂田はフィクサーを名乗るだけあって、子飼いの暴力団を直ぐにでもこの邸宅に呼び寄せるだろう。
 護り屋は戦わない。
 弾幕を張って対象を逃がすだけだ。
 ボディガードを生業とする彼らは、映画の中のボディガードじみたアクティブな活動はしてはいけない。
 戦えば、そこから前進して襲撃者を排撃しなければならない。
 あくまで、防御の為の存在だ。
 そこに留まり、対象が退路に就くのを確認し、安全な場所に退避させるのがセオリーだ。
――――来たか!
 2階のフロアや階段の辺りが騒がしくなってきた。
 足を速める。
 折角のサプレッサーだが、淑女の時間は終わりだ。
 派手に撃たせてもらう。
 セレクターをフルオートに切り替える。左手で予備弾倉を引き抜く。 レーザーサイトは咄嗟の照準で頼りになる。
 その赤いポイントの上方に視点を固定するイメージで2階へ続く角へ来る。
 一旦、角に出る前に急ブレーキを掛けて止まる。大きく呼吸。
 スチェッキンを構えた右手を角からサッと突き出し、直ぐに引っ込める。
 銃声。2つ。
 異種の銃声。階段の上に少なくとも2人、居る。
 頭を押さえたつもりで、侵入者を撃退したと、安心していないはずだ。
 直ぐに弾幕を張る準備をするだろう。
 その階段へ通じる通路を左右へ反復横飛びの様に移動し、連中に姿を一瞬だけ晒すと言う挑発を不規則に繰り返す。
 その度に連中は無駄弾を吐く。
 この挑発で罵声を浴びせない辺り、やはり、護り屋だろう。練度は今一つだが、最低限の訓練は受けているようだ。
 何度目かの挑発。
 その間断に突然スチェッキンを発砲。2、3発の短い指切り連射。それを2回。
 空薬莢が小気味良く吐き出される。
 心地よい耳障りと裏腹に階段の上から2人の重傷者が転がり落ちてくる。
 何れも胴体に2発命中。
 美華の挑発に乗って無闇な発砲を繰り返し、弾切れを誘われてその隙に仕留められた警備要員だ。
 この邸宅内部のどこに何人の警備要員が配置されているのかは不明。警備は予想できても、人員を予想するのは不可能だ。
 殺し屋が自分のクライアントを明かさないのと同じく、護り屋が自分の警護対象について詳らかにしないのと同じだ。
 階段を1段飛ばしで駆け上がる。
 思った以上にサプレッサーの出番が無くなるのが早かった。
 これだけの騒ぎになれば、サプレッサーの消音性は無意味だ。
 こちらが音を発しなくとも向こうが音を発する。今頃はこの邸宅に向かって増援が殺到している頃だろう。
 早く片をつけなければ。
 裏手口の左上に民間の警備会社のステッカーが貼られていたが、その警備会社を頼りにする事は無いだろう。
 これだけ邸宅内部で騒ぎが大きくなって、重傷者と空薬莢が転がれば、何も知らない民間企業を呼びつければ警察沙汰は免れない。
 ちらりと天井の煙感知装置を見る。……それも役には立たない。煙を感知する防災設備は消防と直結している場合が有るが、室内での鉄火場を想定して護り屋が前からオフにさせていたのだろう。
 硝煙は煙感知センサーに反応し、けたたましい音響を発して火災の発生を報せてしまう。
 同時に消防に通報が自動的に入る。……この辺りの仕組みも映画の中では割と無視されがちな話だ。
 立ち込める硝煙と言うのは厄介で、風の通りが悪い屋内では発砲し過ぎると、自分の硝煙で目前が煙で濁って、標的を捉え難くなる難点が有る。
 恐らく、護り屋もそれを計算しているのだろう。視界を阻害する為に煙幕でも張る気なのかもしれない。
 階段を昇りきり、左右に銃口を振る。
 咄嗟に、床に伏せて右手側に折れる通路に向かって3発撃つ。
 角の遮蔽に控えていた2人の男が、銃声に押し戻されて頭を引っ込める。あのまま立ちっ放しだと良い標的だった。
 伏せた状態から立ち上がり、2、3発の指切り連射を繰り返す。
 牽制を叩き込む。この奥、左手側に折れると茂田の書斎だ。
 この時間は書斎で1人で呑んでいるのが日常だった。
 スチェッキンのスライドが後退して停止する。弾が切れた。
 弾倉を交換し、乱雑にスライドを引いて実包を薬室に送り込む。首を左右に振る。左右に分かれている廊下。
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