遠い海の下
運転席の20代前半の女性ドライバーがバックミラー越しに美華を見る。
「あら、禁煙車だった?」
「いや……相変わらずいい煙草吸ってるなーって」
平凡な顔付きのドライバーの女性。
服装はやや派手。勿論、衣服のコーディネートは車両による。
運転する車に合わせて衣服を変えて、その車に相応しいドライバーの姿に変身しているだけだ。
ただ、顔付きに対しての化粧は平凡だ。オービスに撮影されても有り触れた顔つきで、閲覧者に強い印象を残さないための工作なのだ。
「20本で3000円もしない安葉巻よ。あなたも吸う?」
「遠慮する。喫煙は悪だとは思わないけど、タイトな仕事のときにニコチン中毒でまともな判断が出来なかったらアブナイからね」
「そりゃ、ご尤もで……」
美華は言葉に反してモンテクリスト・クラブの紫煙を細く長く唇の端から吐いた。
やがてシボレーは隣県への境を越えて現場へと真っ直ぐ向かう。
繁華街や歓楽街に入ってから、執拗に迂回を繰り返す。同じ道は辿らない。
迷っている印象は与えない。
何かの意図が有って、走っている様子を街頭の防犯カメラに記録させる。
引き受けた依頼はこの街の有力者の殺害。
表向きは堅気の顔。勿論、欺瞞。
後ろの暗い世界のフィクサーと伝を取る窓口の役目を背負っている男で、この街を仕切るためのキーマンの1人とされている。
この街ではまだ群雄割拠は終焉を迎えていない。
有力者や権力者を如何に上手く取り込むかで、今後の展開が流動的に変わる。
その重要な人物を殺害するのが今回の仕事だ。
依頼人の素性は不明。
麗子が持って来た依頼なのだから、背後関係は確かなのだろう。
この街の何れかの勢力が雇ったのだと容易に想像がつく。あるいは……この街を飲み込もうとしている、別の街の勢力が食指を伸ばし始めたか……。
黒いパーカーに黒いカーゴパンツ。
顔の下半分を覆うバラクラバに黒い運動靴。
右手の人差し指と親指を切り落とした、黒いシューティンググラブを嵌めている。左手は左利き用のゴルフ用の手袋。
現場は中央の繁華街から離れた郊外に近い住宅街。
閑静な住宅街で大型の高級な邸宅が壁を連ねている。
午後11時半。タイメックスのコピー品が時刻を黙って報せる。
コピー製品でも正確に機能すれば文句は無い。そのタイメックスにも黒いリストバンドを覆い被せる。
思い返せば、遣い潰す心算で買ったタイメックスのコピーとは長い付き合いだ。
表向きの……高級高層マンションに住まう身分を韜晦する為に、高級腕時計を何本か買ったが、腕枷をしているようで肩が凝ってきた。
チタンフレームの超軽量なモデルでも、『身分を隠すだけの道具』と思った瞬間に、世間向きに生きるための腕枷に思えてならなかった。
牛乳瓶ほどもあるサプレッサーを取り出す。
簡素なバフを仕込んだだけの安物で、フルオート射撃を行えば途端にバフから発砲音が漏れる。
今回は屋内で1人を射殺するだけなのでこれで充分だ。
暗殺に毒や事故死の偽装を用いないと言う点が依頼人にとって重要なのだろう。
殺し屋が直接殺しに来たと言うメッセージを残したいのだろう。
どこの街でも実に読み易いシンプルな力学が働いている。
サプレッサーを装着した後、トリガーガード前方に専用のクリップでレーザーサイトを取り付ける。
サプレッサーが邪魔でサイティングが難しくなるからだ。
レーザーサイトの出力も大したことは無い。
2個のボタン電池で連続稼働時間が3時間程度だ。照射距離も短い。 狙撃をするわけではないので精密な調整はしなかった。
レーザーサイトのスイッチはコードを伸ばしてAPSグリップキットの右グリップパネルに取り付ける。
両面テープで貼り付ける、全く金が掛からない仕様だ。
親指の先ほどの大きさをしたレーザーサイトでも機能は損なわれていないはずだと信じたい。
レーザーサイトのサイティングは車内で自分の顔が写る車窓に向かって調整した。
50cmもない距離。背後から忍び寄って1発叩き込むのならこれで充分だ。
室内での鉄火場を想定しても、大して精緻な着弾は期待しなくても良い。
仕留めて、逃げる。それだけだ。
逃走には今、自分が雇っている運び屋の仲間が逃走経路で引き上げてくれる。
「30分以内にカタをつける……引き上げ、頼むよ」
「了解」
美華はタイメックスの時針を12時丁度に合わせた。
竜頭を引き伸ばし、秒針もリセットする。
再び差し込めば針が回る。それを行ったのは降車する直前だ。
住宅街を徐行よりも少しばかり速いスピードで走るシボレー。
目標の洋館を思わせる邸宅の裏手に到着する。
勝手口。防犯カメラが目を光らせている。
シボレーの後部座席のドアを開きタイメックスの竜頭を押し込み、タクティカルライトを防犯カメラに照射する。
防犯カメラの向こうのモニターには一瞬でハレーションが発生して画面が真っ白になったはずだ。
そのハレーションは焼きつきのように残らないが、カメラの感度が自動的に調整されるまで1分は掛かる。
民間で使われている防犯カメラは光量の極端すぎる変化に弱い。
シボレーから転がり出るように降車した美華は、スチェッキンで裏手口のドアノブを破壊。
弱装弾2発で充分にドアノブを破壊できた。
国内メーカーの有り触れたアルミ製のドアは、銃弾を防ぐ為の強度設計はなされていない。ドアノブも効率よく銃弾を叩き込めば2発程度で鍵の存在を無為に終わらせる。
空薬莢が、舞う。
発砲音よりも空薬莢が転がってアスファルトの地面に衝突した音の方が耳障りだ。
サプレッサー越しの発砲音は銃声を無にする効果は無い。銃声を抑える効果しかない。
映画のようにスマートな発砲音ではない。紙風船を叩き割る音程度に低下させるだけなので、夜の戸外で乱用すると矢張り、付近の住民に存在を誇示してしまう。
千切れ飛んだドアノブの根元を摘んで、ドアを開いた。
スルリと体を敷地内に滑り込ませる。
番犬が猛然と走ってくる。腕を翳して身を守るよりもスチェッキンを伸ばして1発撃つ。
いつもと違う、いつもより心許ない銃声。
レーザーサイトの思わぬ微調整が試せた。
放たれた1発の9mmマカロフ弾は、レーザーサイトが一瞬だけ捉えた番犬の口の中に飛び込んで、今まさに飛び掛らんとしていた番犬の脳漿を後方にぶちまけて声も発さずに絶命した。
絶命したまま惰性で飛んでいた番犬は、良く見ればシェパードだった。
その大きな体躯は美華の背後の壁に衝突して鈍い音を立てた。
吼えずに一目散に不審者に走ってくるのは、民間で番犬としての訓練を受けた犬だ。
本当に人間を取り押さえる為に訓練を積んだ番犬なら吼えながら辺りに警戒を促しながら飛び掛る。
その発砲音でも40mほど離れた母屋の窓に灯りは点らない。
元から明かりが点っている部屋にも変化は無い。
姿勢を低くしてスチェッキンを両手で握り、視線の方向に銃口を向けながら母屋に走る。
母屋の裏手にある勝手口のドアノブに左手を掛ける。
壁に設置されたドアと同質の拵え。このドアノブも吹き飛ばそうかと考えたが、ドアノブを捻ると素直に開く。
「……」
ドアを開き、足音を殺して邸宅内に上がり込む。
「あら、禁煙車だった?」
「いや……相変わらずいい煙草吸ってるなーって」
平凡な顔付きのドライバーの女性。
服装はやや派手。勿論、衣服のコーディネートは車両による。
運転する車に合わせて衣服を変えて、その車に相応しいドライバーの姿に変身しているだけだ。
ただ、顔付きに対しての化粧は平凡だ。オービスに撮影されても有り触れた顔つきで、閲覧者に強い印象を残さないための工作なのだ。
「20本で3000円もしない安葉巻よ。あなたも吸う?」
「遠慮する。喫煙は悪だとは思わないけど、タイトな仕事のときにニコチン中毒でまともな判断が出来なかったらアブナイからね」
「そりゃ、ご尤もで……」
美華は言葉に反してモンテクリスト・クラブの紫煙を細く長く唇の端から吐いた。
やがてシボレーは隣県への境を越えて現場へと真っ直ぐ向かう。
繁華街や歓楽街に入ってから、執拗に迂回を繰り返す。同じ道は辿らない。
迷っている印象は与えない。
何かの意図が有って、走っている様子を街頭の防犯カメラに記録させる。
引き受けた依頼はこの街の有力者の殺害。
表向きは堅気の顔。勿論、欺瞞。
後ろの暗い世界のフィクサーと伝を取る窓口の役目を背負っている男で、この街を仕切るためのキーマンの1人とされている。
この街ではまだ群雄割拠は終焉を迎えていない。
有力者や権力者を如何に上手く取り込むかで、今後の展開が流動的に変わる。
その重要な人物を殺害するのが今回の仕事だ。
依頼人の素性は不明。
麗子が持って来た依頼なのだから、背後関係は確かなのだろう。
この街の何れかの勢力が雇ったのだと容易に想像がつく。あるいは……この街を飲み込もうとしている、別の街の勢力が食指を伸ばし始めたか……。
黒いパーカーに黒いカーゴパンツ。
顔の下半分を覆うバラクラバに黒い運動靴。
右手の人差し指と親指を切り落とした、黒いシューティンググラブを嵌めている。左手は左利き用のゴルフ用の手袋。
現場は中央の繁華街から離れた郊外に近い住宅街。
閑静な住宅街で大型の高級な邸宅が壁を連ねている。
午後11時半。タイメックスのコピー品が時刻を黙って報せる。
コピー製品でも正確に機能すれば文句は無い。そのタイメックスにも黒いリストバンドを覆い被せる。
思い返せば、遣い潰す心算で買ったタイメックスのコピーとは長い付き合いだ。
表向きの……高級高層マンションに住まう身分を韜晦する為に、高級腕時計を何本か買ったが、腕枷をしているようで肩が凝ってきた。
チタンフレームの超軽量なモデルでも、『身分を隠すだけの道具』と思った瞬間に、世間向きに生きるための腕枷に思えてならなかった。
牛乳瓶ほどもあるサプレッサーを取り出す。
簡素なバフを仕込んだだけの安物で、フルオート射撃を行えば途端にバフから発砲音が漏れる。
今回は屋内で1人を射殺するだけなのでこれで充分だ。
暗殺に毒や事故死の偽装を用いないと言う点が依頼人にとって重要なのだろう。
殺し屋が直接殺しに来たと言うメッセージを残したいのだろう。
どこの街でも実に読み易いシンプルな力学が働いている。
サプレッサーを装着した後、トリガーガード前方に専用のクリップでレーザーサイトを取り付ける。
サプレッサーが邪魔でサイティングが難しくなるからだ。
レーザーサイトの出力も大したことは無い。
2個のボタン電池で連続稼働時間が3時間程度だ。照射距離も短い。 狙撃をするわけではないので精密な調整はしなかった。
レーザーサイトのスイッチはコードを伸ばしてAPSグリップキットの右グリップパネルに取り付ける。
両面テープで貼り付ける、全く金が掛からない仕様だ。
親指の先ほどの大きさをしたレーザーサイトでも機能は損なわれていないはずだと信じたい。
レーザーサイトのサイティングは車内で自分の顔が写る車窓に向かって調整した。
50cmもない距離。背後から忍び寄って1発叩き込むのならこれで充分だ。
室内での鉄火場を想定しても、大して精緻な着弾は期待しなくても良い。
仕留めて、逃げる。それだけだ。
逃走には今、自分が雇っている運び屋の仲間が逃走経路で引き上げてくれる。
「30分以内にカタをつける……引き上げ、頼むよ」
「了解」
美華はタイメックスの時針を12時丁度に合わせた。
竜頭を引き伸ばし、秒針もリセットする。
再び差し込めば針が回る。それを行ったのは降車する直前だ。
住宅街を徐行よりも少しばかり速いスピードで走るシボレー。
目標の洋館を思わせる邸宅の裏手に到着する。
勝手口。防犯カメラが目を光らせている。
シボレーの後部座席のドアを開きタイメックスの竜頭を押し込み、タクティカルライトを防犯カメラに照射する。
防犯カメラの向こうのモニターには一瞬でハレーションが発生して画面が真っ白になったはずだ。
そのハレーションは焼きつきのように残らないが、カメラの感度が自動的に調整されるまで1分は掛かる。
民間で使われている防犯カメラは光量の極端すぎる変化に弱い。
シボレーから転がり出るように降車した美華は、スチェッキンで裏手口のドアノブを破壊。
弱装弾2発で充分にドアノブを破壊できた。
国内メーカーの有り触れたアルミ製のドアは、銃弾を防ぐ為の強度設計はなされていない。ドアノブも効率よく銃弾を叩き込めば2発程度で鍵の存在を無為に終わらせる。
空薬莢が、舞う。
発砲音よりも空薬莢が転がってアスファルトの地面に衝突した音の方が耳障りだ。
サプレッサー越しの発砲音は銃声を無にする効果は無い。銃声を抑える効果しかない。
映画のようにスマートな発砲音ではない。紙風船を叩き割る音程度に低下させるだけなので、夜の戸外で乱用すると矢張り、付近の住民に存在を誇示してしまう。
千切れ飛んだドアノブの根元を摘んで、ドアを開いた。
スルリと体を敷地内に滑り込ませる。
番犬が猛然と走ってくる。腕を翳して身を守るよりもスチェッキンを伸ばして1発撃つ。
いつもと違う、いつもより心許ない銃声。
レーザーサイトの思わぬ微調整が試せた。
放たれた1発の9mmマカロフ弾は、レーザーサイトが一瞬だけ捉えた番犬の口の中に飛び込んで、今まさに飛び掛らんとしていた番犬の脳漿を後方にぶちまけて声も発さずに絶命した。
絶命したまま惰性で飛んでいた番犬は、良く見ればシェパードだった。
その大きな体躯は美華の背後の壁に衝突して鈍い音を立てた。
吼えずに一目散に不審者に走ってくるのは、民間で番犬としての訓練を受けた犬だ。
本当に人間を取り押さえる為に訓練を積んだ番犬なら吼えながら辺りに警戒を促しながら飛び掛る。
その発砲音でも40mほど離れた母屋の窓に灯りは点らない。
元から明かりが点っている部屋にも変化は無い。
姿勢を低くしてスチェッキンを両手で握り、視線の方向に銃口を向けながら母屋に走る。
母屋の裏手にある勝手口のドアノブに左手を掛ける。
壁に設置されたドアと同質の拵え。このドアノブも吹き飛ばそうかと考えたが、ドアノブを捻ると素直に開く。
「……」
ドアを開き、足音を殺して邸宅内に上がり込む。